にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

第1章 日本語における<主体.>と<主体性>

2010-04-24 23:16:00 | 日本語言語文化


第1章  日本語における<主体.>と<主体性>


はじめに
 近代以後、日本語の文法研究は主として英語などの標準ヨーロッパ語1(以下西洋語と略す)との対照によって進められてきた。西洋語文法の枠組みの中で研究されてきた近代以後の日本語について、西洋語文法の見方そのままで日本語を解釈した上で、「主語のない文は行為主体を明確にしていない」とみなす論者が、現在でも存在している。日本語学研究で進められてきた「主語論」の内容は、一般に浸透しないまま、「<主語無し文>は主語の存在を曖昧にすることによって行為の無責任性を表す」というような日本語観が流布しつづけることは、グローバル化が進む世界的次元でのコミュニケーションにおいて誤解を引き起こしかねない。日本語は西洋語とは異なる論理と統語のもとに構成されてきた言語である。西洋語文法でいう<主体・客体>、<主語・述語>という枠組みとは別の視点で日本語を読み解いていく必要がある。
 「日本語は、状況を把握し、表現主体(話し手・語り手)と表現受容者(聞き手・読み手)の関わりを考慮しないと理解できない」とは、日本語学習者が、ある程度日本語学習が進んだ段階で言う言葉である。非日本語母語話者が、「主語とみなされる語を補って英語翻訳などに置き換えてから理解する」という方法に頼らず、日本語を日本語の論理のなかで理解していくためには、何を教授し何を理解させればよいのかということは、まだ十分に日本語教育に提出されているとはいえない。日本語の<主体>の問題について、述語表現、題述関係などを俯瞰し、考察していきたい。
近代以後の西洋文化、欧米的思考においては、<主体>と<客体>(=他者)とを分けて認識する思考方法のみが有効とされてきた。<主体>は<客体>に対し行為作用を行い、<主体性>をもって<客体>を変化させていく絶対的存在とみなされていた。しかし、近年、<主体>は他者との関係性において認識されるようになってきている。「主体は独自に優先的にあるのではなく、多様な要因によって形成される何か」であるというジョナサン・カラーの説明は、欧米的思考が変化してきたことを明らかにしている。だが、一般の日本語学習者は、まだ西洋語の論理によって日本語を見るため、日本語が理解できなくなることも多い。日本語教育にあたっては、日本語の論理を明確にし、西洋語とは異なる論理が存在するということを学習者に伝えなければならない。
 本章では、日本語の<主体>と<客体>の関係がいかに言説化されているかを考察していく。日本語の述語に対して<主語>の関わり方は、「主語優先」ではない。述語内容が実現する場として、<主体>と<客体>が合一的に述語に向かう日本語の再帰的他動詞文の理解は、日本語学習者に<主・客>の関係を日本語の論理の中で考えて行く場合に有効である。「主体が客体に対して行為を加える」ことを述べるだけが<主・客>の表現ではないことを教えることができるからである。
 本章第1節では、日本語の<主体>と<客体>の関係を確認する。日本語は述語の内容の実現の場とする<主語>を持つが、<主語>は背景化されることが多い。表現主体が表現の場において話し手・聞き手を「発話の場に存在する者」と認識して表現するとき、話し手・聞き手の自明性によって、それらを明示する必要はないからである。西洋語では、聞き手に対する命令文のみ<主語>が背景化するのだが、日本語では命令文以外の肯定文、否定文、いずれも<主語>を背景化することが可能である。第1節では、世界の言語との対照から、<主語>を明示しなければならない西洋語のほうが言語としては特殊な表現方法をとっているのだ、という観点から日本語の<主語>を考える。
 第2節では、再帰的他動詞文の<主・客>を中心に扱う。<主体>と<客体>が「全体・部分」の関係を持つとき、他動詞述語の内容は<主体>から<客体>へ行為作用を及ぼすという典型的他動詞文から外れていき、段階的に自動詞文に近づいていくことを考察する。また、授動詞文や受身文の<主体>と<客体>について考察する。<客体>の格マーカーを精査することにより、<主・客>の関係が明らかになることを述べる。
 第3節では、現代日本語を母語とする者の文法意識を探り、日本語を母語とする者の多くが西洋語論理を日本語に適用し、「主語のない日本語」を「行為の責任を明らかにしていない」と考えていることを検証する。



