真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

仏説「兜率天(とそつてん)」と五七億六千万年後の弥勒浄土

2023-08-28 20:24:00 | 弥勒浄土

 文殊菩薩

兜率天は「内院」と「天処」に分けられます。

内院とは浄土であり、天処とは天人の快楽の場所です。

どの菩薩も成仏する以前は皆先に内院に住み、然る後に初めて人の世界に来て成仏するのです。(釈迦仏が世間に来て成仏する以前は、やはりそこに住んでおります)

現在住んでいる菩薩は弥勒であり、仏教で称されている弥勒菩薩とはこの意味です。

故に又、補処弥勒とも呼びます。(補処とは、成仏する以前、まず仏の空席を補います。これは内院に中にあって、また弥勒浄土と呼びます。この内院はどの菩薩も最後に住む世界です)外院は即ち天処です。

沢山の天神がそこに居ります。そこには酒、色、財、気があり、とても快楽な所です。

内院に入ろうと思うならば、まず先に天処(外院)を通過しなければならず、多くの禅師が天処まで来られたら惑わされ、内院に入ることができません。

兜率天の時間は、次の様なものです。人の四百年は兜率天でのただ一昼夜に等しく、故に兜率天の一年は人間の十四万四千年に等しいのです。

そして兜率天の天寿は四千歳で人間の世界では五十七億六千万年になります。(以前、仏教で言われている五十七億六千年とはここから来たと聞きました。仏経上に五十七億六千年後に弥勒仏が世間に来られると言われましたが、実はこの数は兜率天の天寿を指しています。世間の人の寿命は六、七十歳に過ぎず、人は実に微妙なもので、故に多く修道して功徳を積むことが必要なのはこの意味なのです。インドでの教え方と私達のとはちょっと異なります。「百万」は上において「億」であり、故に私達の数え方では、五億七千万年になります。しかしインドでの数え方では、五十七億六千年です。また五十六億七千年は誤りなのです)

故に私達が分かるのは、どの菩薩も世間に来て成道する以前は、皆内院に一度住み、時間が来るのを待って初めて世間に出世し、修道して成仏して帰って行くという事です。

釈迦仏は、既に成仏して帰って行かれて、今は弥勒仏により運を引き受け、補処弥勒と呼びます。

何処に出世なさるかに至っては、私達は知る必要がありません。

もし私達が仏は肉体を以て出生なさると思うならば、それは誤りです。

天の事は、私達が見える形象をもって論定するのではありません。

もし、肉体を以て論じれば、釈迦仏はただの八十歳でした。

ところで釈迦仏が運を引き受けたのは三千年でした。

この三千年は何を以て数えたのでしょうか?

これは天の運を受けた時から数えたのです。

肉体の運を引き受けた時から数えたのではありません。

釈迦仏は当時もやはり、目ばたき、食べ、眠り、腹痛、下痢さえしました。

但しこれらのことは経典上に記載はありません。

私達はこれらのことを知るべきです。

当初は彼も一人の人間でした。

キリストが十字架に張り付けられた時、やはり痛い想いをしたのと同じことです。

但し、彼の真理は不生不滅であり、故に修道するには真理を根拠とし、形相に執着してはなりません。

兜率天は又知足天と名づけられています。

この天に生まれる条件は、足りる事を知り、止まる事を知ります。五欲(財・色・名・食・睡)に対して適度で止める事を知るべきです。

※天は四王天(しおうてん)・忉利天(とうりてん)・焰摩(えんまてん)そして兜率天(とそつてん)・化楽天(からくてん)・他化自在天(たかじざいてん)の六天あり欲界天と言い、人間は欲界天の中にあります。

又、天地開闢の始めは原始時代の為、人間に天命統掌の重責を担わせられないので、神仏を遣わして約四万年に亘る長い間、天盤を掌(つかさど)られました。「天盤」とは宇宙の総理に当たるお役目であります。

燃灯仏 青陽時代の天盤 治世 紀元前2500年頃から1500年間

釈迦仏 紅陽時代の天盤 治世 紀元前1000年頃から3000年間

弥勒仏 白陽時代の天盤 治世 紀元2000年頃から10800年間 

現在、弥勒仏治世の時代です。

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Rayの呟き:神社の神々は死に体状態、八百万の神は搾取者のナリスマシを祭った遺恨の神々。

2023-08-28 20:19:55 | Rayの呟き

自力で回復可能と判断される状態を生き体といい、不可能と判断された状態死に体といいます。

中国五千年の歴史で中国の神話時代、天命は帝王にありましたが、後に天命は宗教の祖師など師儒僧侶に遷りました。

紀元前千年前ごろ、時を同じくして日本の天皇制が始まりました。

つまり日本の天皇には天命はありませんが、天道を護る神官の最上位の立場としての役割が始まった訳です。

地勢上、地球の雛形である日本の天皇制という権力争いの仕組みは曖昧にして、善悪はともかく世界の混乱を齎し、80億の人類の糧を生む社会システムを構築し、世界中に科学技術を行き渡たらせました。

