2.2 授動詞文の動作主体
日本語動詞文の<主体>と<客体>がどのように表示されているか確認し、<主体>と<客体>の関係を見ていく。本項においては、授動詞文の動作主体から動作が向けられる受益者の表示マーカーがどのように使い分けられているか、考察する。
日本語初級の学習者に、次のような例文が「やる・くれる」文として与えられる。
『日本語初歩29課』より
チンさんは わたしたちのために 記念写真をとって くれました。
田中さんは わたしに 英語を 教えて くれました。
わたしは こどもたちを しょうたいして あげました。
わたしは 山田さんのくつを みがいて あげました。
これらの文において、動詞で表わされた動作・行為の受益者(利益・恩恵を受ける人)は、わたしたち、わたし、こどもたち、山田さん、であるが、名詞についている助詞(または複合助詞)は「のために」「に」「を」「の」などさまざまである。授受文において日本語学習者がとまどうことの一つは、誰が誰にしてやっているのかという関係がよくわからないことである。確かに上の例文を見る限りでは、受益者はさまざまな格で示され、何を用いたらよいのか、わかりにくい。「先生が私達に日本語を教えてあげました。」など、話者の視点とやりもらいの方向を間違うもの、「夫は私に結婚してくれました」など、受益者の格を間違えるものなど、誤用の性質はいろいろあるが、授受文が学習者にとって、習得しにくいものの一つであることはいえるだろう。
しかし、これまで、学習者に対し、わかりやすい教示は少なかったように思う。
例えば、 McGloin (1989)は動詞テ形に「やる」「あげる」がついたときの格マークについて、次のように説明している。
(1)授受動詞(あげる・やる・くれる)の間接目的語(恩恵の受益者)は「に格」で マークされる。例文「道子に英語を教えてあげた。」
(2)直接目的語が人に所属している場合には「に格」は適切でなく「の格」が用いら れる例文「道子の部屋を掃除してあげた。」
(1)(2)の説明は不十分である。恩恵の受益者は「に格」で示すという説明を、学習者が応用すれば「私は 太郎に 駅へ 案内してやった」などの誤用がでてくるのは当然だろう。また、「太郎」の幼い娘「花子」が、彼女の所有物である絵本を持ってきて、読んでほしいと「太郎」に頼んだとしよう。絵本は明らかに花子の所属物だから「太郎は花子の絵本を読んでやった。」とするのが適切で、「太郎は花子に絵本を読んでやった。」といったら不適切なのだろうか、という疑問も、学習者は感じるだろう。
授受文の受益者を適切に示すために、もう少し詳しい説明を試みたい。
授動詞(やる・あげる)は、他者のために何らかの行為を行なうことを示す補助動詞として用いられる。この項の目的は、だれのために行為が行なわれているのかを示す受益者のマーカーを明かにすることである。
(1)元の文の補語(客体)と受益者が同一の場合は、受益者を新たに示す必要はない。補語が受益者を兼ねる。補語の所有者が受益者である場合も同様。
(2)受益者を新たに付け加える場合、受益者にものの移動があるときは、受益者は「ニ格」で示す。ものの移動がないときは、「のために」で示す。
2.2.1 授動詞文の<主体>と<受益者>
日本語には、誰に向けて動作が行なわれたかを明示する形式がある。動詞(~て形)に
補助動詞としての「やる」「くれる」「もらう」がついた、いわゆる「授受文(やりもらい文)」である。授受文は、動作主体・話者の視点・待遇の面から体系をなしているが「やる・くれる」と「もらう」は構文的に異なっている。「やる・くれる」文は、元になる文の構造をかえずに、動詞に補助動詞をプラスした形を基本とするが、「もらう」文は、元になる文と主語・補語の位置が異なる。「もらう」文は、構造の面からは、受け身文につながるといえる。
(元の文)先生が 太郎を ほめた。(動作主体-対象-述語)
(受け身)太郎が 先生に ほめられた。(対象-動作主体-述語)
(もらう)太郎が 先生に ほめてもらった。(対象-動作主体-述語)
本項では、元の文と格の構造が変わらない「やる」「くれる」文を中心に、誰に向けて動作が行なわれたのかを明示する格マークが何になるのかを見ていくことにする。「やる・くれる・もらう」は動詞で表わされる内容について、話し手の視点によって、話者が主観的に表現したものである。実際の受給関係のあるなしに関わらず、話者の視点からの受給関係を表わす。
(1)お兼さんは自分の声を聞くや否や、上り口まで駆け出してきて、「このお暑いの によくまあ」と驚いてくれた。(『行人』)
この「驚いてくれる」の行為主体(お兼さん)は、相手の利益を考えて「驚く」という行為を行なったわけではない。しかし、「自分」は主観的に、お兼さんの「驚く」という行為が自分に向けて行なわれたと受け止め、自分にとってプラスの利益を感じさせるものとして「くれる」を用いている。授受文は、話し手の視点からみて主観的に「行為が行なわれる方向」「誰の為に行為が行なわれたか」を示すのである。
授受文の補助動詞「~てやる」「~てもらう」「~てくれる」は、本動詞の動作行為がだれに向かって行なわれるかを示すのであって、利益の受給そのものを示すのではない。行為を向けられた相手にとって、その行為が受け入れられるものであれば、プラスの利益になるし、受け入れられないものならばマイナスの利益と受け止められる。「やりもらい」が文法的に表わすのは行為を向ける方向であって、話し手や聞き手の主観によって、その行為がプラスにもマイナスにも受け止められる。本稿でいう「受益者」とは、あくまでも話し手の主観の中での利益・恩恵の受け手であって、現実に行為の受け手が利益を得るとは限らない。「軽蔑する」「ぶつ」「いやがらせをする」など、語彙的にマイナスの利益と受け取られることが多い語もあるが、文脈によっては、プラスの利益にもなり、話し手の表現意図によって変わってくる。
マイナスの利益を表している文。(例)花子をいじめたくなって、太郎は花子に石をぶつけてやった。
(2)あとにも先にも一度の小言をあんなにくやしがって泣いてくれなくともよさそう なものを。(『野菊の墓』)(マイナスの利益)
(3)私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。(『放浪記』)
(4)彼と一度仕合いして化けの皮をひんむいてやりたいと思った。(『風林火山』)
プラスの利益を表している文(例)境内の石を病気の部分にぶつけると治るという話を聞き、太郎は花子に石をぶつけてやった。
(5)外の場合なら彼女の手をとって、ともに泣いてやりたかった。(『行人』)
「のために」は、授受文でない場合も、動作・行為の恩恵・利益を受ける存在を表わすことができる。「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作った。」という文は、動作主体(おかあさん)がヒサの利益を目的として動作を行なったことをあらわす客観的な描写である。「ヒサのために」は客観的に受益者がヒサであることを示している 一方「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作ってくれた。」という文は、視点がヒサの側にあり、ヒサの側からおかあさんの行為を主観的に述べたことになる。話し手(文の作者・語り手)の意識がヒサの立場に置かれておりヒサの側から表現されているのである。このように、授受文は、ある立場からの視点による動作・行為の方向の表現であり、一つの視点からみて主観的に恩恵を受ける存在を示す文である。
2.2.2 意志を表わす「~てやる」
「~てやる」文の動詞は本来、意志動詞である。「~てやる」文に、非意志動詞が用いられる場合、「わざと驚いてやった」「家族のために死んでやろう」などのように意志的な意味が加わる。意志を加えられない動詞を「~てやる」文にすることはできない。
「*はっきりと見えてやった」「*うっかり落してやった」
本動詞としての「やる」には「一方から他方へ移らせる」という行為の方向を示す用法のほかに、「積極的にみずから行なう、する」という意味もある。
(6)若し、そなたが、このわたしの命令をきかぬならば、わたしは、それを自分で やります。(『風林火山』)
「~てやる」という補助動詞としての用法にも、動作・行為の方向を示すのではなく、「積極的に行なう」という意味を表わす場合がある。この場合は、動作・行為主体の意志や希望を表わしている。
(7)ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。(『走れメロス』)
(8)畜生、この仇はきっととってやる。(『邪宗門』)
2.2.3 受益者の格マーク
「~てもらう」は、動作・行為を向けられる側を<主語>とし、動作主体を補語として、表現した文であるが、「~てやる」「~てくれる」は、動作・行為を他者に向かって行なう側を<主語>とし、動作・行為を向けられる側を補語とする表現である。
