真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第三章 天性の変化と修法 (一)天性は円通無礙(えんつうむげ)であるが人心は喜怒哀楽に変ずる

2024-03-20 19:47:40 | 天道の淵源

(一)天性は円通無礙(えんつうむげ)であるが人心は喜怒哀楽に変ずる

天性の変化と修法について述べてみたいと思います。

形象なき天性を論理的に説明ができても、実際にこれを深く分析・解剖し、その由来と起源を明らかにすることは、困難な問題でもあります。

しかしこれは、われわれ天道人の最も重大な課題であって、自分をもふくめて、すべての人々の天性を明らかに浄化し、元の姿に回復させる責任があります。

天性とは、われわれの「真如」の姿であり「本来の面目」であります。

つまり、われわれにも一如来が存在している訳で、汚れなき美しい光明体なのです。

それが歴世の輪廻に入り、悪の因果と業縁を繰り返しているうちに、すっかり堕落腐敗して本性が極度に汚染され、光沢を失ってしまいました。

果ては残霊と化したり、破廉恥行為によって天真爛漫な本性が深い傷痕を残してしまいました。

たとえ家の中に電球がついていても、戸口や窓を締め幕を引いては光が遮断されてしまいます。

聖賢に値するほどの霊も、それを内に秘めては人々に及ぼす徳光にはなりません。

また何百燭光の電球も、内の発光線が切れていては本来の用途を喪失(そうしつ)するのと同じく、仙仏の器たる本霊を持っていても神と通ずる線が切れていては元の機能が損なわれます。

腐敗するには腐敗する原因があり、悪化するには必ずその由来があります。

それを究明し、それを根治して真理・神仏との交わりを結ぶのが、天命を帯びて働くわれわれの本務であります。

天道は、われわれの真面目を復活して欠けることのない円通無礙(えんつうむげ:すらすらと物事が運ぶ)の姿に返らせる法授がります。

天性とは、父母未生以来の面目であり、人間の喜怒哀楽の情、いずれにも意未だ流れていない時の中に和なるところの霊をいっているのであります。

修道とは、この玲瓏(れいろう)天真なる天性の清明に到達することを目標とし、悪濁なる俗塵に曇らされた霊気をだんだんと浄化して行くを言います。

われわれの霊の当初は、老〇様(ラウム)によって賦(さず)けられ、純然たる羅漢・菩薩の姿であり、神の御子にふさわしい聖霊でありました。

もともと神ラウムが創り給うた原子霊でありましたが、約六万年間、三界を転生しているうちに絶え間なく過失と清算が繰り返され、その過程をへて現世に賢愚聖凡の別が生じたわけであります。

宿命とは、前世の貸し借りの因縁を背負って今生に受けている境遇のことで、一つの霊が過去に何百回、何千回と形を換えて生まれてきた果であります。

人間降世より約六万年と聖訓にあります。

人生百年ですから、まともに人間に生まれても都合六百回はこの地上に顔見せしている勘定になります。

動物や虫・魚類になりますと、寿命がずっと短くなりますからそれを含めると、何千回地獄と人間界を往復してきたかわかりません。

人間として百年間の人生に数多くの因果関係を結んでいます。

それが何百回の転生の間に、縦横に、前後に、いかに因縁を結んだかはかり知れません。

こうした複雑な因果は、波紋が広がるように幾重にもわれわれを囲み、左右前後に網目のような関連性をもって溺(から)み繞(まつわ)っているありさまであります。

運命や環境は皆そこから織りなす結果であって、心の作用によって聖賢仙仏智成、悪魔・夜叉の霊とも変じてしまいます。

心霊を修め、修行することがいかに貴重な問題であるか、それは天国と地獄にわかれていく重要性を帯びているのです。

「差は毫厘(ごうりん)なれどこれ千里に遠し」という諺にありますが、迷いと悟りの違い、修煉するかしないかの違いによって、今後永遠にその人と、子孫に対して禍か福をもたらすものであります。

麗しい本性に立ち戻って物事を行うなら、万事に欠け余りもなく多方面に和して成さざるものはありません。

物事が不明なのは、天性が明らかでないためであり、妙智慧の輝きがない故です。

人間界に生まれ、この肉体に霊気が流れて、「心」と変化してしまいます。

本より性・心・身は一体であり、この三つが組み合わされ始めて一個人の生命が成り立つのであります。

孟子様は「性は本善なり」と主張して「本性は相近づくものであるが、習性になると相遠ざかるものである。」といわれました。

官能の赴くままの心は後天的なもので、性命、すなわち霊魂は上天、老〇様(ラウム)の与え給うもので皆一様であります。

「天性」とは、「上天の与え給うた霊性」という意味で、人間を主宰し、絶対善的存在であり、純善無垢の透明体であり、一点の悪のまじり気もない姿であります。

ところが当初は遮ることのできない霊明な光彩があっても、天性が一旦肉体に流れ入りますと、喜怒哀楽を含む心と変じてしまいます。

心は身体の発達に従って、欲求の度合いが強くなってまいります。

眼・耳・鼻・舌・身・意が六根で、これが色・声・香・味・触・法という身外の物象に牽引され偏り、染まり、放蕩化してしまいます。

もともとの心は天性の使官であり、天性にかわって身体に発令し、正しい行動を左右するものであります。

つまり天性は本体であり、心はその用であります。

続く

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