第1節 日本語における<主体>

1.1 認識の<主体> 
本節では、まず、日本語における<主体>および<客体>と、これらの関係性を確認する。<主体>は、ヘーゲル以後、言語学哲学上の「発話の<主体>=表現主体」として扱われてきた。本論においても、<主体>は発話がなされ、ひとつの表現が出現していれば、その発話を行ったものを表現主体として認める。「ああ、暑い!」「水!」という発話が為されたら、「暑い」と感じ認識した<主体>、「水」という一語文によって、「水が欲しい」または「水が飲みたい」と要求している者を<主体>と認める。表現主体が発話していることは自明のことであり、日本語は、発話者が「今、ここ」の現場で臨場的に感覚や体験内容を述べることを表現の中心にしている。本論において、日本語は「<主体>と<客体>が、述語に表された事態の推移の中にあって、<主体>が事態の推移を経験(受容)している」という表現であること、<客体(対象語/目的語/客語)>は<主体>と対立するものでなく、<主体>と融合して事態の推移の中にあることを述べる。日本語では、<主体>が文の<主語>として表されている場合もあり表されていない場合もある。また、<主体>の感覚や意識が向けられている<客体>が表されてる場合もいない場合もあり、<客体>が<主体>の一部分として融合して発話される場合も含めて、<主体><客体>を認めるところから論を始める。「あ!あそこ、犬が走っている」という文は、「表現主体(発話者)は、犬が走っているという現実を認識したということを、聞き手に伝える」という内容を含んでいる。表現主体と聞き手の存在が明らかであるとき、認識した者や伝達した者を表現に付け加える必要はない。「あ、犬が走っている」という文の表現主体は発話者であり、発話者は、発話内容を受容する聞き手を想定して伝達行為を行う。発話主体や伝達主体は文に明示されることはないが、存在している。認識され伝達された発話内容の<主語>は「犬」であるが、述語の「断定・非過去・動作継続アスペクト」や感動詞「あ!」場所指示の「あそこ」の選択に、表現主体の認知し伝達しようとした<主体性>が表れている、というのが本論の立場である。
 日本語文には、発話の背後に認識の<主体>が置かれている。「あ、雨」という発話があれば、雨を認識した<主体>がそこに存在していると認める。「雨が降っている」という認識があれば、そこにはその認識を持つ<主体>が存在し、その<主体>は、雨によって何らかの影響変化を受けているのであるから、それを言語的に表現できる。「昨夜、雨が降った」という発話に対して、雨が降ったことを認識した<主体>が、雨を日常的に<主体>に直接関わる存在と認めたとき、雨によって影響を受けたことを「昨夜、雨に降られた」と、受身文で表現できる。これは、日本語の発話にとって、「事態を認識している者」の存在を常に意識し、「発話している者」「認識している者」の存在を重視するのが日本語文であるということの表れである。
 英語などの西洋語ではどうか。<主体(主語)>から<客体(目的語)>への行為動作を表す他動詞文に対して、行為を受ける<客体>を主語にした受動文が成立する。しかし、自動詞文には目的語<客体>が存在せず、行為動作を受ける者が存在しない。したがって、自動詞文では、受動文が成立しない。このことからも、日本語が意味する<主語><主体>と西洋語の<主語><主体>は性質が異なっていることがわかる。
 subjectを<主語>としたのは、辞書『言海』編纂に当たって『廣日本文典』(1897)を著した大槻文彦の翻訳をその魁とする。しかし、当時は西洋文法も研究発展期であり、未成熟な西洋文法を、統語法が異なり言語類型の異なる日本語に当てはめようとした大槻文法は、黎明期の基礎を担うものとなったとはいえ、不十分な面を残す論であった。西洋語の主語と日本語の主語を同一平面で扱おうとしたために、subjectの理解においても、日本語にはあてはまらない事柄に対して十分な文法記述ができなかった。
 西洋語文法では、subjectにもともとは存在していた情報伝達の<話題>という機能が失われて「文の<主語>」という意味を担うのみになった。subujectが日本語文法に取り入れられたのは、<主語>の意味だけになったあとである。日本語には、「主語+述語」という文の形式のほか「話題(トピック)+説明(コメント)」という文法形式がある。言語情報の面からは、西洋語とは異なる表現をしているのが日本語である。係助詞「ハ」が提題機能を担っており、西洋語と文の組み立て方の意識が異なっているのである。トピックとして文にある語は<主語>を兼ねて表現できる、とした上で、本章では、<主体・客体>の確認ののち、他動詞文の<主体>と<客体>の関係について、<主体>と<客体>が所有所属主宰関係にある再帰的他動詞文を取り上げ、他動性と完結性(限界性)を中心に考察する。


