真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第六章 真実なるもの (三)賢人と愚人の諦め方

2023-10-12 18:50:21 | 天道の淵源

(三)賢人と愚人の諦め方

賢人の諦めは始めからすべての理を統合しての上ですから、清浄で美的なものです。現実の世の無常を悟り、超然として常に寛容であり、私利私欲のためのもではなく、相手をも救おうとします。

終始本来の理を心得ているから利して害せず、為して争うとしません。

自然の又事物の在り方を尊重し、その処に在って常に環境に染まらず、達観して生死も無く己れを自重して、人事を尽くして天命を待つ人であります。

宇宙の真髄を掴(つか)んでいるから行うことは徳をもって人を心服せしめ、法をもって人を同化して已(や)まず、凡俗の中に在って慈愛に満ち溢れていて常に霊光四隣に光り、泥沼の中から優美な蓮華が咲き誇る如きものであります。

所詮(しょせん)、争っても無益な物に貴重な心霊と時間を浪費しません。

内部の充実を計って外面を飾り立てようとしません。

老子様のお言葉に、「良貨は深く蔵して虚しきが若(ごと)し、君子は成徳があってその容貌は愚なるが如し。」とありますが、手持品の少ない商人は店頭に多く飾って客の歓心を集め、購買欲を誘って早く売り、次の運転資金に回そうとして実に多忙で終始つかず、無理算段をしています。

それに比して倉庫に多くの良い品物を積んでいる商人は決して売り急ぎはせず、宣伝をしなくとも毎日絶えず客足がつきます。

同じように徳の無い人は徳に執着したり、善を追い回し、体面を飾り、人前を繕(つくろ)い、より懸命に利巧に見せようと努めます。

徳の高い人は一見愚人のごとき存在に見えたり、朴訥(ぼくとつ)に映りますが如何なる辺鄙(辺鄙)な山奥にいても、自ずから多くの人が集まり、いつのまにか天下の大道ができてゆきます。そして、そこがすべての中心になります。

一つの中心が動けば、すべての周囲が和となって追従していきます。

昔、中国の堯帝(ぎょうてい)は、臣下の舜帝(しゅんてい)が他に類を見ない高い徳望と秀でた識見を持っているのを感じて、自分の帝位を譲ろうとされました。

舜帝は当然その息子が嗣(つ)ぐものと信じて、堯帝の逝世後、自分から都を避けて南河(なんが)の南平(なんぺい)に移られました。

ところが、その徳を慕った天下の民衆が挙げて舜帝の下に集まり、謁見(えっけん)・訴訟・刑政・奏楽歌頌(そうがくかしょう)すべて舜帝に向かってなされました。成徳ある君子は、よく抜本塞源(ばっぽんそくげん:大元のところから処理する)に反することは為すべきではないことがよく分かっているからです。

誠意と偽善はどんなに隠しても形に顕れてきます。

従って賢者は栄枯盛衰の人生劇を軽視して重きを置かず、正法を悟り、理に徹し、真諦を極め、本性に近づくために修練を続けて行きます。

自己を売る為の技策を弄(ろう)せず、自らを重んじて永遠不滅の真如を常に見つめて行こうとします。

その姿には自然に寛容が溢れ、威厳が具わってきます。

かくしてその行動は常に万人の師表(しひょう:世の人の模範)となり、尊崇され、その言葉は記述されて万世に感謝を受け続けられます。

凡人の悲しさは得てして現実を如何に弄せず速やかに楽を多く得るかに狂奔します。

この再びと還ることの不可能な貴重な人身のある一瞬を、一日を、半生を、そして一生を終えるまでの百年足らずの中(うち)に、苦と楽の繰り返しを倦(あ)くことなく続けているのです。

現世に受けられる総ての幸福だと思われる条件を叶(かな)えようとして、必死に明け暮れているのです。

そしてある程度の自分の理想に到達しますと、今度はそれを失うまいとして亦、不安と恐怖に襲われ雑念と煩悩に苦しみます。

しかし今、まさに一生も終わりに近づき、功成り名を遂げたと評される老人達に、「あなたの一生は苦であったか楽であったか。」と問えば、おそらく彼等は等しくこう答えるでしょう、「いや、筆舌に尽くせぬほどの苦悩の連続であった。」と。

あるいは、「波乱万丈の一生であった。」と。自分ほど数奇な運命を辿った人はなく、世界中の苦を自分一人で独占して荷(にな)ってしまたようにっ感じています。

ところが現実としては、自分より数等な苦を嘗(な)めている人は幾多もあるのです。

「多くの楽しみを図れば結果として味わう苦も深くなる。」という理論からすれば、我々より愚かし人間は周囲にたくさんいるわけです。

始めから魚肉の味をしらなければ結構粗食で満足します。

煙草や酒を嗜(たし)まなければ悪い気分になりません。

ところが一度その味を覚えた人は、ある時間それが絶えたり、何かの動機でそれを食べないで過ごそうとすると、五官は満足せず、神経が混乱し、健康保全に関する不安や欲念に悶(もだ)え苦しみ、周囲と不調和になり、煩悩・雑念・危懼(きぐ)などによる種々の不平不満が充ち、心身を憔悴(しょうすい)してしまいます。

心が走ると非道に入って愚かな安易な考えしか浮かびません。

ところが、初めからその在り方の愚かさを悟り、真理を掌握していれば、常にその中に在っても超然として案楽行(あんらくぎょう:安楽を得る行為)が可能なことは当然であります。

心身修行中には、必ず様々の試練を経なければなりません。

それは物と事の正しい判断ができない迷いから生じたことに原因するのであります。

大衆と隔離された場所で修業することは、物と事から逃避して自己の心身を修煉するのですから、苦を離れ、またそれに専念できますが、これは小乗的で他を同化し、理解することはできません。

苦の中に常に楽を得、迷いの世に常に悟りを得る、そこに真実があります。

混っても染まらない、同じ環境にいても正常を保つことができ、そこに困難があってもそれが真の道に則した在り方であります。

人々の中に在ってこそ真の修業の面目があり、我々を高めて行く事ができます。

老子様は、「其の光を和(やわ)らげ其の塵(じん)と同じくす。」と言われていますが、これも真に完成された和の光は清浄な山中とか、人間界から遊離した場所から発せられるのでなく、混沌とした汚い雑居俗世から燦然(さんぜん:光輝くさま)として顕れてくるのです。

故に六代慧能祖師(えのうそし)の時から道は特定の場所(神社・仏閣・教会)から失われて火宅在家(かたくざいけ)に伝えられるようになったゆえんです。

多くの試練を受けつつも、その苦を尽く(ことごと)く楽に変じて道を行ずることは、まことに尊い姿であります。

より美しく、善で真なるものは、より醜い悪と偽りの中から生まれる物であります。

正邪・善悪・美醜・真偽・理不理などの発する以前の真如の姿をはっきりと見透し、真諦を得た人は何時如何なる事態に遭遇しても不動でいられ、常に大いなる悦びを持ち続けられるものであります。

霊覚は常に正しく真理を反応するので、このような人こそ無常正等正覚(むじょうしょうとうしょうかく)を得たと言えます。

真理とは時代が幾ら変遷しようとも、如何なる地域に居ても、どんな種類の人でも必ずそう考え、そうしなければならない根本的なものであります。

続く

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