真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第八章 天道の修道法(二)内功の行法ーその1

2024-04-19 18:40:05 | 天道の淵源

(二) 内功の行法ーその1

先ず自ら邪念の念頭を断ち切ることが肝要であります。

内に邪悪の念を存していると内外に影響して修行を妨害します。

天国・極楽へゆくのも、地獄・陰界に行くのも又、成道・了道して仙仏神聖になるのも、変じて畜生餓鬼になるのも、共に心意の発する所から原因します。

心意に感じた念が行動に移ってゆくので、善を感じた時は善に、悪を感じた時は悪の形に現れて参ります。

自分の心意でありながら全く捉え所がなく、猿・馬の如く駆け走って落ち着きがありません。

先ずこの心猿意馬(しんえんいば)を千生万業(せんせいばんごう)の休息ない転変から阻止し、妄想邪念から正しい夢想正念(むそうしょうねん)に引き戻し、統一集中すべきです。

無が一であり、中ですから、無に帰ることが一に統べることであり、中に集まることです。

心意を修めるとは、意を誠にし、心を正しくすることで、心を鍛錬する要素として凡心に動かず、色心に溺れず、血心に従わず、嫉妬心・怨恨・貪嗔心(とんしんしん)・邪妄心に走らないことです。

凡(およ)そ坐行に効験が少ないのは、心意の収拾法を知らず、心意の放蕩に因由するところが多いのです。

様々な不正や罪、過ちを造るこの心意を、矯正修錬する事はとても大事なことであります。

内功とは、内的に己を修めて成就円熟する修行で、孔子様は一番大事な課題として、「明徳を明らかにする在り。民を親(新:新)にするに在り。至善に止まるに在り。」と此の三綱領を明らかに実現する事のみに存していました。

明徳を明らかにするということは、上天老〇様から授かった自然の徳性、すなわち人間の本性を明らかにし、斯の本性を正しい方向に修磨する意味で、民を親(あらた)にする事は、民衆生(たみしゅじょう)をして己と共に各々其の明徳を明かならしめ、日に新たに真実の人生の諦義を深めて行く意味です。

この二つの事を別の詞で(ことば)で言えば、明明徳は内功で我を修める事、即ち修己(しゅうこ)です。

親民は天下の民をして安心立命、向上発展させることで、つまり外功で救人・治人の意味です。

この二つの修行にいずれも欠くべからざる事は、至善に止まる事で、明師の一点に在って至善玄関、天下が乱れの竅門(きょうもん)が開かれなければなりません。

至高至善の点は唯一であり、我々の霊魂の出入往来の戸口正門であります。

止まるとは心を此所に致す、集め統べる意味で、言葉を換えて言えば、「天性を明かにし、人々を救うには先ず自分の至高至善の生命門に心霊を集め統べるべきである。」ことになります。

人心が険悪になり、天下が乱れ、国治まらず、家斎(いえととの)わず、身が修まらないのは、一人一人が心意を正しく誠にし得ないが故からです。

孔子様は、「其の心を正しうし、其の意を誠にせんと欲する者は、先ず其の知を致し、物に格(いた)るに在り。」と言われました。

自分の心を正しくし、意を誠にしようとする者は先ず自分の知、つまり理であり、体内に宿っている性を尽くし、外物の道理を窮めるべきであるという意味です。

我々の性の門戸を知り、万物の造化の理(ことわり)を窮められたら誠意正心ができ、修身・斎家・治国・平天下を得ることは容易です。道と徳を中心に基づいて過失を改め、非道を誡(いまし)め、三心を掃(はら)い、四相を飛(は)ねて一心無心に帰さねばなりません。

つまり、過去に執着する心、現在に惑わされる心、未来を患う心を一切捨て、虚無真空の心に定住する事です。身・口・意に一切の虚偽を捨てて真実至誠なる心に帰り、疑心を断ちて信心を生じ、翻心し、普遍平等の理(ことわり)を体得して大悲心を起こし、衆生を平等に救うべきであります。

眼が美食を観れば心は色に従って走り、耳が邪声を聴けば心は声に随って走り、鼻が味香を(みこう)を嗅げば心は香(におい)に随って走り、口が美食を貪れば心は味(あじわい)に随って走り、身体が感触すれば心は欲情に随って走るようではまだ心意の修練が熟していないし、心霊の統一が完全ではありません。

心意が走れば精気もそれに偏り走ってしまいます。

精気が傾けば魄力・気力が衰え、ついに精血枯れ、津液渇(じんえきかわ)き、老と病を速めて自ら死を招くのと同じであります。

得道の最大秘宝である玄関の一竅は正に心意を練る唯一の場所であり、霊性の安息所です。

煩悩・妄念等のために軽躁・散乱して落ち着かない心意を玄関の中に閉ざし、時々刻々玄関から離れてはなりません。

心意を常に玄関に存し、玄関を掌握し、守れば、著しい霊力となって照り返ってきます。

その常住の法を忘れたら即座に妄想が生じて心神が不安定になります。変化してやまない心意を縛り着けたら顛倒妄想を遠離し、雑念痴愛の心も自然に消滅して失(なく)なります。

玄関に念を致して先ず呼吸の調息を計り、精気神の循環浄化に従って霊気霊光が充満して参ります。

稍(や)や久しく経てば円通純熟を得て、いかなる繁華・歓楽や喜愛の事でも動揺せず、隙が無いから邪魔の入り込むこともなく、誘惑に負けることもありません。

恐怖不安も除かれ、大円鏡智に至って通じざるものはなく、達せざる事もありません。

「眼通」とは、眼で神仏の姿を見るのではなく、霊眼を以て全身全霊で神仏の御心を感じ取ることです。

我々の自在心・菩提心は胸部心臓部に在るのではなく、玄関にあるのです。正法は眼蔵にあります。眼横鼻直(げんのうびちょく:原典では【玄嚢鼻直】)にあります。

臨済録(りんざいろく)にも、「一無位の真人があり、汝の面門より出入りす」と、謎として載っています。

心経の中に、「眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなく、眼界もなく、乃至(ないし)意識界もなし。」とありますが、これは心意を完全に玄関に収めた時の状態を言っています。

慧眼・法眼・仏眼・天眼も表現作用の差があっても同じ玄関からの働きに外なりません。

これは霊の親、老〇様の天命によって恩師弓長祖が開餮(かいさく:山や岩を切り開いて道や運河を通すこと)して下さったのですが、弓長祖の命なくして扉は開けられません。玄関は神秘的場所で聖書経典にたくさん謎名詞として載っています。

霊山塔・十字架・至善之地(しぜんのち)・谷神(こくしん)・玄牝(げん品)・双樹林・方寸の土・般若・聖霊の宮・黙示する所、などは皆玄関の別称であり、修行者の最重要眼目です。

玄関は天道の三宝の一つで、更に無字真経と心印があって三宝とし、我々の心身を救って下さるのですが、古今未だに公開を許されなかったものが、総てこの三期に始めて普く皆伝されました。

これは天機であって妄りに漏らせません。

普通、煉丹・坐行等によって心身の修練をしていますが、玄関が開かれないと目標が定まらず、従って正しい的に心意を統べることができず、盲修瞎煉(もうしゅうかつれん:片目で且つでたらめな修錬)してしまいます。

続く

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