真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第八章  天道の修道法(三)外功の修法ーその2

2024-04-22 17:45:04 | 天道の淵源

(三)外功の修道ーその2

恩師弓長祖は我々に諸人を救う心構えとして、四つの要素を諭されました。

(1)黄婆臉(なこうどのかお)

仲人の顔になれという意味です。

天の縁を結んであげるのに顔の皮を厚くし、恥ずかしがらず、正しいと信じれば躊躇せず仲人役となるべきです。

(2)兎子腿(うさぎのもも)

兎の足のように頻繁に通い続けよとの意味です。

頑迷な人が多い世の中に一度二度話して理解して悟る人は少ないため、疲れずに歩くべきです。

(3)英雄胆(えいゆうきも)

英雄のごとく物怯(ものおじ)せず、誰にでも勇気を鼓(こ)して説き伏せる意味です。

相手の学識・権勢など恐れて、せっかくの縁を錯(あやま)ることなく向かうべきです。

(4)宰相の肚(さいしょうのはら)

宰相の海のような大きな腹を養うべきであるとの意味です。

小事に拘(こだ)わらず寛容にして腹を立てず、清濁合わせ呑む(の)む大きな人物になるべきです。

以上の諸要素を体得していれば、救われざる人はないことを諭されています。

これは孔子様が、「君子の道なる者三。吾能くすること無し。仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼(おそ)れず。」の心構えと軌を一にしています。

つまり、君子が道として履(ふ)み行うべき重大な事柄が三つあるが、自分はその中の何(いず)れをも十分に実行することができない。

三つとは、一つは仁者の徳を積んで内に疚(やま)しい所のない憂いなき態度であり、 

二つは知者の事理に通じて物事の分別に迷わぬ態度であり、

三つは勇者の義に勇んで潔矩(けつく:守るべき正しく清い行い)の道、忠恕の道を行うのに懼れぬ態度である、

と述べられました。

外功への心構えとして仏教の四弘誓願(しくせいがん)に共通の義を見出します。

つまり、

(1)衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

苦海の衆生はたとえ無量無辺であると言えども、誓ってこれを済度し尽くそうとする願望。

(2)煩悩無辺誓願断(ぼんのうむへんせいがんだん)

煩悩は数限り無いと言えども、誓ってこれを断じ尽くそうとする願望。

(3)法門無尽誓願学(知)(ほうもんむじんせいがんがく)

法門は無尽であると言えども、誓ってこれを学知しようとする願望。

(4)仏道無上誓願成(証)(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

誓って無上の道、仏果を完成しようとする願望。

更に、

(一)未済度の者を度し、

(二)未解の者を解しめ、

(三)安心せざる者を安(やすん)ぜしめ、

(四)未涅槃(みねはん)の者に涅槃を得しめるなど、

四十八願あり、三誓偈(さんせいげ)ありで、地蔵古仏のごときは、地獄の亡霊がことごとく極楽へ救われるのでなければ、自分は誓っても地獄から出ない願を立てられたほどで、余程の心願を深くしなければ貪欲・瞋恚(しんに:自分心と違うものに怒り恨む)・愚痴の熾盛(しせい:勢いが激しい人)な世人を挽化することはできません。

若し道を得て自分しか顧みず、清閉安逸を図り、己の安心立命のみ考えて衆生済度を念頭から離したら、私利私欲の類と変わりなく自己陶酔に墜入って、逆に道から遠離してしまいます。

千丈の崖からまさに堕ちようとする兄弟を見て果たして平然としていられるのでしょうか。

船上から海に沈み溺れている同胞を無関心で眺めていられるでありましょうか。

孟子様は、「人皆忍びざる所有り。之を其の忍ぶ所に達するは仁なり。」と言われました。

これは、人には惻隠の心があって、愛するものには気の毒と思う、この心を推して愛さないもの、無関心な人にまで及ぼせば、無慈悲なことをしなくなるであろう。

これを仁というと言われたのです。

法輪を転ずると仏語にありますが、これは正法を得て、その法を自己本霊において転ずるのみならず、能く衆生の悪を摧破(さいは:滅ぼし打ち破る)して善法に依らしめ、一人や一処(ひとところ)に停滞せず、展転して人々に広く伝わることは猶(なお)車輪のごとくであるように願う行です。