「~てやる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」を行為の受け手にすることはできない。「~てくれる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」が行為の受け手になる。逆にすると非文になる。
*太郎は私をかわいがってやった。(*は、日本語表現として適切でない文・非文を表す)
*私は太郎をほめてくれた。
「~てやる」「~てくれる」文は元の文と格の構造を変えず、動詞に補助動詞「やる」「くれる」を付け加えて、動作を向ける相手、利益・恩恵を受ける相手(受益者)を示す。受益者はもとの文の補語と別の存在として付け加えられることもあるし、もとの文の補語(動作客体など)が受益者を兼ねる場合もある。
もとの文に新たに受益者格を付け加える場合、「のために」という複合助詞で受益者を明示することもあり、「に格」で受益者を示すときもある。一般的な会話や小説などの文章中では、行為者や、行為を向けられる人は自明のこととして省略される場合が多い。文脈によって、誰がその動作・行為を行なうのか、誰に向かって行為が向けられているのか、推察できるからである。しかし日本語学習者にとって、これを推察するのは上級者になってもなかなか難しい。
<主語(行為者)>については、なんとか推察できる学習者でも、誰に向けた行為なのか、という点はなかなか理解できない。新聞・小説などの読解に進んだとき混乱する原因のひとつとして、初級段階で、受益者がどのように示されているのかを確実に把握していないこともあげることができるだろう。何によって受益者の格マークが決定されるのであろうか。
「やり・もらい」によって、動作・行為の方向を表わした結果、その動作によって、相手との関わりが直接的なものとなるかどうか(相手へ移動するものがあるかないか)ということが、関係してくる。動作の結果、相手へ移動するものには、具体的なものもあるし、抽象的な物の場合もある。動作・行為の結果、相手への授受・移動があるかないかが、格マークにかかわってくるのである。
大曽美恵子(1983)は、国立国語研究所『動詞の意味・用法の記述的研究』をもとに、「~てやる」の受益者格について、次の法則をまとめている。
具体的な物、または抽象的な物(情報・知識など)あるいは五感に訴える何か(声・音・香りなど)が、好意とともに受け手にむかって移動すると考えられるときにのみ、ニ名詞句を使って行為、およびに上記の物の受け手をしめすことができる。
本項はこの指摘をもとに、さらに検討を加え、受益者を「のために」で示す場合、「に格名詞句」で示す場合、受益者が元の文の補語(動作客体)と同一の場合、異なる場合、あらたに受益者を付け加える場合などの条件を考えていきたい。
2.2.4 受益者格を新たに付け加える場合
授受文の受益者が動作の直接の客体ではなく、利益・恩恵の受け手としてのみ存在している場合がある。すなわち授受文にした結果、利益の受け手としての補語を付け加える場合である。物の授受・移動がない場合とある場合によって、受益者の示し方が異なる
物の授受、移動がないとき
動作・行為が相手や対象(アニメイト・組織・機関)を必要とせず、動作の結果、受益者へ向かって、物の授受、移動が行なわれない場合、受益者を明示するときには「のために」を用いる。物の移動がないのに「に格」を用いると、不適切になる。行為者は、受益者の利益を目的として動作・行為を行なうが、その動作・行為は、相手が存在しなくとも完結する。
(9)太郎は家族のために、一日中 働いてやった。(家族=受益者)
*太郎は家族に、一日中 働いてやった。
(太郎は、一日中働いた。)
(10)万更の他人が受賞したではなし、さだめし瀬川君だって私の為に喜んでいてく れるだろう、とこう貴方なぞは御考えでしょう。(『破戒』)(私=受益者)
*瀬川君だって私に喜んでいてくれるだろう。
(11)津田はこの二人づれのために早く出て遣りたくなった。(『明暗』)(二人づれ=受益者)
小説などでは文脈上、受益者が省略されていることが多いが、学習者に受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動がないときは、受益者を「~のために」で示す。
( )は省略されている語を筆者が補ったもの。
(12)つうがもどってきて、汁が冷えとってはかわいそうだけに、(おらが、つうの ために)火に掛けといてやった。『夕鶴』
(13)やっぱりあんた、(おれのために)これを警察にもっていってくれないか。(『空 洞星雲』)
機械的に『受益者は「に格」』と覚え込んでしまった学習者は、「あたしが代りに行って、断わってきてあげましょうか『明暗』」の受益者を明示しようとすると、『*あたしが代りに行って、あなたに断わってきてあげましょうか』というような誤用をしてしまうことになる。(あたし=お延 あなた=津田)
物の授受・移動がある場合
本動詞が「に格の相手対象」の補語をとらないときでも、授受文にすると、動作・行為の結果、相手に物を授受することになったり、ものが移動する場合がある。
動作・行為を向ける相手(受益者)は移動するものの着点であるので、このときは受益者を「に格」で示す。移動するものは、具体的な物の場合もあるし、抽象的なもの(情報・知識など)や、感覚的なもの(声・匂い)などの場合もある。
学習者に、省略された受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動があるときは、受益者を「に格」で示す。
(14)いいもの、八津にこしらえてやろう。(『二十四の瞳』)(八津=「いいもの」の着点・動作を向ける相手・受益者)
動作主体が「こしらえる」動作を、八津の利益を目的として八津に向かって行なう、ということを動作主体(話者)の立場から述べている。「こしらえる」動作の結果、「いいもの」は八津に移動することをふくみ(implicature) として表現している。
(15)さっそく、富岡はゆき子の枕元に座り込んで、ナイフで(ゆき子に)林檎をむ いてやった。(『浮雲』)(ゆき子=林檎の着点・動作を向ける相手・受益者)
動詞によっては、補助動詞「~てやる・くれる」を加えた結果、物の移動が生じるときと移動がないときの、二つの条件に別れる場合がある。
「読む」は「を格」の補語(非アニメイト)を必要とし、本動詞は「に格」を必要としない。しかし「~てやる・くれる」を加えて、受益者を示す必要ができたとき、受益者への声の移動のあるなしによって受益者格が異なる。省略された受益者を明示するときも、注意が必要である。
「太郎が本を読んだ。」という文の「読む」は、黙読したのか朗読したのかは、前後の文脈がなければ、この一文だけでは決定できない。しかし「~てやる」文にすると、動作を向ける相手や、受益者を示す必要がでてくる。朗読して相手に聞かせたときは、「声」が相手に移動すると考えられ、受益者は「に格」で示される。(動作を向ける相手=声の着点)
(16)太郎は花子に絵本を読んでやった。(花子=受益者・動作を向ける相手・声の着 点)
「に格名詞句」は、動作を向ける相手になり、「読んでやる」は「朗読する」に限られる。「に格名詞句」は、動作主体が動作を向ける相手・声の着点であり、受益者となる。朗読したときは、声の着点の「に格」がなければならないので、たとえ「絵本」が「花子」の所有物であっても、「太郎は花子に(花子の)絵本を読んでやった」という文にすべきである。
(17)童話指導上の大切な点は、子どもに読んでやったにしても、また自分で読ませ るにしても、あとで子どもと話し合うということです。(坪田譲治)
(子ども=受益者・動作を向ける相手・声の着点)
黙読したときには動作・行為を向ける相手は必要ない。着点名詞句がないので、受益者を「に格」で表わすことはできない。
(18)卒論の添削を頼まれたので、太郎は花子のために論文を読んでやった。
(花子=受益者)
(19)「(夏崎は)上京すると、必ず私の所に寄りまして、読んでくれと大量の原稿 をおいていきます」(『空洞星雲』)
(20)私は夏崎のために原稿を読んでやった。(夏崎=受益者)
(19)を「私は夏崎に原稿を読んでやった。」とすると、夏崎に向かって朗読を聞かせていることになってしまう。
「歌う」も、声の着点が受益者を兼ねていれば、「に格」で、そうでなければ「のために」で受益者を示す。(省略された受益者を明示するときも同様。)
(21)太郎は花子に子守歌を歌ってやった。(花子=受益者・声の着点)
(22)太郎はいまは亡き作曲者のために彼の遺作曲を歌ってやった。
(作曲者=受益者)
動作の結果、物の授受・移動がないときは「のために」を「に格」に変えて受益者を示すことはできないが、移動がある場合には、受益者を強調して表現したいとき「に格」を「のために」に変えて受益者を示すことができる。このときは「のために名詞句」がふくみとして着点を表わす。(23)は、受益者「彼(晴信)」は「のために」で示されているが授受の後、「城」の着点であることをふくんでいる。