この間、宗教は堕落し、哲学を生み、哲学は思想を生み、思想は経済を生み、神を忘れ白痴同様になりました。

神道(かんながら)は万法の宗源であり、創造神(第1代神)を「元無極躰主王大御神 (モトフミクライヌシノオオミカミ)」として神と同体である「理」によって世界や人間は創世されています。

同じように人心にも必ず「理」が内在しているため、元来人神は一体ですが、人の心の汚れにより神明の明智が曇るので、「つつしみ」によって本来の姿に戻る必要がある、と説いた吉川神道など「道」を求める派を排斥し、権力に塗れた曲者達が跋扈してきました。

神社は維持のため観光業になり、神官も禊を忘れています。

日本中の寺社仏閣は天意を忘れ、暗中模索しています。

ただ、人々の覚醒は確かに始まっています。

天命が「火宅」にあり、「一」なる天命から始まる仕組みが「弥勒浄土」です。

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済渡の心構え 応用 三

2023-08-28 20:17:12 | 済渡の心構え

二、脳汁(のうじゅう)・體膚(たいふ)を労して、無限の自己向上に励むべし。

宿命は前世の因に依りて定まり、運命は今生の努力を縁として変わるものなり。

能力・體力も練磨の程に進化発達す。

工夫苦悩せば妙智慧が授かり、奔走精進する度に縁家へと導かれる。

今日は昨日の、明日は今日の自己に止べからず。

井戸も掘る程に水を湧かすに非ずや。

続く


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天道略説~(一)天道の主神

2023-08-28 20:16:13 | 天道略説

今回から六回に渡って「天道略説」を配信いたします。文中

老〇(ラウム)の〇の字が根源創造主独自の字で中国古典的な漢字源にもありません。下図の永遠の極楽浄土(弥勒浄土)にある「ラウム」の字ですのでご承知置きください。

天道略説

私達は日常生活によく「偶然(ぐうぜん)」という言葉を使います。亦そういう出来事が屡々(しばしば)起こるものであります。只今、あなた方が友人から天道を紹介され、本書を贈られ頁を開く気になられたのも、その一つに算(かぞ)えられるかも知れません。ただその動機がどうであったにせよ根本的に極めてみると、「偶然」は決して断片的に、突破的に起こってくるのではありません。何かの原因があってその結果へ至りつつある過程にあるのです。縁と云う見えない長い糸が私達に結びつき導かれたつつあるからです。今、あなた方はこの御縁に導かれて真理の門口に近づきつつあります。一歩ずつ天道に帰りつつあります。この幸運な機会はあなた方に神様から与えられた特別の恩恵と愛情であると共に予(あらかじ)めあなた方に蓄積された善因善行があるからです。天道は民族的、国家的観念を越えて世界人類をみな一大家族と見做しています。お互いの霊魂は兄弟姉妹である事実を認識することができます。神の子である誇りと、真の幸福と歓喜を与えて頂けます。人類の良心と真諦と明らかにし、生命の由来と源を示し、天の理と正しい信仰を刻明に教え、私達が閉ざされた一切の暗黒から脱(のが)れ輪廻(サンサーラ)と因果の業縁を究明し、それを解脱して、より高い不死の境地、光明の涅槃(ニルバーナ)に至る大道であります。すべての宗教を超越した最高の存在であり、異教、異宗と雖(いえど)も共存できる大本であります。どうか宗派、教別の組織と構成に固執することなく、小局的、差別、排他的思想を除去し、雄大なる勇気を抱いて斯道に進まれることを希望いたします。

(一)天道の主神

天道に於いて礼拝しております神様のお名前は

老〇(ラウム)と申します。この神様は普通一般の宗教で拝んでいる神様と違っています。宗教に於いて最大の教祖として奉られているお方は、その昔必ず一度は人間として生まれ出でたことがあります。しかし、

老〇(ラウム)は全然(ぜんぜん)過去にお姿を現わせられたことはないし、現在、未来を通じても決して人間としての形体を顕されることもありません。

老〇(ラウム)の大霊は限りなく大きく亦、限りなく緻密(ちみつ)であり微小でもあります。天地宇宙が未だ形成されない永遠の大昔から已(すで)に御存在の唯一の神様であります。

宇宙の森羅万象をなんらの他力の援助を受けずに、総て御自分の御智慧と御能力で設計し創造されました。そして万物万類を一定の秩序と調和と法則で正しく運転し造化し養育して下さっています。年々歳々、寸分の違いもなく変わることもありません。人間は科学文明の進歩に伴って大宇宙の一切は自然現象でありとし、物質面の豊富はいかにも人類だけの能力で発見、発明、製造できるものと思い込んで人力の技術を過信しているようです。

