にっぽにあにっぽん日本語&日本語言語文化

日本語・日本語言語文化・日本語教育

日本語言語文化における<主体>と<主体性>序

2010-04-27 08:20:00 | 日本語言語文化


 人間活動のうち、言語は、「人間が人間らしくある」ための最も重要な手段と考えられる。触覚を用いる点字、視覚を用いる手話も含め、認知し表現することが「人間らしさ」の表れとなっている。この言語活動において、人がつまずきを感じる大きな機会となっているのが、「母語以外の言語を習得する」ことと思われる。筆者は、日本語を母語としない学習者に日本語と日本文化を教える、という仕事を1988年より20余年続けてきた。日本語を母語としない学習者の誤用文などを通じて、日本語の特質について考えさせられることが多く、専門としてきた日本語統語論に関し、表出されたコミュニケーション上の日本語を通して、日本語と日本文化について考察したいと考えるようになった。
本研究は、まず日本語の統語構造において、また言語文化においての<主体>を確認する。次に日本語と日本語言語文化に対して<主体性>欠如の日本言語文化、日本人という論を検討し、日本語が<主語>を表さない言語ゆえに、日本人は<主体性>を発揮できないのだ、という言説がその通りなのかどうか、検証する。その結果得られた日本語の<主体>また<主体性>についての考察を日本語教育の指導法に積極的に活用する方策を提案する。
日本語学の研究史において、日本語の主語、主体についての多くの論が提出され、主語論の進展によって「日本語の主語と西洋語の主語は文法上の性質が同じではない」「日本語は主語を明示しなくても成立する言語である」ということが明らかにされてきたにもかかわらず、いまだに多くの日本人論日本語論の中で、「日本人は主体性の欠如した民族」「集団主義を好み、個人が確立していない」「主語を明確にして発言しない日本語は、責任の所在を曖昧にしている言語である」などの言説が流布してきた。「一人だけ周囲と異なる行動をとるのを好まず、周囲と異なる意見を持っても、異議申し立てをしない」「流行に乗りやすく、他の人にたやすく同調する」などと言われてきた。ほんとうに日本語は<主体性>のない言語であり、そのような言語故に日本人は<主体性>を発揮することができないのだろうか。あるいは日本語に責任転嫁をしているだけではないのだろうか。
 日本語学で明らかにされている主語論が一般的な言説に反映されていないだけでなく、筆者が従事している日本語教育においても、「日本語の<主語>」「日本語が表現している<主体>」の理解について、統一的標準的な教育方法は提出されておらず、出版されている教科書類、教師用文法指導書などにおいても、執筆者が拠って立つ文法論の違いにより、日本語学習者への説明も異なってくる、というのが現状である。日本語学習者への日本語理解のアプローチを探ることが、本研究の二つ目の目的である。
 本論に先立つ日本語言語文化における<主体><主体性>の研究は、日本語学の領域において、<主語>の研究、<主格>の研究というような統語論から多くの成果が上がっている。しかし、日本語学と、言語文化の両方の領域を見渡す形での<主体性>考察は、行われてこなかったというのが現状である。2010年3月に発行された廣瀬幸生・長谷川葉子『日本語から見た日本人 主体性の言語学』は、「日本語」と「主体性」を正面から取り上げ、英語との対照研究を中心として論述されているが、言語学レベルでの考察であり、言語文化の分析および論考はなされていない。
 これに対し、本研究は日本語言語表現を、文単位の表現から小説として表現された作品までを見渡す意図をもって<主体>を考察する。日本語の<主体>は、他動詞能動文であっても、「自己をとりまく環境の中で、述語によって表現された事象推移の中心者として事象の認識者となる」のであって、「動作行為者」としてのみ表現されているのではないことを確認する。
本研究の構成だが、第1章では、<主体>を日本語統語の面から考察する。第1節で<主体>、<主語>、<主題>などの語を確認する。第2節では、日本語の中の<主体>がどのように表現されているか分析する。再帰的他動詞においては、<主体>と<客体>が合一的に事象の推移の主体として述語の実現する場として存在しており、日本語表現にあっては、他動詞文も自動詞文と同じように「事象の推移」を表現しているのであることを述べ、動詞完結性が自動詞文と他動詞文の選択に関わることを考察する。第3節では、日本人の文法感覚の検証として、井上ひさしの『夢の痂』を取り上げて、日本人の日本語と<主体>に関する意識を考察する。
 第2章は、第1節で現代日本語言語文化の中に表現されている<主体>、<主体性>とその意味を考察する。第1節では、日本言語文化にあって、<主体性>がいかに言説化されているかを考察し、subjectivityの訳である<主体性>と<主観性>が、「自己をとりまく環境の中で、<主体>がそこに実現するという意味での<主体性>と、「陳述的な主体性」を表現する<主観性>が日本語においては統合されていることを示す。これによって日本語が<主体性>のある言語であることを結論とする。第2節では哲学、言語学などの<主体性>の意味を確認する。第3節では、具体的な作品分析として、太宰治の「富嶽百景」を取り上げ、表現主体とその主観、そして両者の統合としての<主体性>の表現を考察する。
 第3章は、第1節で日本語教育の立場から<主体>の理解と教育について考察する。第2節で、日本語文を英語訳と対照しつつ、翻訳にたよらない読解を可能にするための日本語教育を探る。第4節で日本語文読解授業の実践を通して日本語文へのよりよい理解をさぐる。
 第1章の統語論から見た「主体」、第2章の言語文化論から見た「主体」は、日本語教育の知見を基礎にしつつ論を進めた。そして、1,2章を総合する形で第3章の日本語教育への応用を論じた。それぞれの章は、「主体」を考察する上で関連しつつ述べられている。
 結論は本研究の総括とする。
 日本語における<主体>とは、「事象の推移、環境の変化」の中に埋め込まれた存在であり、「自己の周囲の客体に対峙する」のではなく、「客体と合一的に事象の推移の中にあって環境を受容する」ことを総括する。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。