(23)そして晴信という若い武将と一緒に合戦に出掛け、彼のために次々に城をとっ てやることが、ひどく楽しいことのように思われた。(『風林火山』)(彼=受益者・城の着点)
(24)太郎は花子のために絵本を読んでやった。(花子=受益者・声の着点)
(24)は、朗読、黙読の両方の可能性がある文になるが、この場合は、前後の文脈で判断するしかない。
元の文の補語が受益者を兼ねる場合もある。動作・行為を向ける相手が、元の文の動作客体と同じ場合、元の補語が受益者を兼ねるため、特別な場合以外、受益者をあらためて示す必要はない。(受益者を特に強調する場合、元の補語に重ねて受益者をあらためて示すことがある。)
「に格」の補語が存在する動詞文
元の文に「動作の相手」が存在している場合、「動作の相手」が「授受の相手」と同一なら、「に格の相手対象」がそのまま受益者になる。使役文のうち、「に格の相手対象」をとる文も同様である。
省略された受益者を明示する場合も、元の文の「動作の相手」が受益者のときは「に格」によって表わす。
(25) ほんにおとっつぁまも貧乏人で、その頭巾のほかにゃ、何をひとつおめえに残 してやることもできなんだわけだ。『聴耳頭巾』(おめえ=相手対象・受益者
(26)でも、あのときのきみは、たしかに何か貴重なものをぼくに与えてくれた。
(『夜の仮面』)(ぼく=相手対象・受益者)
(27)あたいの会長を(あんたに)紹介してやろうか。(『空洞星雲』)
(28)お医者さんは、とても治らぬというし、それなら好きな雑誌を好きなだけ(お まえに)読ませてやろうと思ったのが、親の慈悲というものだよ。(『雑誌記者』)
(29)東洋新聞記者の名刺の威力で、係員はすぐに登記の写しを(矢部に)見せてく れた。(『夜の仮面』)
(30)それを中座して真佐子に会い、(真佐子に)靴を買ってやってからホテルへ。(『彼方へ』)
受益者が元の文の「に格の相手対象」と同一でなく、別に存在するときは、受益者は「のために」で示される。ただし、「に格の相手対象」も、行為を向けられる結果、恩恵・利益を受けることができる。省略を補うときも同様。
(31)津田から愛されているあなたもまた、津田のためによろずをあたしに打ち明け てくださるでしょう。(『明暗』)(津田=受益者)(あたし=相手対象)
(32)だが、なにか知っているならば、教えてくれないか」(『夜の仮面』)
だが、なにか知っているならば、(君の妹さんのために、ぼくに)教えてくれな いか(君の妹さん=受益者)(ぼく=相手対象)
受益者と「に格の相手対象」が同一の場合、受益者であることを強調して示したいときは、受益者を「に格」でなく、「のために」で示すことができる。「のために名詞句」はふくみとして「相手」を兼ねて表わす。(35)は、受益者を「のために」で示しているが、受益者(あなた)が「贈る」動作の相手対象でもあることをふくんでいる。
(33) あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ。『明暗』(あなた=相手対象(ふくみ) ・受益者)
(34) 真佐子に靴を買ってやった。(真佐子=相手対象・受益者)
(35) 真佐子のために靴を買ってやった。(真佐子=相手対象(ふくみ) ・受益者)
(36) 真佐子のために靴を買った。(真佐子=受益者)
(34)と(35)は、「買う」という動作が真佐子に向かってなされている。真佐子は靴の着点であり、靴が真佐子に与えられることをふくんでいるが、(36)は、靴が真佐子の手に届いたかどうかは表現していない。文脈の断続の適不適からいうと、「真佐子のために靴を買った。だが、真佐子にやらなかった。」とはいえるが、「真佐子に靴を買ってやった。だが真佐子にやらなかった。」というのは不自然である。
「に格」以外のとき
「に格の相手対象」をとる動詞でないときも、「を格の直接対象」「と格の相手対象」「から格の相手対象」などに動作・行為を向けているとき、受益者と動作を向ける相手が同一なら、受益者をあらためて示す必要はない。受益者と対象が異なる場合は、受益者は「のために」で表わす。省略されている受益者を明示するときも、同様である。
(37)矢部さんは心のやさしい方なのね。そういって、わたしを慰めてくださるのね。 (『夜の仮面』)(わたし=直接対象・受益者)
(38)あのとき、力ずくでもいいから、この人はわたしを奪ってくれればよかったの だ、と寿美子は思った。(『夜の仮面』)(わたし=直接対象・受益者)
(39)三尾は、瑛子の父が自分を思い出してくれたのが、嬉しかった。(『空洞星雲』) (自分=直接対象・受益者)
(40)勘助は、二年前自分を召し抱えてくれた若い武将が好きだった。(『風林火山』) (自分=直接対象・受益者)
(41)何もお前が岡田なんぞからそれを借りてあげるだけの義理はなかろうじゃない か。(『行人』)(岡田=相手対象・受益者)
(42)だが、ゆき子だけは、病気と闘いながらも、ここまで、自分と行をともにして きてくれたのだ。(『浮雲』)(自分=相手対象・受益者)
(43)太郎は花子と結婚してやった。(花子=相手対象・受益者)
(44)太郎は花子といっしょに図書館へ行ってやった。(花子=共同者・受益者)
受益者と対象・相手が同一でないときは、「のために」を用いて受益者を示す。
(45)母が「早く結婚して親を安心させろ」というので、太郎は母のために花子と結 婚してやった。(母=受益者)(花子=相手対象)
「に格名詞句」が受益者を兼ねているときは、受益者を「のために名詞句」で示し、ふくみとして、物の着点を表わすことができた。これに対し、「を格」「から格」「と格」など、「に格」以外の格の場合は、「のために名詞句」が、ふくみとして他の意味を表わすことはない。
「太郎は 花子のために 図書館へ 行ってやった。」という文は、太郎が花子といっしょに行ったことをふくみとして表わさないし、「母のために結婚してやった。」という文は、結婚相手が誰であるか表わしていない。
「おれは真佐子のために靴を買ってやった。」という文が、受益者格の「のために」によって、靴を受け取る相手をふくみとして表わすことができるのは、物の移動があるからである。「に格の相手対象」がものの移動の着点になっているときに、「のために」を「に格相手対象」をふくんで用いることができる。
受益者が「の格」で表わされるとき
人の体の部分、心情、所有物、所属物などが補語になっている場合、補語の所有者が受益者と同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。「の格名詞句」が、受益者を表わす。補語の所有者と受益者が異なるときは受益者を「のために」で示す。
(46)寿美子は、すぐには答えず、ハンカチーフを出すと、希代子の汗を拭ってやっ た。(『夜の仮面』)(希代子=汗の所有者・受益者)
(47)大友はカチリとライターを鳴らして、矢部のくわえたままのたばこに火をつけ てくれた。(『夜の仮面』)(矢部=タバコの所有者・受益者)
(48)太郎は花子の部屋を掃除してやった。(花子=部屋の所有者・受益者)
(49)母は上京するといつも花子の部屋に泊まるので、太郎は母のために花子の部屋を掃除してやった。(母=受益者)(花子=部屋の所有者)
物の授受(移動)がある場合、「の格」で示される受益者は、ふくみとして物の着点を表わす。逆に、「に格」で受益者を示したとき、移動する物は授受の後に受益者の所有物になることをふくんでいる。(50)は授受の相手を示す「に格名詞句」がない文だが、「の格所有者」である花子が授受の相手であることをふくんでいる。(51)は服の所有者を示す「の格名詞句」がない文だが、授受の相手である花子が、授受行為の後、服の所有者になることをふくんでいる。
(50)太郎は花子の服を縫ってやった。(花子=授受後の所有者・ 受益者(ふくみ))
(51)太郎は花子に服を縫ってやった。(花子=相手・受益者・授受後の所有者(ふくみ))
2.2.5 授動詞文のまとめ
授動詞文の受益者は、次のように示すことができる。
(1)元の文の補語と受益者が同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。元の文の「に格相手対象」「を格直接対象」「と格相手対象」などの補語が受益者を兼ねる。
補語の所有者と受益者が同一のときも同様で「の格所有者」が受益者を表わす。
補語と受益者が同一で無いときは受益者を「のために」で示す。
(2)授受文にしたため、元の文にはなかった受益者を付け加える場合、具体的・抽象的な物の移動(授受)がある場合、物の着点と受益者が同一のときは、受益者を「に格」で示すことができる。物の授受・移動がないときは、受益者を「のために」で示す。動作・行為を向ける相手(授受後の物の着点)と受益者が異なるときは、受益者を「のために」によって示す。
