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日本語・日本語言語文化・日本語教育

1.3 日本語の自動詞文と他動詞文の<主語>

2010-04-17 14:11:00 | 日本語言語文化

1.3 日本語の自動詞文と他動詞文の<主語>
 日本語は行為者の行為を述べるより、自己をとりまく事態の推移を語る言語である。このことは池上(1981)ほかで言及され「日本語はスル言語ではなくナル言語である」と紹介されてきた。行為者を主語とする他動詞文より、事態の推移を語る自動詞文、話題主についての説明をする題述文が多用され、一人の行為主体が客体へ行為を加えるという表現は好まれない。お茶が用意されたことを伝えるのに、「私がお茶をいれましたから飲みましょう」ではなく、「お茶がはいりましたよ」と伝える方が自然な表現として受け入れられる。「お茶が入りました」には、行為主体は明示されない。しかし、それをもって「行為主体のないナル言語は、責任の所在をはっきりさせない言語である」というような見方をする論述は、不適切である。「行為者を主語としない表現を多用するのは行為者の責任を明らかにしていないからだ」というのは、日本語表現の論理を西洋語の文法によって解釈しようとする安易な日本語論なのではないだろうか。「日本語と日本文化」論においてしばしば言及される「主語無し文=無責任文」という見方がまだまだ日本語言語文化においても根強く残されていることを、第3節において見ていく予定であるが、まず、日本語の<主・客>の表現のされ方を考察したい。日本語他動詞には、さまざまなタイプが含まれる。「他動詞」内容を実現する場として<動作主体>を置き、「客体・ヲ格補語」に行為を加えることをプロトタイプとするとしても、他動詞文が常に「行為の実現」を意味しないことも考察しなければならない。他動詞文も、日本語の論理のなかで表出された表現であり、自動詞文と同じように「事態の推移」を描く場合もあるし、行為を客体に加えて変化を実現する、ということを表現する場合もある。お茶の出来上がりを伝えるのに、「お茶がはいりました」と自動詞文として表現しても、それが「自主的主体的な行動を文にあらわさない」と見なされることは、日本語にとって不本意なことである。「お茶」を文の中心にしているのは、表現主体にとってもその発話を受容する聞き手にとっても、「お茶」が表現主体と聞き手の関心の中心として受け止められるからである。伝達の主体と受容者双方にとって、「行為者」を前景に持ち出す必要がなければ、もっとも中心となる存在を文の中心として選ぶのは、自然な表現である。日本語の<主語>に関し、表現主体(話し手・語り手)による表現が、聞き手に受け取られるとき、聞き手はどのような受容を行っているのか、非日本語母語話者の日本語学習者に伝えるべきは、「明示されない主語を補って文を理解すること」よりも、日本語を日本語の論理で理解していく、という点である。「お茶がはいった」という事態は、お茶をいれた行為者を背景化し、お茶を出来事の中心として述べていること、さらに語用論としては「お茶を飲むことの勧誘」を含意していることを理解する必要がある。
 本論で<主体>というのは、「述部(属性、様態、状態、変化移動など)が実現する場として形成されている一定の範囲」という意味での、<predicate が実現する場>をさす。また、現実に発話(表現)している主体を<表現主体>と呼ぶ。
 筆者が教育現場で<主語>という語を用いる場合には、日本語の主語と英語などの主語は異なっていることに留意させている。「花が咲いた」という表現において、述語「咲いた」という事態は「花」という<主語>において実現している。これは<文の主体>=<主語>である。また、「花が咲いた」と認識し、表現している主体が<表現主体>である。こうした<文の主体>=「文の述語事態の実現している場は何か」と、<表現主体>=「誰が文の表出視点の中心なのか」、「誰が発話しているのか」というふたつの<主体>は、同一の場合もあり、異なる場合もある。表現主体や文の主体は表出の場のなかに融合的に存在する。この融合された表出の場に、母語話者は、無意識に入り込んでおり、発話はそのまま理解できる。日本言語文化の基層として存在する日本語構文の問題について、基本となる表現形式を検討するところから考察を始めたい。