1.2 日本語文法から見た<主語>

1.2.1 類型論から見た日本語の<主語>
 松本克己(2006,2007)によれば、「命令文を除き、その表層構造に主語を含まない文は文法的に許容されない」という言語のタイプは、世界に三千から六千あるという言語の中で、少数派である。少数派であるにもかかわらず、近代以後、産業革命をいち早く成し遂げたイギリスの19世紀世界覇権、自動化産業と情報を制したアメリカの20世紀世界覇権によって、英語は世界共通言語としての地位を獲得した。西洋語にSVOという語順が確立されたのは13世紀以後であり、<主語>という概念が文法理論において確立したのも、同時期とみなせる(松本2006:264)。日本語と英語のみを対照して「日本語の主語は明示が義務的でない」と表現するのは、英語中心主義による日本語の姿であって、世界的な言語類型によれば、「主語明示が義務的でない」ほうが多数派であり、文法記述において、<主語>という概念を提出せずに述べることも可能である。以下、松本(2006)の論述である。

 古英語や初期中期英語の非人称動詞などは、もともと<主語>を明示しなくても許容され、文として存在していたが、1500年代までに現代英語の形に取って代わられ、次いでフランス語ドイツ語も同様の変化をたどった。現代英語はSVOの語順をとり統語上厳格な文法項目となっている。この「語順により統語関係を表す」という文法規則は、現代ヨーロッパ諸語に表れているのみで、世界の他の言語圏ではほとんど例を見ないものである。
(中略)。
  西欧の伝統文法で最も重要視される<主語>という概念も、結局のところ、ヨーロッパという特異な言語的土壌が生んだ地域的所産にすぎないと言ってよいだろう。
(大西洋地域)の諸特徴は、全体としてこれらの言語に「行為者優位性actor predominancy」と主語顕著性subject promminency」という類型論的にきわめて特異な性格を付与する結果となった(118-21)。
  世界言語の精査によって、日本語は「類型論的にみるかぎり、特異な言語であるどころか、世界に最も仲間の多いきわめて平均的かつ標準的な言語である。言語の世界で特異な位置を占めるのは、むしろ西洋の近代諸語であって、ここでは日本とうらはらにおのれの言語を全世界の標準と見るかたくなな迷信が、最先端の言語理論家のあいだにさえもはびこっているのである(167)。