(3)物の移動があるとき、「のために」で受益者をしめし、ふくみとして動作・行為を向ける相手・物の着点を表わすことができる。物の授受・移動がない場合は、できない。
2.3 直接受身文の動作主体
動作主体Xによる行為・動作は、客体と次のような関係を持つ。
(a)動作主体Xの直接の働きかけが客体Yに及ぶ。
・XはYをV(動詞) 太郎は花子を殴る 太郎は花子を救う
(b)動作主体Xの動作・行為の相手がY。
・XはYにV 太郎は花子に惚れる 太郎は花子に会う
(c)動作主体XとYの共同行為。
・XはYとV 太郎は花子と結婚する 太郎は花子と衝突する
2.3.1 受身文の動作主体のマーカー「ニ」「カラ」「ニヨッテ」
(a)の直接の働きかけの行為内容は、さらに分析すると、(a1)(a2)(a3)に分けられる。動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文の場合、生産物を主題、主語にすると、動作主体のマーカーは「ニ」ではなく、「ニヨッテ」となる。動作主体を「カラ」出表す場合もあり、この、「ニ」と「ニヨッテ」「カラ」の使い分けを日本語学習者に示すのが本項の目的である。「ニ格」は、行為の与え手、被作用者にとって、行為の相手を示す。「カラ格」は行為の出どころ、行為の起点を示す。「ニヨッテ」は行為の原因根拠となるものを示す。
(a1)「行為の受け手」「行為の目当て」が受身文の<主語>になる場合
(a2)「行為の目当て」が<主語>になる場合
(a3)動作主体の行為動作の結果「生産物」が生じる場合
2.3.2 「行為の受け手」「行為の目当て」が受け身文の<主語>になる場合
(a1)動作主体Xが、客体Yに対して、物理的・心理的に働きかけ、それによってYが直接何らかの影響を受ける。(殺ス、壊ス、割る、捕マエル、助ケル、苦シメルなど)
Yの役割は「行為の受け手」。Yを主語として受け身文にすると、動作主体は「二格」で示される。 ・Yは Xに Vラレル
(1)先生が私を叱った。
→ ・私は先生に叱られた。(「私」は私にとって既知の存在なので、ガ格は他との対比の場合にのみ用いられる。「(他の人ではなく)私が先生に叱られた」)
・私は先生から叱られた。 (親から叱られたのではなく、先生から叱られたのだ、ということを強調したいときは可。一般的には「二格」の方が動作主性を表せる)
?私は先生によって叱られた。
この文では動作主体「先生」に対する被作用主体「私」のほうが、名詞階層1が高い。したがって被作用主体の側から主観的に事象を描くことが自然である。「カラ」を用いることも可能であるが、「ニ格」によって動作主性を表すほうが自然な表現である。
(2)先生が私の作文を誉めた。(持ち主の受け身)
→ ・私は先生に作文を誉められた
・私は先生から作文を誉められた。
・?私は先生によって作文を誉められた。
(3)太郎が花子を救った。
→ ・花子が太郎に救われた。
*花子が太郎から救われた。
・花子が太郎によって救われた。
花子と太郎の名詞階層は同等。そのため、カラ格は、行為の起点という意味よりも、花子が何からすくい上げられたのか、という救難の場所を示す。「花子は泥沼から救われた」と同じように、花子が救い出された元の場所を示す場合に「太郎から救われた」と表現できるが、救助行為の起点としては用いることができない。
(4)先生が答案用紙を配った。
→ *答案用紙が先生に配られた。(答案用紙は、先生より名詞階層が低いので、「ニ+先生」は、答案用紙の帰着点が先生であると受け取られる)
?答案用紙が先生から配られた(答案用紙が誰のもとに帰着したのか、文脈からわかる場合のみ可)
・答案用紙が先生によって配られた
(5)先生が生徒に答案用紙を配った
→ ・答案用紙が先生から生徒に/へ 配られた
・生徒は先生から答案用紙を配られた
?生徒は先生によって答案用紙を配られた
「行為の目当て」が主語になる場合
(a2)動作主体Xが、客体Yに対して、感覚的感情的に働きかける。
(Xの感情が向かう先がY)愛スル、憎ム、好ム、嫌ウ、尊敬スル、軽蔑スルなど。
(Xの感覚が出現する先がY)見ル、聞ク 嗅グなど
Yの役割は、「行為の目当て」。Yを主語として受け身文にすると、
・YはXに Vラレル
(6)太郎は花子を愛する
→ ・花子は太郎に愛される
・花子は太郎から愛される
・花子は太郎によって愛される
(7)太郎は花子の手紙を見る 間接受け身文(持ち主の受け身)にした場合
→ ・花子は太郎に手紙を見られた
*花子は太郎から手紙を見られた
?花子は太郎によって手紙を見られた
2.3.3 動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文
(a3)動作主体Xの動作・行為の結果、Yが生じる。 作ル、掘ル、描クなど。
Yの役割は「生産物」。Yを主語として受け身文にすると、YはXによって Vラレル
→ (8)料理が花子によって作られる 絵は太郎によって描かれる
寺村(1981)は(a3)の「新たにモノを作り出す」類の動詞は、その作業の結果何ものかが出現することを表すものであることから、「到達点」を要求する移動の動詞、「変化の結果の状態」を要求する変化の動詞と共通する性質をもっている。」と述べている。生産物の最終的な出現を動作の完結点として要求する。
日本語受け身文では、動作主体agentを「ニ格」で表す。複合助詞「ニヨッテ」も<動作主>のマーカーとして用いられる。「によって」は、格助詞「ニ」、動詞「因る、拠る(よる)」の連用形+接続助詞「テ」が複合して助詞相当句となったものである。「よる」が実質的な意味を有する動詞として用いられ、体言をうけて、「波による浸食」「女性による犯罪」「運慶による仏像」「アンケートによる調査」などで原因や根拠を表すが、近世以後、「よる」の連用形+「テ」で用いられてきた。(a3)のモノの生産を受け身文で表すとなぜ「ニ」ではなく、「ニヨッテ」が動作主マーカーを表すのか。
答案用紙は無生物のモノ名詞であるので、ヒトである先生より名詞階層が低い。そのため、答案用紙を被作用主体として主語にするとき、動作主体の意味で「ニ」を先生につけることができない。「先生」に「ニ」をつけると、「二」は名詞階層の高い「先生」を「帰着点」と認定するからである。答案用紙が配布されて、先生の元へ帰着するという意味を優先するため、動作主体を表さず、答案用紙が先生のもとへ移動したことを表す。
(9)先生は私たちに答案用紙を配った。(「ニ格」は、答案用紙の帰着点)。
この場合、「私たち」を被作用主体とし、「先生」に「ニ」をつけて作用主体(動作主体)を示すことができる。
→ ・私たちは先生に答案用紙を配られた。(「二格」は作用主体)。
・私たちは先生から答案用紙を配られた。
・私たちは先生によって答案用紙を配られた。
(a3)作ル、掘ル、架ケル、描クなどの動作主体Xの動作の結果生じたYを<主語>として事象を描くとき、名詞階層の低い生産物が名詞階層の高いヒトを押しのけて、そちらに視点を集めるようにするのであるから、動作主体は背景化されて「答案用紙が配られた」と、動作主体は言及しないでおくか、根拠原因のよってきたるところをしめす「によって」を用いて動作主体を表すか、どちらかになる。「答案用紙が先生によって配られた」。創作品が生じる動詞の作品・出現物を主題するとき、動作主体は「によって」で示すことになる。
(10)ゲルニカはピカソによって描かれた。 *ゲルニカはピカソに描かれた。
生産出現動詞であっても、被作用者がヒトであれば、「ニ格」で作用主体を示すことができる。しかし、有生主語より名詞階層が低い生産物を主語にすると、生産者をニ格で示せない。
(11)犬のポチが私の大切な花壇に大きな穴を掘った。
→ *私の大切な花壇に、大きな穴がポチに掘られた。(動作主体は「ニ格」で表せない)
→ ・私は、ポチに大切な花壇に穴を掘られた。(動作主体は「ニ格」で表せる)
これに関して、三原健一(1994)は、以下の例文をあげて、次のようにと述べている。
(12)私はそのことで親に叱られた。
(13)答案用紙が配られた。(試験官によって / *試験官に)
動作主をニで標示することが自然である文では、主体者(通常は有生主語)の側から事象を描くという意味において主観的表現であり、直接的に能動文に対応する客観的な表現である「に」のほうがより視点が近く、身近な表現としてとらえられ、主観的な表現であると言えるのに対して、「によって」は客観的で、能動と受動の関係が対応するというようなときに使用される(295)。
しかし、「二格動作主」は主観的な表現、「ニヨッテ」は客観的、という説明では、日本語学習者に具体的な使い分けの基準がわからない。
日本語学習者に対して、教授者は「主語の名詞が、動作主体の名詞よりも名詞階層8が低いとき、動作主体は「によって」で表される」という点をよく理解していることが肝要である。それをふまえて説明をしておけば、日本語学習者が迷うことはない。