法を得ても独り占めにすれば功徳にならないどころか徳を害(そこな)います。

孔子様の説く「潔矩(けっく)の道」も、自分を推量してそれを標準とし、尺度として他人を正しくする想いやりの道です。

しかも、我々は六万余年来、累世に山積の罪業・宿孼(しゅくげつ)を犯しています。

一世の罪悪は三世生まれて善徳を積んでも補いきれません。況(いわ)んや歴世に重なって今日まで至った過失の数々は拭い浄められるものではありません。

一個人の罪ですから無限性を帯びているのに、それが億万の人の所業となればいか程になるか、毒素の形式は斯様(かよう)にして世に蝕み、災難となって地上を滅ぼそうとしています。

今個人だけではなく世を挙げて混乱し、中心を失った人類は戦々兢々(せんせんきょうきょう)としています。

忍びよる末劫の足音に心ある人は神飛び、魂震い、その巨大な残忍と凄惨な災厄に戦慄を禁じ得ないほどであります。

天道降世の主要目的は、老〇様に替わって九十六億の原子霊をこぞって理天へ救い帰らせるにあります。

老〇様は絶対御慈悲で好生を徳とし、万類が善くなることを願われています。

災難は罪を淘汰するもので、人間が自ら招いたに過ぎません。

道徳・世風の頽廃、人心の悪化に伴って厄難も比例して重く反応してきます。

これらの災難を消滅・軽減する道は正法を布衍(ふえん:水が満ち溢れるように広く伝える)し、抜本的な救助として先に法を伝え、心眼を点破し、大威神力をもって災いの氾濫を防止されるのです。

受難時に得道者は神咒(しんじゅ)・心印なる秘法を使うことによって神仏の御加護を受けられますから、心法を広域に伝えた人は外功の成就者と言えます。

十七代路祖以前は特定の人だけに授けられていましたが、今は全ての国・地域・人類・民族におよそ縁ある人なら、ことごとく法船に挽きあげることが許されました。

この聖事に尽瘁(じんすい:心を尽くして骨を折る)することの意義は、いかに深いか繰り返して強調せざるを得ません。

仏堂は固定した場所に設けられていますから、遠隔地・辺疆地(へんきょうち)で集まりにくい場合は移動仏堂と言って、誰彼の家に限らず、臨時に架設して近縁の便を計ることができます。

仏堂の法船は縁者の家に暫時でも錨を降ろして停泊し、名利恩愛・酒色財気に迷える人々を呼び覚まし、還源の時期が到来したことを警告しているのです。

従って道を得た人は急いで更に救いの手を苦海の同胞に差し延べなければなりません。

乗り遅れないように、見失わないように、眼を光らせて凝視すべきです。

誰にでも故郷があり、親戚・知友があります。

その家に行って勤め、移動仏堂を設置すれば、何十か何百かの霊を理天へ連れて帰ることになり、今まで何千年来の互いの因果を浄め、生死流転に結末をつけて大歓喜を味わうことができます。

衆生の仏か、仏の衆生か、恩顧は互いにあるべきで、老〇様は我々の罪を軽くさせるために絶好の機会を与えられたと考えることが望ましいのです。

今のように時勢が混沌としている時に、何時突発事が起こって伝道できない状態になるか分かりません。

猫の眼のように今は一番変遷がいちじるしく、安閑を許されない時期で、天時は正に緊急を極めている時と思って頂きたいのです。

「先んずれば人を制す」で、遅れては功徳の破片も拾えなくなります。

世の先覚者となり、喜々として法の開拓にいそしむべきです。

続く

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