 松本(2006)の指摘のように、日本語は日本語の論理の中で考察すべきであり、日本語の<主語>も日本語の統語の中で認めていかなければならない。
ここで、現代において成立しつつあるクレオール言語2、シングリッシュの事例を確認しておこう。シンガポールにおいて、地元のマレー語や客家語が英語と融合して成立しつつあるクレオール言語をシンガポールイングリッシュと呼ぶ。いわゆるシングリッシュである。シンガポール政府は、このようなシングリッシュについて「文法を正しく使えない、劣った英語」と見なされることを嫌い、学校教育ではクイーンズイングリッシュを徹底していくとしている。しかし、現実社会では、自然発生的共通語としてシングリッシュが話されている。シンガポールは、タミル語、マレー語、客家語、英語を公用語とする多言語社会で、さまざまな母語話者が混在している。「民間共通語」シングリッシュが使われ、独自のクレオール言語が発達している途上であるといえる。
 前夜のパーティに出席したある人が、欠席した人に「ゆうべ、何で来なかったの(姿を見せなかったの)?」と、欠席理由を聞くシーンで、話者は聞き手に、「How come never show up?」と質問する。3 このシングリッシュには、英語ならあるはずの主語がない。主語がなくても、互いにコミュニケーションがとれるからである。「文に主語を明示しない」のは、日本語だけの性質でもないし、「狭い共同体のなかで、互いにわかりあえる人とだけコミュニケーションをとればいい」からでもなく、言語のひとつの型として、英語などの西洋語とは異なる型の言語も存在する、というそれだけのことである。語順が日本語と同じ韓国語(朝鮮語)でも、主語の省略は会話のなかに自然に成立している。
 近代以後の西洋文法において、主語の定義は単純明快なものである。
 デカルト派言語学・ポールロワイヤル文法4 の定義によれば以下の通りである。

  あらゆる文(proposition)には、それについて何かが述べられるところの主語と、何かについて述べられたものである述語とが存在する。

 また、ポールロワイヤル文法を高く評価しているノーム・チョムスキー(1965)は、以下のように定義する。

  主語はS(文)に直接支配されたNP(名詞句)、同じく目的語はVP(動詞句)に支配されたNPである。

 しかし、松本(2006)は主語という概念を出さなくても成立する文法論について以下のように述べている。

古代ギリシアの文法学や古代インド文法学においては、主語という概念は欠如していた。古代インド語文法家のパニーニは、主語という概念なしに、名詞の格関係(karaka名詞の格語尾)によって記述している。動作主・使役者・直接的な目標(対象)・達成手段・直接目標の関与者・分離出発点・場所」が、動詞を補足し限定するものとして、動詞=被修飾語に対する修飾語の関係として記述されている。また、アラビア語文法においても、主語という概念は統語的なカテゴリーとしては表れず、動詞文における動作主と、名詞文における主題mubtada'が文法化されている(229-75)。
 
<主語>を提示しなければ文が成立しないというのは、西洋語の特殊な文法形式なのであって、決して世界の言語の普遍的な姿ではないということである。日本語は、談話機能的に文構造を表す、<トピック=主題>と<コメント=解説・題述>が、係り助詞「は」によって文法化されている。主語述語という「依存関係による統語構造」を優先する言語と、談話機能の「主題・題述構造」を優先する言語があるうち、日本語は「談話・情報」機能の明示を優先するほうの言語である。西洋語には「情報の主題」を述べる文法的機能を持つ語は存在せず、語順によって主語と主題を兼ねたものとして表現するしかない。「As for ~」などの二次的な手続きでしか「話題の中心」を表示できない西洋語は、日本語やシンハラ語などの話題の中心を<主題>としてそのまま表示できる言語に比べると情報提示の上では不自由な言語である。
 西洋語の<主語>は、三つの機能が融合したものである。
(1)談話機能上の<主題>
(2)名詞の格表示における主格と対格を失ったSAEが、格表示の代償機能として文の位置関係で語の関係を表す<主語>によって、<述語>への関係を表示する。
(3)動詞の人称語尾によって動作主表示を行う代用として、語頭の語を主語とすることによって動作主を表示する。
 「主語・述語の依存関係」という統語概念とは異なる表現をする言語から見ると、西洋語文法において、<主語>概念を、文法主語、心理主語、論理主語に分ける考え方も、主題表示や格表示を失った西洋語が、主語の中になにもかも投げ込んでしまったがための区分なのである。
 日本語は、<主題>を表す文法的表示「は」と、<主格>を表す「が」を別のものとして明示できるのに対し、西洋語は、この談話機能上の重要な項目を「語頭に出ている主語は主題を兼ねて表示する」という曖昧な表示に変えてしまった言語である。談話機能と名詞の格関係(文の中の意味)を無視して<主語><述語>の統語関係だけを明示する西洋語は、世界言語の中では特殊な言語と言わなければならない。
 日本語で「財布」に話題の焦点があるとき「この財布は、座席の下で見つけました」と、財布に話題を表す「は」をつけて述べればよい。しかし、フランス語では「Ce portefeuille, je l'ai trouve sous mon siege. となり、「この財布はどうしたかというと、それは私が座席の下で見つけたのだ」と、あくまでも「je」の行為を述べる文として表出される。
 松本(2006)は<主語>に関して以下のように述べている。