第2節においては、再帰性他動詞文、授受動詞文、受け身文などの<主体>がどのように表現されているか、精査した。
日本語動詞文の<主体>と<客体>がどのように表示されているか確認し、<主体>と<客体>の関係を見ていく。本項においては、授動詞文の動作主体から動作が向けられる受益者の表示マーカーがどのように使い分けられているか、考察する。
日本語初級の学習者に、次のような例文が「やる・くれる」文として与えられる。
『日本語初歩29課』より
チンさんは わたしたちのために 記念写真をとって くれました。
田中さんは わたしに 英語を 教えて くれました。
わたしは こどもたちを しょうたいして あげました。
わたしは 山田さんのくつを みがいて あげました。
これらの文において、動詞で表わされた動作・行為の受益者(利益・恩恵を受ける人)は、わたしたち、わたし、こどもたち、山田さん、であるが、名詞についている助詞(または複合助詞)は「のために」「に」「を」「の」などさまざまである。授受文において日本語学習者がとまどうことの一つは、誰が誰にしてやっているのかという関係がよくわからないことである。確かに上の例文を見る限りでは、受益者はさまざまな格で示され、何を用いたらよいのか、わかりにくい。「先生が私達に日本語を教えてあげました。」など、話者の視点とやりもらいの方向を間違うもの、「夫は私に結婚してくれました」など、受益者の格を間違えるものなど、誤用の性質はいろいろあるが、授受文が学習者にとって、習得しにくいものの一つであることはいえるだろう。
しかし、これまで、学習者に対し、わかりやすい教示は少なかったように思う。
例えば、 McGloin (1989)は動詞テ形に「やる」「あげる」がついたときの格マークについて、次のように説明している。
(1)授受動詞(あげる・やる・くれる)の間接目的語(恩恵の受益者)は「に格」で マークされる。例文「道子に英語を教えてあげた。」
(2)直接目的語が人に所属している場合には「に格」は適切でなく「の格」が用いら れる例文「道子の部屋を掃除してあげた。」
(1)(2)の説明は不十分である。恩恵の受益者は「に格」で示すという説明を、学習者が応用すれば「私は 太郎に 駅へ 案内してやった」などの誤用がでてくるのは当然だろう。また、「太郎」の幼い娘「花子」が、彼女の所有物である絵本を持ってきて、読んでほしいと「太郎」に頼んだとしよう。絵本は明らかに花子の所属物だから「太郎は花子の絵本を読んでやった。」とするのが適切で、「太郎は花子に絵本を読んでやった。」といったら不適切なのだろうか、という疑問も、学習者は感じるだろう。
授受文の受益者を適切に示すために、もう少し詳しい説明を試みたい。
授動詞(やる・あげる)は、他者のために何らかの行為を行なうことを示す補助動詞として用いられる。この項の目的は、だれのために行為が行なわれているのかを示す受益者のマーカーを明かにすることである。
(1)元の文の補語(客体)と受益者が同一の場合は、受益者を新たに示す必要はない。補語が受益者を兼ねる。補語の所有者が受益者である場合も同様。
(2)受益者を新たに付け加える場合、受益者にものの移動があるときは、受益者は「ニ格」で示す。ものの移動がないときは、「のために」で示す。
2.2.1 授動詞文の<主体>と<受益者>
日本語には、誰に向けて動作が行なわれたかを明示する形式がある。動詞(~て形)に
補助動詞としての「やる」「くれる」「もらう」がついた、いわゆる「授受文(やりもらい文)」である。授受文は、動作主体・話者の視点・待遇の面から体系をなしているが「やる・くれる」と「もらう」は構文的に異なっている。「やる・くれる」文は、元になる文の構造をかえずに、動詞に補助動詞をプラスした形を基本とするが、「もらう」文は、元になる文と主語・補語の位置が異なる。「もらう」文は、構造の面からは、受け身文につながるといえる。
(元の文)先生が 太郎を ほめた。(動作主体-対象-述語)
(受け身)太郎が 先生に ほめられた。(対象-動作主体-述語)
(もらう)太郎が 先生に ほめてもらった。(対象-動作主体-述語)
本項では、元の文と格の構造が変わらない「やる」「くれる」文を中心に、誰に向けて動作が行なわれたのかを明示する格マークが何になるのかを見ていくことにする。「やる・くれる・もらう」は動詞で表わされる内容について、話し手の視点によって、話者が主観的に表現したものである。実際の受給関係のあるなしに関わらず、話者の視点からの受給関係を表わす。
(1)お兼さんは自分の声を聞くや否や、上り口まで駆け出してきて、「このお暑いの によくまあ」と驚いてくれた。(『行人』)
この「驚いてくれる」の行為主体(お兼さん)は、相手の利益を考えて「驚く」という行為を行なったわけではない。しかし、「自分」は主観的に、お兼さんの「驚く」という行為が自分に向けて行なわれたと受け止め、自分にとってプラスの利益を感じさせるものとして「くれる」を用いている。授受文は、話し手の視点からみて主観的に「行為が行なわれる方向」「誰の為に行為が行なわれたか」を示すのである。
授受文の補助動詞「~てやる」「~てもらう」「~てくれる」は、本動詞の動作行為がだれに向かって行なわれるかを示すのであって、利益の受給そのものを示すのではない。行為を向けられた相手にとって、その行為が受け入れられるものであれば、プラスの利益になるし、受け入れられないものならばマイナスの利益と受け止められる。「やりもらい」が文法的に表わすのは行為を向ける方向であって、話し手や聞き手の主観によって、その行為がプラスにもマイナスにも受け止められる。本稿でいう「受益者」とは、あくまでも話し手の主観の中での利益・恩恵の受け手であって、現実に行為の受け手が利益を得るとは限らない。「軽蔑する」「ぶつ」「いやがらせをする」など、語彙的にマイナスの利益と受け取られることが多い語もあるが、文脈によっては、プラスの利益にもなり、話し手の表現意図によって変わってくる。
マイナスの利益を表している文。(例)花子をいじめたくなって、太郎は花子に石をぶつけてやった。
(2)あとにも先にも一度の小言をあんなにくやしがって泣いてくれなくともよさそう なものを。(『野菊の墓』)(マイナスの利益)
(3)私はこの小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。(『放浪記』)
(4)彼と一度仕合いして化けの皮をひんむいてやりたいと思った。(『風林火山』)
プラスの利益を表している文(例)境内の石を病気の部分にぶつけると治るという話を聞き、太郎は花子に石をぶつけてやった。
(5)外の場合なら彼女の手をとって、ともに泣いてやりたかった。(『行人』)
「のために」は、授受文でない場合も、動作・行為の恩恵・利益を受ける存在を表わすことができる。「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作った。」という文は、動作主体(おかあさん)がヒサの利益を目的として動作を行なったことをあらわす客観的な描写である。「ヒサのために」は客観的に受益者がヒサであることを示している 一方「おかあさんはヒサのために、ヒサの大好きな五目めしを作ってくれた。」という文は、視点がヒサの側にあり、ヒサの側からおかあさんの行為を主観的に述べたことになる。話し手(文の作者・語り手)の意識がヒサの立場に置かれておりヒサの側から表現されているのである。このように、授受文は、ある立場からの視点による動作・行為の方向の表現であり、一つの視点からみて主観的に恩恵を受ける存在を示す文である。
2.2.2 意志を表わす「~てやる」
「~てやる」文の動詞は本来、意志動詞である。「~てやる」文に、非意志動詞が用いられる場合、「わざと驚いてやった」「家族のために死んでやろう」などのように意志的な意味が加わる。意志を加えられない動詞を「~てやる」文にすることはできない。
「*はっきりと見えてやった」「*うっかり落してやった」
本動詞としての「やる」には「一方から他方へ移らせる」という行為の方向を示す用法のほかに、「積極的にみずから行なう、する」という意味もある。
(6)若し、そなたが、このわたしの命令をきかぬならば、わたしは、それを自分で やります。(『風林火山』)
「~てやる」という補助動詞としての用法にも、動作・行為の方向を示すのではなく、「積極的に行なう」という意味を表わす場合がある。この場合は、動作・行為主体の意志や希望を表わしている。
(7)ああ、もういっそ、悪徳者として生き延びてやろうか。(『走れメロス』)
(8)畜生、この仇はきっととってやる。(『邪宗門』)
2.2.3 受益者の格マーク
