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【アメリカ崩壊】今年の冬は恐ろしい事になる! 日本のマスコミが決して流さないアメリカの真実(マックス×石田和靖対談) @tokyomax
文殊菩薩
兜率天は「内院」と「天処」に分けられます。
内院とは浄土であり、天処とは天人の快楽の場所です。
どの菩薩も成仏する以前は皆先に内院に住み、然る後に初めて人の世界に来て成仏するのです。(釈迦仏が世間に来て成仏する以前は、やはりそこに住んでおります)
現在住んでいる菩薩は弥勒であり、仏教で称されている弥勒菩薩とはこの意味です。
故に又、補処弥勒とも呼びます。(補処とは、成仏する以前、まず仏の空席を補います。これは内院に中にあって、また弥勒浄土と呼びます。この内院はどの菩薩も最後に住む世界です)外院は即ち天処です。
沢山の天神がそこに居ります。そこには酒、色、財、気があり、とても快楽な所です。
内院に入ろうと思うならば、まず先に天処(外院)を通過しなければならず、多くの禅師が天処まで来られたら惑わされ、内院に入ることができません。
兜率天の時間は、次の様なものです。人の四百年は兜率天でのただ一昼夜に等しく、故に兜率天の一年は人間の十四万四千年に等しいのです。
そして兜率天の天寿は四千歳で人間の世界では五十七億六千万年になります。(以前、仏教で言われている五十七億六千年とはここから来たと聞きました。仏経上に五十七億六千年後に弥勒仏が世間に来られると言われましたが、実はこの数は兜率天の天寿を指しています。世間の人の寿命は六、七十歳に過ぎず、人は実に微妙なもので、故に多く修道して功徳を積むことが必要なのはこの意味なのです。インドでの教え方と私達のとはちょっと異なります。「百万」は上において「億」であり、故に私達の数え方では、五億七千万年になります。しかしインドでの数え方では、五十七億六千年です。また五十六億七千年は誤りなのです)
故に私達が分かるのは、どの菩薩も世間に来て成道する以前は、皆内院に一度住み、時間が来るのを待って初めて世間に出世し、修道して成仏して帰って行くという事です。
釈迦仏は、既に成仏して帰って行かれて、今は弥勒仏により運を引き受け、補処弥勒と呼びます。
何処に出世なさるかに至っては、私達は知る必要がありません。
もし私達が仏は肉体を以て出生なさると思うならば、それは誤りです。
天の事は、私達が見える形象をもって論定するのではありません。
もし、肉体を以て論じれば、釈迦仏はただの八十歳でした。
ところで釈迦仏が運を引き受けたのは三千年でした。
この三千年は何を以て数えたのでしょうか?
これは天の運を受けた時から数えたのです。
肉体の運を引き受けた時から数えたのではありません。
釈迦仏は当時もやはり、目ばたき、食べ、眠り、腹痛、下痢さえしました。
但しこれらのことは経典上に記載はありません。
私達はこれらのことを知るべきです。
当初は彼も一人の人間でした。
キリストが十字架に張り付けられた時、やはり痛い想いをしたのと同じことです。
但し、彼の真理は不生不滅であり、故に修道するには真理を根拠とし、形相に執着してはなりません。
兜率天は又知足天と名づけられています。
この天に生まれる条件は、足りる事を知り、止まる事を知ります。五欲(財・色・名・食・睡)に対して適度で止める事を知るべきです。
※天は四王天(しおうてん)・忉利天(とうりてん)・焰摩(えんまてん)そして兜率天(とそつてん)・化楽天(からくてん)・他化自在天(たかじざいてん)の六天あり欲界天と言い、人間は欲界天の中にあります。
又、天地開闢の始めは原始時代の為、人間に天命統掌の重責を担わせられないので、神仏を遣わして約四万年に亘る長い間、天盤を掌(つかさど)られました。「天盤」とは宇宙の総理に当たるお役目であります。
燃灯仏 青陽時代の天盤 治世 紀元前2500年頃から1500年間
釈迦仏 紅陽時代の天盤 治世 紀元前1000年頃から3000年間
弥勒仏 白陽時代の天盤 治世 紀元2000年頃から10800年間
現在、弥勒仏治世の時代です。
扶とは扶け持することであり、助(じょ)とは助すること。
郷児とは原子のことである。
救苦天尊が金剛・菩薩・天将・霊官等隷下(れいか)を引き率れて末法の世に正法を宣揚(せんよう)し、災いを除き、難を救い、幾多の苦厄(くやく)を助けるのみならず、更に普渡(ふど)収圓の大道を果たしてその天命を遂行する。
諸神・菩薩・天官は老〇(ラウム)の御名を聞いて弥勒祖師を助け、九十六億の原子を一人一人安寧に守り、そのすべてを保佑して無事安泰にする。
その使命を遂行する為の仙仏の働きは全く完璧を極め水も漏らすことはない。
続く
四十、一二三を知るは神仙
道教の祖、老子様は『道は一を生み、一は二を生み、二は三を生み、三は万物を生む』と申されました。
この一の字は精微(せいび)にして奥妙(おうみょう)であり、又微にして届かぬ所がなく、人がもしこれを得るならば、どうして聖賢になれないことがありましょうか。
故に『允執厥中(いんしゅうけっちゅう)』の中の字、この一字は聖人から聖人へ相伝えた心法であります。
もしもこの一字の根源を知ろうと思えば、誠心誠意で求道しなければなりません。
求道した後、始めてこの本身の一時の来歴を知ることができるのであります。
俗に『道を講ずるに身を離れず、鉄を打つに砧(ちん)を離れざるなり』と申されますが、古の聖者は『反(かえ)して諸(これ)を己に求む、而して自ら之を得るなり』と申されましたが、誠に貴い言葉であります。
一とは自性で、天に在れば理となり、人に宿れば性となります。
性は一で、気は二で、身は三となりますが、一二三を知ることが出来れば、神仙を見習うことができるのであります。
道は一切を含みますが、一動一静の中に於いて、能く造化に合し得るものは、実に真道であります。
続く