  「主語は、結論として、普遍的なカテゴリーとしての構文の理論の一部とはならない。主語は、その起源のとても複雑で異質な概念で、非常に限られた数の言語だけの表面の統語的な現象として現れる。したがって、そのような言語の観察だけに基づくどんな統語的な理論でも、完全に再検討される必要がある。どのような意識においても主語が普遍的であると主張するならば、再検討を擁する(277)。

 人類言語にとって西洋語文法でいう主語が、文法的な概念として決して普遍的なものではない、という認識に立って、日本語の<主語>を見ていくべきであろう。
 松本(2007)は、世界言語の類型の中で日本語の<主語><主題>の位置を解明した点で重要であるけれど、それでは日本語はなぜ「行為者が行為を行う」表現より状態主を中心にして「行為の結果の状態」を述べる表現が多用されるのか、については述べていない。本論では「状態の完了を伝えるには、自動詞の完結性(テリック)が必要なためである」と考え、この点については、後述する。
 日本語の<主語>が英語など西洋語の<文に不可欠な主語>とは、異なるものであることを、日本語教育において学習者に混乱なく理解させるには、<主語>や<主題>をどのように扱えばいいのだろうか。
まず、日本語の<主語>を確認し、次に、日本語の自動詞文と他動詞文において、<主体と客体>の関係について、いくつかの特徴を見ておきたい。

1.2.2 日本語の<主語>
 日本語の<主語>についての論争は長く続いてきた。三上章が「西洋語で用いられている意味での主語は、日本語文にはない。あるのは主格補語だ」と論じたことから「主語廃止論」が拡散し、「日本語には主語がない」とする論も現れてきたが、日本語は西洋語のように「<主語・述語>が文法的な依存関係にある言語」とは異なるのであって、日本語に<主語>がある、ないということではない。主語否定論は、「日本語は述語を中心とする言語であり、主語とは述語の従属成文のひとつであって、他の連用修飾成文と同じであるから、<主語>という特別な文法カテゴリーは必要ない」という論である。主語に関して、三上章のほか、橋本(1946)、時枝(1950)、渡辺(1964)、北原(1981a)らが主語肯定、主語否定を主張してきた。5
 「述語を補う補語」のひとつが<主語>であると見なすことは、認知の過程で言えば、目の前を何かが横切ったとき、最初に「飛んでいる」という移動現象をとらえ、「何かが飛んでいる」と認知したのち、「ああ、あの移動している物体はハエだ」と認識して「ハエが飛んでる」と表現するということである。だが、我々の認知の過程において、目の前を何かわからないものが通り過ぎたとき、最初に認知が向けられるのは「何?」である。「飛ぶ」という移動現象だけを認知したのではなく、「何かが飛ぶ」という「何か」という認識を含んだ「飛んでいる」現象の認知なのである。「雪がふってきた」と表現するのは「雪」という物体を認知した表現である。英語のように文の構成要素として必須である主語と日本語の<主語>は、文法的性質が異なる、ということは重要であるが、日本語の<主語>の性質が英語の<主語>と同じである必要はない。日本語においても日本語母語話者が<主体>を認知している。他の文法的要素、対象や場所や時間などの認識よりも、動詞で認識される事態の中心にあるものが他に優先して認識され、それを言語的に表現したものが<主語>であることは認めておかなければならない。
 本論において、筆者は日本語文に<主語>は存在するという立場で論考している。ただし、それは西洋語のいう「述語に依存した主語」「主語がなければ文が成立しない」という類の主語ではない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。