「~てもらう」は、動作・行為を向けられる側を<主語>とし、動作主体を補語として、表現した文であるが、「~てやる」「~てくれる」は、動作・行為を他者に向かって行なう側を<主語>とし、動作・行為を向けられる側を補語とする表現である。
「~てやる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」を行為の受け手にすることはできない。「~てくれる」は、「話し手・話し手が同じ立場に立つ人」が行為の受け手になる。逆にすると非文になる。
*太郎は私をかわいがってやった。(*は、日本語表現として適切でない文・非文を表す)
*私は太郎をほめてくれた。
「~てやる」「~てくれる」文は元の文と格の構造を変えず、動詞に補助動詞「やる」「くれる」を付け加えて、動作を向ける相手、利益・恩恵を受ける相手(受益者)を示す。受益者はもとの文の補語と別の存在として付け加えられることもあるし、もとの文の補語(動作客体など)が受益者を兼ねる場合もある。
もとの文に新たに受益者格を付け加える場合、「のために」という複合助詞で受益者を明示することもあり、「に格」で受益者を示すときもある。一般的な会話や小説などの文章中では、行為者や、行為を向けられる人は自明のこととして省略される場合が多い。文脈によって、誰がその動作・行為を行なうのか、誰に向かって行為が向けられているのか、推察できるからである。しかし日本語学習者にとって、これを推察するのは上級者になってもなかなか難しい。
<主語(行為者)>については、なんとか推察できる学習者でも、誰に向けた行為なのか、という点はなかなか理解できない。新聞・小説などの読解に進んだとき混乱する原因のひとつとして、初級段階で、受益者がどのように示されているのかを確実に把握していないこともあげることができるだろう。何によって受益者の格マークが決定されるのであろうか。
「やり・もらい」によって、動作・行為の方向を表わした結果、その動作によって、相手との関わりが直接的なものとなるかどうか(相手へ移動するものがあるかないか)ということが、関係してくる。動作の結果、相手へ移動するものには、具体的なものもあるし、抽象的な物の場合もある。動作・行為の結果、相手への授受・移動があるかないかが、格マークにかかわってくるのである。
大曽美恵子(1983)は、国立国語研究所『動詞の意味・用法の記述的研究』をもとに、「~てやる」の受益者格について、次の法則をまとめている。
具体的な物、または抽象的な物(情報・知識など)あるいは五感に訴える何か(声・音・香りなど)が、好意とともに受け手にむかって移動すると考えられるときにのみ、ニ名詞句を使って行為、およびに上記の物の受け手をしめすことができる。
本項はこの指摘をもとに、さらに検討を加え、受益者を「のために」で示す場合、「に格名詞句」で示す場合、受益者が元の文の補語(動作客体)と同一の場合、異なる場合、あらたに受益者を付け加える場合などの条件を考えていきたい。
2.2.4 受益者格を新たに付け加える場合
授受文の受益者が動作の直接の客体ではなく、利益・恩恵の受け手としてのみ存在している場合がある。すなわち授受文にした結果、利益の受け手としての補語を付け加える場合である。物の授受・移動がない場合とある場合によって、受益者の示し方が異なる
物の授受、移動がないとき
動作・行為が相手や対象(アニメイト・組織・機関)を必要とせず、動作の結果、受益者へ向かって、物の授受、移動が行なわれない場合、受益者を明示するときには「のために」を用いる。物の移動がないのに「に格」を用いると、不適切になる。行為者は、受益者の利益を目的として動作・行為を行なうが、その動作・行為は、相手が存在しなくとも完結する。
(9)太郎は家族のために、一日中 働いてやった。(家族=受益者)
*太郎は家族に、一日中 働いてやった。
(太郎は、一日中働いた。)
(10)万更の他人が受賞したではなし、さだめし瀬川君だって私の為に喜んでいてく れるだろう、とこう貴方なぞは御考えでしょう。(『破戒』)(私=受益者)
*瀬川君だって私に喜んでいてくれるだろう。
(11)津田はこの二人づれのために早く出て遣りたくなった。(『明暗』)(二人づれ=受益者)
小説などでは文脈上、受益者が省略されていることが多いが、学習者に受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動がないときは、受益者を「~のために」で示す。
( )は省略されている語を筆者が補ったもの。
(12)つうがもどってきて、汁が冷えとってはかわいそうだけに、(おらが、つうの ために)火に掛けといてやった。『夕鶴』
(13)やっぱりあんた、(おれのために)これを警察にもっていってくれないか。(『空 洞星雲』)
機械的に『受益者は「に格」』と覚え込んでしまった学習者は、「あたしが代りに行って、断わってきてあげましょうか『明暗』」の受益者を明示しようとすると、『*あたしが代りに行って、あなたに断わってきてあげましょうか』というような誤用をしてしまうことになる。(あたし=お延 あなた=津田)
物の授受・移動がある場合
本動詞が「に格の相手対象」の補語をとらないときでも、授受文にすると、動作・行為の結果、相手に物を授受することになったり、ものが移動する場合がある。
動作・行為を向ける相手(受益者)は移動するものの着点であるので、このときは受益者を「に格」で示す。移動するものは、具体的な物の場合もあるし、抽象的なもの(情報・知識など)や、感覚的なもの(声・匂い)などの場合もある。
学習者に、省略された受益者を明示する必要がある場合、ものの授受・移動があるときは、受益者を「に格」で示す。
(14)いいもの、八津にこしらえてやろう。(『二十四の瞳』)(八津=「いいもの」の着点・動作を向ける相手・受益者)
動作主体が「こしらえる」動作を、八津の利益を目的として八津に向かって行なう、ということを動作主体(話者)の立場から述べている。「こしらえる」動作の結果、「いいもの」は八津に移動することをふくみ(implicature) として表現している。
(15)さっそく、富岡はゆき子の枕元に座り込んで、ナイフで(ゆき子に)林檎をむ いてやった。(『浮雲』)(ゆき子=林檎の着点・動作を向ける相手・受益者)
動詞によっては、補助動詞「~てやる・くれる」を加えた結果、物の移動が生じるときと移動がないときの、二つの条件に別れる場合がある。
「読む」は「を格」の補語(非アニメイト)を必要とし、本動詞は「に格」を必要としない。しかし「~てやる・くれる」を加えて、受益者を示す必要ができたとき、受益者への声の移動のあるなしによって受益者格が異なる。省略された受益者を明示するときも、注意が必要である。
「太郎が本を読んだ。」という文の「読む」は、黙読したのか朗読したのかは、前後の文脈がなければ、この一文だけでは決定できない。しかし「~てやる」文にすると、動作を向ける相手や、受益者を示す必要がでてくる。朗読して相手に聞かせたときは、「声」が相手に移動すると考えられ、受益者は「に格」で示される。(動作を向ける相手=声の着点)
(16)太郎は花子に絵本を読んでやった。(花子=受益者・動作を向ける相手・声の着 点)
「に格名詞句」は、動作を向ける相手になり、「読んでやる」は「朗読する」に限られる。「に格名詞句」は、動作主体が動作を向ける相手・声の着点であり、受益者となる。朗読したときは、声の着点の「に格」がなければならないので、たとえ「絵本」が「花子」の所有物であっても、「太郎は花子に(花子の)絵本を読んでやった」という文にすべきである。
(17)童話指導上の大切な点は、子どもに読んでやったにしても、また自分で読ませ るにしても、あとで子どもと話し合うということです。(坪田譲治)
(子ども=受益者・動作を向ける相手・声の着点)
黙読したときには動作・行為を向ける相手は必要ない。着点名詞句がないので、受益者を「に格」で表わすことはできない。
(18)卒論の添削を頼まれたので、太郎は花子のために論文を読んでやった。
(花子=受益者)
(19)「(夏崎は)上京すると、必ず私の所に寄りまして、読んでくれと大量の原稿 をおいていきます」(『空洞星雲』)
(20)私は夏崎のために原稿を読んでやった。(夏崎=受益者)
(19)を「私は夏崎に原稿を読んでやった。」とすると、夏崎に向かって朗読を聞かせていることになってしまう。
「歌う」も、声の着点が受益者を兼ねていれば、「に格」で、そうでなければ「のために」で受益者を示す。(省略された受益者を明示するときも同様。)
(21)太郎は花子に子守歌を歌ってやった。(花子=受益者・声の着点)
(22)太郎はいまは亡き作曲者のために彼の遺作曲を歌ってやった。
(作曲者=受益者)
動作の結果、物の授受・移動がないときは「のために」を「に格」に変えて受益者を示すことはできないが、移動がある場合には、受益者を強調して表現したいとき「に格」を「のために」に変えて受益者を示すことができる。このときは「のために名詞句」がふくみとして着点を表わす。(23)は、受益者「彼(晴信)」は「のために」で示されているが授受の後、「城」の着点であることをふくんでいる。
