真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第九章 道親諸賢への信書  前半

2024-04-24 17:53:04 | 天道の淵源

第九章 道親諸賢への信書

各地の伝道・修行に精勤なされている道親各位に信書を呈し、心から御苦労をねぎらいます。

縁あって天道の門に入り、師授の至宝をいただいたお互いの幸運を喜び、共に歩調をあわせて師命を遂行し、三曹済度・万国普伝の栄えある聖業に共に尽瘁(じんすい)できる我が身の光栄を感謝せずにはおられません。

過去前賢の払われた犠牲と心血の数々が現在の実績を築き、今の諸賢の労苦と努力がさらに大きな功徳となって、未来白陽の世に称賛され、満八百年間敬仰を受け続けることでありましょう。

三天の大事を果たすことは誰にでも出来ることではなく、その人を得て始めて完うできるのであります。

諸賢も選ばれて道を行ぜられる感激を深く抱き、比類なき任務を痛感し、誇り高い得道者に恥じないよう那挙止行動をなされることを望みます。

承け継いだ大任はさらに飛躍と拡張を計ると共に道務の充実に尽くして前進して頂きたいと存じます。

我々一人一人に十箇条の洪願があって始めて得道できたことを忘れてはなりません。

その願を深く自覚し、さらに人々に天人の理(ことわり)を明らかに説き、人々を地獄から理天へ、暗黒から希望へ向かわしめるよう、説論・勧化に精出すべき必要があります。

同じ時に得道をしても道義を悟って精進する者に加霊と進歩があり、迷執し怠惰する者は遅れて退嬰(たいえい:尻込み、引っ込みじあん)せざるを得ません。

天道には強制すべき戒律や掟(おきて)がなく、全く自由で無名・無位を誇りにしています。

形式に固執せず、ただ天性の発露に従って甘んじて法施に献身するだけです。

神様が全てを主宰し支配なさっておられますから、正しい行為ならば、人が知らず見えずとも周囲を意識すべきではありません。

人間は人間の善行・徳行に階級を定めて論功行賞を加えることはできません。

罪罰も然りであります。

被支配者が支配者的態度や立場になれないし、またなってはなりません。

すべてこの普度収円が終わり、三会竜華会(さんえりゅうげえ:三期収円の時老〇様の御前に於いて功徳に応じて、弥勒古仏によって論功行賞が行われ、封神せられる場所のこと)の時に至って過去二会(青陽・紅陽)の分も含めて、老〇様が弥勒祖師に命じて始めて総決算が致され、功罪の断定がなされるので弥勒祖師の出を待たなければ誰一人として口を開けて論ずる資格はありません。

人の至誠は必ず天に通じます。

むしろ功徳は形の上に顕れた面に少なく、深い信仰を持った人には意識感が全くないものであります。

ただ、得道者は伝道せねばなならないという使命感を強くすればよいと存じます。

人間本来の智能・実力に大差があるとは思えません。

自覚するや否や、やる気があるや否やにかかって物事が運ばれ、成就の遅速に繋がって来ます。

自分の心念がやらねばならないと自覚した時、またはそのような使命を感得した時は、実力の五倍も十倍も本願を発揮でき、逆にそれを忘却した時に半減し、成就できることすら失敗してしまいます。

どうか純粋な初志を貫いて天命に遵い、恩師が与えてくれた了願の機会に信頼を無にしないよう、強い自信を抱いて衆生の頑迷を打破し呼び起こしていただきたいのであります。

一人の人材として立派にその役割を果たすのに、自信と他信の二面性を心に刻む必要があります。

他信とは、自分の外の者が信じてくれることであります。

老〇様から信任され、恩師から信用され、人々から信頼される人であることです。

自信とは、自らが信じ、自らを信じることであります。

真理を探究し、妙玄を参悟して正しい信仰を確立することが肝腎です。

天命を信じ、天盤道盤の応運を疑わずに心深くに受け入れることが修行の基礎になります。

ただ、過信と不信、過大評価と過小評価の弊を避けるため、中を失わずに努力を続けるべきであると存じます。

己が道を深く悟れば別に道義を学ぶ必要はありませんが、人に説くのに他が知っている以上に知らなければ人を化せない不都合があります。

万人を感化するために万人の智慧を越す必要があり学ぶのであって、目的を忘れてはなりません。

なかんずく首要なのは至誠と熱心であります。

真心の伴なわない論理・論義は空虚の響きしかなく、天にも人にも通じません。

従って高邁(こうまい)な論理と説法のできる人であると共に、敬虔な信仰者・礼拝者であることが必要です。

老〇様を敬い尊び、師命を畏(おそ)れ従うと共に自らの脚下を固く踏まえて進むべきです。

自分に信ずる心が不足して一体誰が信じてくれましょう。

諸賢は今まで道務の宏展に少なからず奔走した以上に、今後も諸賢の立たれた足場を拠点として、それぞれの任務を展開し遂行されるでしょうが、特に同じ船に乗り同じ目的に向かっている道親間の団結を強く計ることに尽力して欲しいと思います。

共同運命帯を締めている我々に一人は東に漕ぎ、一人は西に漕ぐようではいたずらに船を遅らせるだけであって、他を置き去りにして自分だけでは進められません。

むしろ大目標に皆の視線を集中させ、向きを同じくし、心を協(あわ)せて全力投球されることが必要で、そのために常に近く親しく、相互に誤解を生じないように認識を深め、交誼(こうぎ)を厚くすることを望みます。

人の差し延べる手を待たず、自ら接近して融和を求め、溝が生じないよう務めるべきであります。

個々の能力と智慧に限度・限界があっても多数の結集した働きは無限です。

一握りの砂を投げても痛くないが、半握りの砂を固く石にして投げれば人の肉を破り血を流します。

善悪に依らず団結は恐いものであります。

群集心理は、善い方にも悪い方にも、向け方によって働きも変わって来ます。

悪い要素が主導権を握れば強い破壊力となりますが、至善の道への牽引力が強ければ輝かしい霊光が宇宙・人界に充満しましょう。

同じ一つの心で働きを分散すれば成就も大きく、一人では支え切れないような重圧・障害であっても皆が手を借して力となれば、軽減し消滅しましょう。

何種類かの生野菜を盛り合わせにして食べれば個々の毒素が相克して消えるのと同じく偏執な習癖も埋め合っていければ自然に浄化されます。

お互いに霊気の交流を近く繁くすることを提唱します。交わり合って磨くうちに新しい智慧、強力な霊能が急増して未知の経験を体得することができます。

続く

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