老子様は「惚(こつ)たり恍(こう)たり。その中に象あり、恍たり惚たり。その中に象あり。窈(よう)たり、冥(ぺい)たり。その中に精あり。その精は甚(はなは)だ真なり。」また「吾はその名を知らず、強いて名づけて大道と謂う。」そして「大道は無形にして天地を生育し、無情にして日月を運行し、無名にして万物を長養す。」と無の働きの極まりなきを教えておられます。
孔子様は「四時(春夏秋冬)を行い、百物を生ずるも何をか言うや。」と、感嘆されました。
孔子様の説く「天」と老子様のいう「道」はすなわち天道の根本義を指しておられます。
真に無形・無情・無名の世界こそ絶対の世界であり、そこにこそ一切の象があります。
無一物なるが故に無尽蔵であります。
絶対無の懐の中にこそ一切の有は存在し得るのです。
あらゆる宇宙生物はその暗示や意思に基づいて働きます。
道も空も天も名称こそ異なっていますが同じ無極であり理であり、根源創造主(上帝)の慈悲深いお姿であります。
有形の物象はいかに剛(型)くとも終始があり、やがては破滅を免れません。
釈尊は「一切の有為の法は夢玄泡影(むげんほうえい)の如し、亦電の如く露の如し、応(まさ)にかくの如く観るべし。」と申されました。
物象はいかに貴くても本末があり、終始がありますが、それに執着して真諦を見失っているようです。
生者必滅の原理から考えても人間界に真常を求める事態がまちがいであります。
聖訓に「日月は光なりと言えども終に尽きるあり。」とあります。
久遠に不易の法を求める人はまずこの真偽を見極め妙理に徹する必要が肝心であります。
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