(23)そして晴信という若い武将と一緒に合戦に出掛け、彼のために次々に城をとっ てやることが、ひどく楽しいことのように思われた。(『風林火山』)(彼=受益者・城の着点)
(24)太郎は花子のために絵本を読んでやった。(花子=受益者・声の着点)
(24)は、朗読、黙読の両方の可能性がある文になるが、この場合は、前後の文脈で判断するしかない。
元の文の補語が受益者を兼ねる場合もある。動作・行為を向ける相手が、元の文の動作客体と同じ場合、元の補語が受益者を兼ねるため、特別な場合以外、受益者をあらためて示す必要はない。(受益者を特に強調する場合、元の補語に重ねて受益者をあらためて示すことがある。)
「に格」の補語が存在する動詞文
元の文に「動作の相手」が存在している場合、「動作の相手」が「授受の相手」と同一なら、「に格の相手対象」がそのまま受益者になる。使役文のうち、「に格の相手対象」をとる文も同様である。
省略された受益者を明示する場合も、元の文の「動作の相手」が受益者のときは「に格」によって表わす。
(25) ほんにおとっつぁまも貧乏人で、その頭巾のほかにゃ、何をひとつおめえに残 してやることもできなんだわけだ。『聴耳頭巾』(おめえ=相手対象・受益者
(26)でも、あのときのきみは、たしかに何か貴重なものをぼくに与えてくれた。
(『夜の仮面』)(ぼく=相手対象・受益者)
(27)あたいの会長を(あんたに)紹介してやろうか。(『空洞星雲』)
(28)お医者さんは、とても治らぬというし、それなら好きな雑誌を好きなだけ(お まえに)読ませてやろうと思ったのが、親の慈悲というものだよ。(『雑誌記者』)
(29)東洋新聞記者の名刺の威力で、係員はすぐに登記の写しを(矢部に)見せてく れた。(『夜の仮面』)
(30)それを中座して真佐子に会い、(真佐子に)靴を買ってやってからホテルへ。(『彼方へ』)
受益者が元の文の「に格の相手対象」と同一でなく、別に存在するときは、受益者は「のために」で示される。ただし、「に格の相手対象」も、行為を向けられる結果、恩恵・利益を受けることができる。省略を補うときも同様。
(31)津田から愛されているあなたもまた、津田のためによろずをあたしに打ち明け てくださるでしょう。(『明暗』)(津田=受益者)(あたし=相手対象)
(32)だが、なにか知っているならば、教えてくれないか」(『夜の仮面』)
だが、なにか知っているならば、(君の妹さんのために、ぼくに)教えてくれな いか(君の妹さん=受益者)(ぼく=相手対象)
受益者と「に格の相手対象」が同一の場合、受益者であることを強調して示したいときは、受益者を「に格」でなく、「のために」で示すことができる。「のために名詞句」はふくみとして「相手」を兼ねて表わす。(35)は、受益者を「のために」で示しているが、受益者(あなた)が「贈る」動作の相手対象でもあることをふくんでいる。
(33) あなたいかがです、せっかく吉川の奥さんがあなたのためにといって贈ってくれたんですよ。『明暗』(あなた=相手対象(ふくみ) ・受益者)
(34) 真佐子に靴を買ってやった。(真佐子=相手対象・受益者)
(35) 真佐子のために靴を買ってやった。(真佐子=相手対象(ふくみ) ・受益者)
(36) 真佐子のために靴を買った。(真佐子=受益者)
(34)と(35)は、「買う」という動作が真佐子に向かってなされている。真佐子は靴の着点であり、靴が真佐子に与えられることをふくんでいるが、(36)は、靴が真佐子の手に届いたかどうかは表現していない。文脈の断続の適不適からいうと、「真佐子のために靴を買った。だが、真佐子にやらなかった。」とはいえるが、「真佐子に靴を買ってやった。だが真佐子にやらなかった。」というのは不自然である。
「に格」以外のとき
「に格の相手対象」をとる動詞でないときも、「を格の直接対象」「と格の相手対象」「から格の相手対象」などに動作・行為を向けているとき、受益者と動作を向ける相手が同一なら、受益者をあらためて示す必要はない。受益者と対象が異なる場合は、受益者は「のために」で表わす。省略されている受益者を明示するときも、同様である。
(37)矢部さんは心のやさしい方なのね。そういって、わたしを慰めてくださるのね。 (『夜の仮面』)(わたし=直接対象・受益者)
(38)あのとき、力ずくでもいいから、この人はわたしを奪ってくれればよかったの だ、と寿美子は思った。(『夜の仮面』)(わたし=直接対象・受益者)
(39)三尾は、瑛子の父が自分を思い出してくれたのが、嬉しかった。(『空洞星雲』) (自分=直接対象・受益者)
(40)勘助は、二年前自分を召し抱えてくれた若い武将が好きだった。(『風林火山』) (自分=直接対象・受益者)
(41)何もお前が岡田なんぞからそれを借りてあげるだけの義理はなかろうじゃない か。(『行人』)(岡田=相手対象・受益者)
(42)だが、ゆき子だけは、病気と闘いながらも、ここまで、自分と行をともにして きてくれたのだ。(『浮雲』)(自分=相手対象・受益者)
(43)太郎は花子と結婚してやった。(花子=相手対象・受益者)
(44)太郎は花子といっしょに図書館へ行ってやった。(花子=共同者・受益者)
受益者と対象・相手が同一でないときは、「のために」を用いて受益者を示す。
(45)母が「早く結婚して親を安心させろ」というので、太郎は母のために花子と結 婚してやった。(母=受益者)(花子=相手対象)
「に格名詞句」が受益者を兼ねているときは、受益者を「のために名詞句」で示し、ふくみとして、物の着点を表わすことができた。これに対し、「を格」「から格」「と格」など、「に格」以外の格の場合は、「のために名詞句」が、ふくみとして他の意味を表わすことはない。
「太郎は 花子のために 図書館へ 行ってやった。」という文は、太郎が花子といっしょに行ったことをふくみとして表わさないし、「母のために結婚してやった。」という文は、結婚相手が誰であるか表わしていない。
「おれは真佐子のために靴を買ってやった。」という文が、受益者格の「のために」によって、靴を受け取る相手をふくみとして表わすことができるのは、物の移動があるからである。「に格の相手対象」がものの移動の着点になっているときに、「のために」を「に格相手対象」をふくんで用いることができる。
受益者が「の格」で表わされるとき
人の体の部分、心情、所有物、所属物などが補語になっている場合、補語の所有者が受益者と同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。「の格名詞句」が、受益者を表わす。補語の所有者と受益者が異なるときは受益者を「のために」で示す。
(46)寿美子は、すぐには答えず、ハンカチーフを出すと、希代子の汗を拭ってやっ た。(『夜の仮面』)(希代子=汗の所有者・受益者)
(47)大友はカチリとライターを鳴らして、矢部のくわえたままのたばこに火をつけ てくれた。(『夜の仮面』)(矢部=タバコの所有者・受益者)
(48)太郎は花子の部屋を掃除してやった。(花子=部屋の所有者・受益者)
(49)母は上京するといつも花子の部屋に泊まるので、太郎は母のために花子の部屋を掃除してやった。(母=受益者)(花子=部屋の所有者)
物の授受(移動)がある場合、「の格」で示される受益者は、ふくみとして物の着点を表わす。逆に、「に格」で受益者を示したとき、移動する物は授受の後に受益者の所有物になることをふくんでいる。(50)は授受の相手を示す「に格名詞句」がない文だが、「の格所有者」である花子が授受の相手であることをふくんでいる。(51)は服の所有者を示す「の格名詞句」がない文だが、授受の相手である花子が、授受行為の後、服の所有者になることをふくんでいる。
(50)太郎は花子の服を縫ってやった。(花子=授受後の所有者・ 受益者(ふくみ))
(51)太郎は花子に服を縫ってやった。(花子=相手・受益者・授受後の所有者(ふくみ))
2.2.5 授動詞文のまとめ
授動詞文の受益者は、次のように示すことができる。
(1)元の文の補語と受益者が同一のときは、受益者をあらためて示す必要はない。元の文の「に格相手対象」「を格直接対象」「と格相手対象」などの補語が受益者を兼ねる。
補語の所有者と受益者が同一のときも同様で「の格所有者」が受益者を表わす。
補語と受益者が同一で無いときは受益者を「のために」で示す。
(2)授受文にしたため、元の文にはなかった受益者を付け加える場合、具体的・抽象的な物の移動(授受)がある場合、物の着点と受益者が同一のときは、受益者を「に格」で示すことができる。物の授受・移動がないときは、受益者を「のために」で示す。動作・行為を向ける相手(授受後の物の着点)と受益者が異なるときは、受益者を「のために」によって示す。