1.3.1 日本語の<主体>表現「ワ」と「ワレ」
 日本語の人称を表す言葉が、英語などの人称名詞とは異なっている点は、よく知られた文法事項である。「ぼく、どこから来たの?」と幼い子供に尋ねるとき、「ぼく」は自称ではなく、聞き手の幼子を指している。また、「あなた」も、英語のyouとは意味合いがことなるから、現代日本語では目上の聞き手に対して「あなた」を用いることはできない、という点は、日本語教科書にも記述されるようになっている。しかし、「私」を「I」と同一視する観点は、日本語教科書にもまだ残されている。
 「ワ」「我」「私」などの、<主体>を表現している語を確認しておきたい。まず、日本語言語表現のうち、上代日本語、中古日本語の作品である、『万葉集』、『源氏物語』などから、<ワレ>、<ワタシ>という語の現れ方を見ていく。
 『古今集』、『新古今集』において<ワレ>が歌中に詠まれているのは、全体の1割程度にすぎない。<ワレ>を読み込んだ歌であっても、作者と作中の主人公<ワレ>は別人格化しており、作者は演劇の役者のように<ワレ>を表現している。

陸奥の忍ぶもぢずり誰ゆゑに 乱れ染めにし我ならなくに

の「ワレ」も、作者源融本人であると捉えてもよいし源融がだれかの姿を借りて表現したと受け取ることもできる。歌会に出た人々にとって「我」は文学上、言語表現上の主体であるとみなされていたのであり、<ワレ>という語を作者本人とは受け取らなくては、表現が成立しない、という歌ばかりではない。しかるに『古今集』より時代がさかのぼった『万葉集』の時代においては、総歌数4500のうち39.5%に<ワレ>をよんだ歌がある。佐佐木幸綱(2007)は、約4割の1780首に<ワレ>が表現されていると、数え上げている。(42)万葉の時代のほうが、自我意識が強かったからでない。佐佐木(2007)は、「万葉時代までの<ワレ>とは、集合的主体であり、集団的アイデンティティを持つ存在だった。歌を文字に書くこと、文字にされた歌を通信文としてやりとりするというのは後代の形であって、文字が入ってくる以前において、歌とは、共同体の中で朗唱し、共同体全体が味わうものだった。歌が朗唱されるその場にいる者たち全体、あるいは朗唱するものが属するコミュニティ全体の表現として表す言葉として受容されていたのである。」と論じている。
 この「共同体全体」の表現のひとつが歌垣であり、中国雲南省などでは現代までこの形式の歌が少数民族文化として残されている。6 山路平四郎(1973)は、『万葉集』巻二の藤原鎌足の「我はもや 安見児得たり 皆人(みなひと)の 得かてにすといふ 安見児得たり」(国歌大鑑番号95)」の歌について、「初体験の喜びを歌った民謡風の謡い物が原歌」と、見ている。早くから、記紀歌謡や万葉集の長歌短歌の中には、「共同体=ワレ」の表現が残っていたことが指摘されてきたのである。
 現代語では<ワレ>が複数であることを特に強調したいとき<ワレワレ>と畳語にしたり<ワレラ>と表現する。この畳語の<我々>が出現するのは、後代に至って『御伽草子』などからである。現代語でもしばしば<ワレ>は単数としても複数としても用いられるし、関西弁などでは<ワレ>や<自分>が、一人称としても二人称としても用いられている。大阪では、相手に向かって「ワレ、どっからきたんや」「ジブン、名まえなんや」などと言える。古語の一番古い層の<ワ>また<ワレ>も、発話者本人を指し示す自称でありかつ相手をも指し示すことができ、単数でも複数でも表現することができた。『岩波古語辞典』には『宇治拾遺物語』での用例として、「オレ(汝)は何事を言うぞ。我が主の大納言を高家と思うか」という例を挙げている。この場合の「オレ」は、発話者を指すのではなく、聞き手である。
佐佐木(2007)は、歌は状況を詠むものではなく、意思を言葉にして朗唱することで、その力によって状況を変えることを願うものだった、と述べている。この<状況の変化を望むワレ>は、歌を詠む個人ひとりを<ワレ>と言っているのではなく、自分自身を含むこの場にいる状況全体に関わる者たちを<ワレ>と言っているのだと考えてよいだろう。
 万葉集の<ワ>、<ワレ>は、集団的アイデンティティを持つ<集合的主体collective subject>を表しているということは、以下の歌の<ワ>が、近代以後の一人称とは異なるものであることを感じさせることにもあらわれている。
 万葉集冒頭、雄略天皇を作者に擬する第一首。

籠毛與 美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持
此岳尓 菜採須兒 家吉閑名告<紗>根
虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居
師<吉>名倍手 吾己曽座 我<許>背齒 告目 家呼毛名雄母
「籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串もち 
この岳(おか)に 菜摘ます児 家聞かな 告(の)らさね 
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ 居れ
しきなべて われこそ座せ われにこそは 告(の)らめ家も名も」

 この歌の<ワレ>も、作者に擬されている雄略天皇の一人称というより、「この国を統べようとしている大王家の人間である」という集団的アイデンティティを<ワレ>によって表現している。
記紀歌謡の中に見える