然しながら、

老〇(ラウム)は一団の大霊であり、一大真理であり、その妙理は至尊至霊、至神至明であります。

春夏秋冬の循環、昼夜、陰陽の交替は整然として

老〇(ラウム)の運行に俟(ま)つものであります。動物、植物、鉱物の根本も均しく

老〇(ラウム)の造化、主宰に基づくものであります。従って一切現象を自然作用というのは、神を冒涜(ぼうとく)することであり、

老〇(ラウム)を無視すること、これより甚(はなは)だしいものはありません。日光を浴びて太陽のあるのを知り、家屋があるのを見て建築者があることが分かります。それなのに人間に霊(たましい)のあるのが分かっても、これを生んだ親のあることを悟らず、さらに天地宇宙を見て何故これを創造したもうた主宰神のあるのを信じられないのでしょうか。素直に物事を認めるのをどうして憚(はばか)るのでしょうか。美しい山河、洋々たる大海、緑の広野、色彩々(色とりどり)の百花、大小の樹木、空の浮雲、雨の滴下(しずく)、凡(あら)ゆる私達の感覚に及ぶすべての自然界の繊細、広大な物と事はみな

老〇(ラウム)の御手(みて)の業(わざ)にあらわされた愛の賜物(たまもの)であります。広漠(こうばく)な天空に散在する無数の星雲から、いと小さき原子、電子に至るまで、整然と神の御旨(みむね)と摂理に遵(したが)って運行されるものであります。更に生きとし生ける諸々の霊(たましい)を生みたもうた親神様も限りない慈愛をもたれる

老〇(ラウム)であります。凡(およ)そ私達が生を受け、霊気と智慧を具備(そな)えるのもみな

老〇(ラウム)によって賦与(ふよ)されたからであります。髄脳と神経の働きは心と精神に由るものであり、心と精神の働きは天性、すなわち霊魂(れいこん)に原因するものであります。美しい品性、純潔な心、高尚な理想、善と愛これは

老〇(ラウム)の生みたもうた私どもの元の姿であります。現代の人も過去の人も未来の人も一様に

老〇(ラウム)から霊(たましい)を授けて頂かなくてはなりません。人間だけではなく、聖賢(せいけん)、仙(せん)、仏(ぶつ)の霊も同じことです。聖(せい)、賢(けん)、仙(せん)、仏(ぶつ)として尊ばれ、慕われるのも、曽(か)つては天道を求めて、これを得たからであり、誠心(まごころ)を以て

老〇(ラウム)を拝み、信仰したからこそであります。

老〇(ラウム)の御心を心とし、御意思を意志として人類に貢献したからこそ、人々から尊敬と称賛を得られたのです。結局、最後の勝利者は自らの罪を隠さずに認め、功徳を積まれた人です。道と徳を無上の法として考え、天の意、天の心を最高目標として遵ったからこそ斯様に永久に不朽の名声を揚げられたのであります。

天道の主神を

釈迦は「阿弥陀(アミタ―バ)」(無量寿:かぎりないいのち、無量光:かぎりないひかり)「西天仏母(せいてんぶつぼ)」「瑶池金母(ようちきんぼ)」と申し上げております。

キリストは「神」或いは「天に在(いま)します父」と申し上げています。

孔子は「上天」或いは「明明上帝(ミンミンスワンティ)」と申し上げています。

老子は「万霊真宰(ばんれいしんさい)」或いは「無極聖母(むきょくせいぼ)」「天地生育之母(てんちせいくのはは)」と申し上げています。

マホメットは「アラー」或いは「天主(てんしゅ)」「大神(おおかみ)」と申し上げています。

日本の神道では「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」あるいは「国常立尊(くにとこたちのみこと)」と申し上げております。

インドのヒンズー教では「ブラウマン」と申し上げ、シーク教では「ラーマ」と申し上げ、ギリシャでは「ゼウスの神」と申し上げ、埃及(エジプト)では「オシリス」とそれぞれ異(ちが)ったお名前で申し上げております。しかし斯様に尊称が違っていても結局は同一神である

老〇(ラウム)の御神体であります。民族と時代の相異によって多少地方化、風俗化されてはいますが、総ての人類の霊の親神様に違いはありません。

老〇(ラウム)と云う御尊称は神様自体がお名付けたもうたので天道では統一して

老〇(ラウム)と申し上げています。各宗教でのお名前は聖人が名付けたのです。

先に述べましたように人間がつけたお名前を用いても差し支えありませんが、宗教以前の天道を一般の宗教と混同されない為に、亦、誤りを避ける理由で神様の示したもうた通りの尊称を使っています。天道は

老〇(ラウム)の天命によって直接に降された唯一(づいいつ)の大道であります。末法の年、末世に降された只一つの救いの法船であります。宗教によって到達する最終目標は天道であり、

老〇(ラウム)の在(いま)します理天(極楽、天国)であります。

続く


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性理題釋~五十五、慈悲の二字

2023-08-28 20:13:55 | 性理題釋

五十五、慈悲の二字

仏家では慈悲を心となすのでありますが『衆生と共に同じく苦しむことを慈となし、又衆生と共に同じく悲しむことを悲となす』のであります。

衆生の苦しみを即ち我が苦しみとなし、衆生の悲しみを我が悲しみとなすのであります。

又『苦を抜き取ることを慈となし、楽を与えることを悲となす』と申されました。

衆生は即仏にして、仏は即ち衆生なりと申されますが、それは衆生が苦海に溺(おぼ)れ沈むのを見て仏様は願を立て以て普くこれを済渡されるのであります。

故に『慈悲を離れて仏なし』と申される理由はここにあるのであります。

続く


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