(3)物の移動があるとき、「のために」で受益者をしめし、ふくみとして動作・行為を向ける相手・物の着点を表わすことができる。物の授受・移動がない場合は、できない。
2.3 直接受身文の動作主体
動作主体Xによる行為・動作は、客体と次のような関係を持つ。
(a)動作主体Xの直接の働きかけが客体Yに及ぶ。
・XはYをV(動詞) 太郎は花子を殴る 太郎は花子を救う
(b)動作主体Xの動作・行為の相手がY。
・XはYにV 太郎は花子に惚れる 太郎は花子に会う
(c)動作主体XとYの共同行為。
・XはYとV 太郎は花子と結婚する 太郎は花子と衝突する
2.3.1 受身文の動作主体のマーカー「ニ」「カラ」「ニヨッテ」
(a)の直接の働きかけの行為内容は、さらに分析すると、(a1)(a2)(a3)に分けられる。動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文の場合、生産物を主題、主語にすると、動作主体のマーカーは「ニ」ではなく、「ニヨッテ」となる。動作主体を「カラ」出表す場合もあり、この、「ニ」と「ニヨッテ」「カラ」の使い分けを日本語学習者に示すのが本項の目的である。「ニ格」は、行為の与え手、被作用者にとって、行為の相手を示す。「カラ格」は行為の出どころ、行為の起点を示す。「ニヨッテ」は行為の原因根拠となるものを示す。
(a1)「行為の受け手」「行為の目当て」が受身文の<主語>になる場合
(a2)「行為の目当て」が<主語>になる場合
(a3)動作主体の行為動作の結果「生産物」が生じる場合
2.3.2 「行為の受け手」「行為の目当て」が受け身文の<主語>になる場合
(a1)動作主体Xが、客体Yに対して、物理的・心理的に働きかけ、それによってYが直接何らかの影響を受ける。(殺ス、壊ス、割る、捕マエル、助ケル、苦シメルなど)
Yの役割は「行為の受け手」。Yを主語として受け身文にすると、動作主体は「二格」で示される。 ・Yは Xに Vラレル
(1)先生が私を叱った。
→ ・私は先生に叱られた。(「私」は私にとって既知の存在なので、ガ格は他との対比の場合にのみ用いられる。「(他の人ではなく)私が先生に叱られた」)
・私は先生から叱られた。 (親から叱られたのではなく、先生から叱られたのだ、ということを強調したいときは可。一般的には「二格」の方が動作主性を表せる)
?私は先生によって叱られた。
この文では動作主体「先生」に対する被作用主体「私」のほうが、名詞階層1が高い。したがって被作用主体の側から主観的に事象を描くことが自然である。「カラ」を用いることも可能であるが、「ニ格」によって動作主性を表すほうが自然な表現である。
(2)先生が私の作文を誉めた。(持ち主の受け身)
→ ・私は先生に作文を誉められた
・私は先生から作文を誉められた。
・?私は先生によって作文を誉められた。
(3)太郎が花子を救った。
→ ・花子が太郎に救われた。
*花子が太郎から救われた。
・花子が太郎によって救われた。
花子と太郎の名詞階層は同等。そのため、カラ格は、行為の起点という意味よりも、花子が何からすくい上げられたのか、という救難の場所を示す。「花子は泥沼から救われた」と同じように、花子が救い出された元の場所を示す場合に「太郎から救われた」と表現できるが、救助行為の起点としては用いることができない。
(4)先生が答案用紙を配った。
→ *答案用紙が先生に配られた。(答案用紙は、先生より名詞階層が低いので、「ニ+先生」は、答案用紙の帰着点が先生であると受け取られる)
?答案用紙が先生から配られた(答案用紙が誰のもとに帰着したのか、文脈からわかる場合のみ可)
・答案用紙が先生によって配られた
(5)先生が生徒に答案用紙を配った
→ ・答案用紙が先生から生徒に/へ 配られた
・生徒は先生から答案用紙を配られた
?生徒は先生によって答案用紙を配られた
「行為の目当て」が主語になる場合
(a2)動作主体Xが、客体Yに対して、感覚的感情的に働きかける。
(Xの感情が向かう先がY)愛スル、憎ム、好ム、嫌ウ、尊敬スル、軽蔑スルなど。
(Xの感覚が出現する先がY)見ル、聞ク 嗅グなど
Yの役割は、「行為の目当て」。Yを主語として受け身文にすると、
・YはXに Vラレル
(6)太郎は花子を愛する
→ ・花子は太郎に愛される
・花子は太郎から愛される
・花子は太郎によって愛される
(7)太郎は花子の手紙を見る 間接受け身文(持ち主の受け身)にした場合
→ ・花子は太郎に手紙を見られた
*花子は太郎から手紙を見られた
?花子は太郎によって手紙を見られた
2.3.3 動作主体の行為動作の結果生産物が生じる文
(a3)動作主体Xの動作・行為の結果、Yが生じる。 作ル、掘ル、描クなど。
Yの役割は「生産物」。Yを主語として受け身文にすると、YはXによって Vラレル
→ (8)料理が花子によって作られる 絵は太郎によって描かれる
寺村(1981)は(a3)の「新たにモノを作り出す」類の動詞は、その作業の結果何ものかが出現することを表すものであることから、「到達点」を要求する移動の動詞、「変化の結果の状態」を要求する変化の動詞と共通する性質をもっている。」と述べている。生産物の最終的な出現を動作の完結点として要求する。
日本語受け身文では、動作主体agentを「ニ格」で表す。複合助詞「ニヨッテ」も<動作主>のマーカーとして用いられる。「によって」は、格助詞「ニ」、動詞「因る、拠る(よる)」の連用形+接続助詞「テ」が複合して助詞相当句となったものである。「よる」が実質的な意味を有する動詞として用いられ、体言をうけて、「波による浸食」「女性による犯罪」「運慶による仏像」「アンケートによる調査」などで原因や根拠を表すが、近世以後、「よる」の連用形+「テ」で用いられてきた。(a3)のモノの生産を受け身文で表すとなぜ「ニ」ではなく、「ニヨッテ」が動作主マーカーを表すのか。
答案用紙は無生物のモノ名詞であるので、ヒトである先生より名詞階層が低い。そのため、答案用紙を被作用主体として主語にするとき、動作主体の意味で「ニ」を先生につけることができない。「先生」に「ニ」をつけると、「二」は名詞階層の高い「先生」を「帰着点」と認定するからである。答案用紙が配布されて、先生の元へ帰着するという意味を優先するため、動作主体を表さず、答案用紙が先生のもとへ移動したことを表す。
(9)先生は私たちに答案用紙を配った。(「ニ格」は、答案用紙の帰着点)。
この場合、「私たち」を被作用主体とし、「先生」に「ニ」をつけて作用主体(動作主体)を示すことができる。
→ ・私たちは先生に答案用紙を配られた。(「二格」は作用主体)。
・私たちは先生から答案用紙を配られた。
・私たちは先生によって答案用紙を配られた。
(a3)作ル、掘ル、架ケル、描クなどの動作主体Xの動作の結果生じたYを<主語>として事象を描くとき、名詞階層の低い生産物が名詞階層の高いヒトを押しのけて、そちらに視点を集めるようにするのであるから、動作主体は背景化されて「答案用紙が配られた」と、動作主体は言及しないでおくか、根拠原因のよってきたるところをしめす「によって」を用いて動作主体を表すか、どちらかになる。「答案用紙が先生によって配られた」。創作品が生じる動詞の作品・出現物を主題するとき、動作主体は「によって」で示すことになる。
(10)ゲルニカはピカソによって描かれた。 *ゲルニカはピカソに描かれた。
生産出現動詞であっても、被作用者がヒトであれば、「ニ格」で作用主体を示すことができる。しかし、有生主語より名詞階層が低い生産物を主語にすると、生産者をニ格で示せない。
(11)犬のポチが私の大切な花壇に大きな穴を掘った。
→ *私の大切な花壇に、大きな穴がポチに掘られた。(動作主体は「ニ格」で表せない)
→ ・私は、ポチに大切な花壇に穴を掘られた。(動作主体は「ニ格」で表せる)
これに関して、三原健一(1994)は、以下の例文をあげて、次のようにと述べている。
(12)私はそのことで親に叱られた。
(13)答案用紙が配られた。(試験官によって / *試験官に)
動作主をニで標示することが自然である文では、主体者(通常は有生主語)の側から事象を描くという意味において主観的表現であり、直接的に能動文に対応する客観的な表現である「に」のほうがより視点が近く、身近な表現としてとらえられ、主観的な表現であると言えるのに対して、「によって」は客観的で、能動と受動の関係が対応するというようなときに使用される(295)。
しかし、「二格動作主」は主観的な表現、「ニヨッテ」は客観的、という説明では、日本語学習者に具体的な使い分けの基準がわからない。
日本語学習者に対して、教授者は「主語の名詞が、動作主体の名詞よりも名詞階層8が低いとき、動作主体は「によって」で表される」という点をよく理解していることが肝要である。それをふまえて説明をしておけば、日本語学習者が迷うことはない。
第2節においては、再帰性他動詞文、授受動詞文、受け身文などの<主体>がどのように表現されているか、精査した。