  埴生坂(はにふざか) 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家群(いへむら) 妻が家のあたり

という履中天皇の作歌とされる歌は、難波の宮を住吉仲皇子によって焼かれた履中天皇が、波邇賦坂に至って、なお燃えさかる宮を望見して詠じたという説話の中にはめ込まれている。しかし、歌そのものを見れば、春、陽炎のたつ妻の郷里を眺めての、大和の為政者大王(オホキミ)による、国ほめの歌、国見歌と受け取ることもできる。この場合も<ワ>は、大王個人を表すというより、朗唱されクニを言祝ぐ大王と、大王の統べる国土全体を含んでの<ワ>の方が自然である。
 <ワタシ>は、どのように文脈にでているであろうか。現代日本語の<ワタシ><ワタクシ>は、語源的には<公(大宅オホヤケ)>に対する<私>から発している。「私雨」が、広く全体に降る雨でなく、有馬や鈴鹿など山地に局地的に降る雨をさし、「私歩き」が、公用でなく私用で歩くことを表すなど、<個人>を意味するより、公に対する私的なことがらを意味している。『源氏物語』桐壺巻において、桐壺帝が靫負命婦を桐壺女御の里に使いにだす場面に出てくる「私」の用例を示しておく。幼い若宮の祖母(桐壺女御の母)が命婦に向かって「私にも心のどかにまかでたまへ」とあるのは、「公の勅使としてでなく、気楽な私用の使いとしてこの里においでください」と言っているのであって、やはり公との対比で用いられている。<ワタシ>が個人を示すようになるのは、『御伽草子』など中世以後の用例となる。<ワタシ>という語が「一人称・個人」を示すようになる平安後期から中世以後となるまで、日本語にとっての「行為主体としての個人」は、表現しにくいものであったろうと考える。
 「ワタシ」が西洋語的な一人称を表すようになったというのは、西欧的な視点で見ようとする見方の中でのことであって、日本語話者の「ワタシ」は「近代社会の個人」とは異なる内容によって使われてきたことを無視することはできない。日本語の古層での<ワレ>すなわち、「共同体=ワレ」が現代まで日本語話者に続く感覚であることを、阿部謹也は一連の「世間」に関する著作で指摘し、山本七平は「日本教」また「空気」という言葉で言い表している。「世間」論、また「空気」論には賛否両論が出されているが、現代まで日本語話者が「共同体と一体のワレ」「集合的主体」によって生きる部分を持ち続け、明治以来論じられている「西欧的、近代的個人とは異なる主体」として存在してきたことは、否定できない。<ワ>、<ワレ>、<ナ>、<ナレ>などは、「相互関係性の中での存在」「主客未分の存在」を表している。現代語にも、この「相互関係の中の存在」は残されている。「会社に所属している」という意識のある会社員が「うちは大手だから不況でも倒産することはないだろう」というときの「うち」は、自己を含めた「私が所属する集団」という意味である。方言では、「うち」を自称に使う地域として「千葉県東総地方・北陸・近畿・中国・四国・大分・長崎・熊本」が挙げられているが、関西方言話者の内省によれば、自称として「うち」と言った場合、「自分、家族、仲間というような、いわゆる「自分側の立場の総称」として使う例が多い」ということである。(ただし、関西の「うち」は、頭高のアクセントであるのに対して、関東地域で若い女性の自称として広まっている「うち」は平板アクセントである。)
 日本語言語文化の中の<主体>を考察する場合、西洋語とは別種の<主体>であることの次に、ではそのような<主体>はどのように<客体>そして述語に関わるのか、という点が問われなければならない。

