(四)情理的と合理的・非合理的及び妙理
理を情理的、合理的に考えることができます。
合理性に物事を当てはめて解決しようとします。
不合理を否定した合理は当然と思いますが、合理か不合理かを未だ判明しない非合理性をも拒絶することは賢明ではありません。
今は非合理であっても未来に合理化することが沢山含まれているからです。
合理的な考えは、目先の生活環境に照らし合わせているので、例え大きい所から言って合理的であっても、差し当って合理性がない場合があります。
この点から言って、聖者の経典や神仏の諭(諭)に是が非常に多く含まれています。
これを妙理と言った方が良いかも知れません。
この妙理を認めるか否かに人間の価値・不価値や人格の高い低い、信念の強い弱い、信仰の深い浅いの度合いにかかっています。
妙理は悟ることによって、或いは一層合理化になり変わるでしょうが、凡人は多くそれによる合理化を計らないで、目前の損得をもって決めつけます。
善悪を直ちに己の立場と尺度で断定しようとし、近代の法律と国情の習慣に照らし合わせて一切を量ろうとします。
しばしばその中には血も涙もない処理が行われ、刃物のような冷たい浮目を見るものもあります。
情理的とは目前の事態を善悪・理・非理、いずれともはっきり区別することなく、その発する以前と未来も併せて考慮し、情状酌量をして現在より一層より良い結果になさしめるもので、長い目で見て人を活かし、物を利し、事を円満にまとめる慈愛的性質を含んでおります。
小人の情理は私情にに流れる恐れがありますが、君子は情理一体の見解で必ず最高の効果を産み、鮮やかな解決を見出すものであります。
とにかく真理は厳粛なもので左右前後何れにも偏ってはなりません。
両端の軽重も長短も大小も全く同じようであらねばなりません。
孔子様の弟子に子路(しろ)様と冉有(ぜんゆう)様とがいました。
ある日、「師よ、善事を聞いたままそれを行ってもよろしいでしょうか?」 二人が同じ質問をしますと、子路様に、「家に父兄がいるから、当然父兄に聞いて直に行え。」と答え、冉有様には、「よろしい、速やかに行いなさい。」と答えられました。
そばで聞いていた他の弟子の一人公西華(こうせいか)様が、「師よ、なぜに同じ質問に両極端の言葉をもって教えられたのでしょうか?」と聞くと、孔子様は、「子路は、日常行動が非常に積極的すぎるが、冉有は普段消極的すぎる。各々性格に大きな差異があるのでそのように答え、二人に中和を教えたのである。」と答えられました。
過不足なく行動できる人こそ真理に通ずると言えます。」宇宙の真理は、常に有難い霊的作用があり、その中に静的と動的とを含んでいます。
真理とは絶対静にして常に厳しいものであり、常に流動して止まないものであります。
そして、厳しさの中に優しさを兼ね備えていますが、それだけでもなく、しかも両者に共通しているものは大いなる慈悲心であります。
この大愛を深く観ずることによって、あらゆる相対的見解を越えた絶対無の境地の処に到達でき、中和が得られるのであります。
この理を解せないものは偏狭な行動に走り、その結果が例え一時的には善と見えても、ある場合には必ず悪だと判断される範囲の狭い在り方となり、有期限・有範囲なものであることをよく知るべきであります。
善だと断定することは、片方の悪の観点に立脚したものであり、悪だと断定するには必ず悪の定規を自己流にあてた上の判断であり、至善は絶対善で、如何なるものの上にも当てはまるものであります。
真実の中に常に深い愛情を持ち、生活の中に豊かな潤いを持ち、厳しい中にも優しさを失ってはなりません。
自力本願だけに過ぎると果ては傲慢になり、他力本願だけに偏ると最後は怠惰になります。
その何れにも偏らずして中和の道を歩むことが真理に則した在り方であります。この点から言っても人生を始めから楽しいものと思うよりも、むしろ苦であると考えた方が賢明であります。
無を悟った人はその中に創造の厳粛なることに感極まりますが、有相に執着した人はやがて無に帰した時の儚(はかな)さと侘(わび)しさに悶え苦しみます。
一国の王者と言えども、一人の聖者よりも遥かに小さい存在であります。
現実的観点からすれば、、前者はあらゆる角度からみても勝れた幸福者に思えますが、永久的観点から擦ると、権力をもって人を服せしめたものは必ず滅亡します。
後者は空の本諦を悟り、情理一体の徳をもって人を心服せしめ、悦びを満たしめ、その霊覚は万古不易にますます輝くものであります。
まことに道を得た人は永遠に生き、道を得ない人は滅び去るのみであります。
どうか真実なる人間の行き方に志して頂きたいものであります。
続く