1.3.2 日本語の自動詞文と他動詞文における<主体>と<客体>
 本節では日本語の文の<主体>と他動性、他動詞文、自動詞文について述べる。日本語は「発話状況・発話の場」を重視し「表現主体の視点を通した表現」による言語であることを前提とし、特に「自動詞・他動詞」の表現、受動能動の表現、授受動詞など、個々の文法現象に関わる日本語の構造と表現に含まれる意識について考察し、日本語の他動詞文とは、「動作主体(agent)が意志主体性をもって他者に行為を及ぼす」という西欧語における他動詞文とは異なり、自動詞文から連続して「事象の推移」を描写する表現であることを述べていく。
 日本語の「自・他」の認識の表出は平安時代に始まり、江戸国学者の冨士谷成章や本居宣長、本居春庭らの研究によって進展を見た。特に本居春庭は「未然・連用・終止・連体・已然・命令」の六つの活用形について研究を深め、「命令形」を他の活用と別扱いしていることで、「ディクテム(事実)」と「ムード(陳述)」を区別し、日本語動詞に深い考察を展開している。日本語の「自・他」の表現の考察は、日本語言語文化における「主体性」「他者性」の問題と深く関わっている。日本語の特徴を知るために、非日本語母語話者による誤用研究は、ひとつの視点を与える。日本語教育に関して行われたこれまでの研究の中で一例をあげると、小林典子(1996)は、自動詞と他動詞の使い分けのテストを行い、西洋語系統の母語話者は他動詞文を主として使い、日本語母語話者が自動詞文で表現する文でも、他動詞を用いることが多いと報告している。この報告は、筆者が20 年間収集した作文誤用例の分析とも一致している。竹林一志(2008)は、白川博之(2002)の中にある中国語母語話者の誤用例を紹介している。きつく締められていた瓶の蓋に力をいれ、ようやく蓋が開いたとき、学習者が「あ、開けた!」と表現した、という例である。日本語では瓶の蓋に話題の焦点があるとき、「あ、開いた!」と表現する。しかし、自動詞他動詞両用の動詞を用いる中国語母語話者にとって、「私が力をいれて、私の力で開けたのに、なぜ<開けた>という他動詞を使って悪いのか、蓋が自然に開いたのなら<開いた>でわかるけれど」と、感じられるのだ。この誤用の背景には、日本語の自動詞表現が日本語教科書に反映されているとはいいがたい現状がある。「開けるvs 開く」の説明が教科書の文法解説でどのようになされているか、という例を『SITUATIONAL FUNCTIONAL JAPANESE』(以下、SFJと略す)によって見ておく。

  (1)「私はドアを開ける」(2)「ドアが開く」
  In(1), the subject 私 controls the opening of the door, whereas in (2) the opening of the door is the result of someone else’s action which cannot be controlled by the subject ドア. Many verbs have two related forms, of which one is a するtype, the other a なるtype verb. (Vol. 2. Notes:71)

この SFJ 文法説明によれば、自動詞は動作主体(subject)のコントロールが及ばない場合に選ばれると学習者は感じるだろう。自分自身が瓶の蓋を開けたのであるならば、動作主体がコントロールして開けたと感じて、蓋が開いたときに「あ、開けた!」と、表現したくなる気持ちはわかる。では、どのような記述を加えておけばよいのか。早津恵美子(1987)は「有対自動詞(他動詞と対応のセットになっている自動詞)は、働きかけによってひきおこしうる非情物の変化を、有情物の存在とは無関係に、その非情物を主語にして叙述する動詞である」と述べている(102)。「自動詞vs 他動詞」の対の動詞において、他動詞は動作主体の制御が可能であり、自動詞は制御のできない動作を表すという説明の次に、この早津の説明を加え、学習者に周知させなければならない。
さらに、中級上級の日本語学習者には、動作主体と客体(対象補語・目的語)との関係について説明する必要が出てくる。「どうしてこのような表現をするのかわからない」と日本語学習者が言った文の例がある。「引き出しを開けた。けれど、開かなかった」という表現がそのひとつである。「私は、引き出しを開けようとした。しかし、引き出しは開かなかった」という記述なら理解できる。しかし、「引き出しを開けた」という既実現の他動詞文に「開かない」という未実現の自動詞文が直接続くことについて、日本語学習者は理解にとまどうのである。この文の受容には、二つのことがらを理解していることが必要になる。ひとつは日本語の動詞は、動詞の意味内容が完結していなくても述語として使用できる、ということ。もうひとつは、動作主と動作対象が「所属関係にある」とみなされたとき、動作主から動作対象へ加えられた動詞内容は、「行為の遂行」よりも「その場の事象の変化」を述べている、という日本語の再帰的他動詞文の特性である。7 「開ける」、「焼く」、「切る」、「打つ」などの変化動詞の場合も同じである。「餅を焼いた」「釘を打った」という表現において、日本語の変化動詞は変化の完了を意味しない。「引き出しを開けた。けれど、開かなかった」という文の構造は「(私が)引き出しを開けるという行為を行ったが、(引き出しは)開かなかった」という「他動詞文+逆接の接続詞+自動詞文」というものである。表現者が最終的に意図するところは、「引き出しに対して何らかの行為が加えられたが、引き出しが開くことはなかったという事態の推移」を述べており、日本語の他動詞文は「文の主体が他者に及ぼす行為」の描写を目的とするのではなく、自動詞と同じように、「事態の推移」を述べることを主な表現範囲としていると考えられる。「芋を焼いたが焼けなかった」も「力を込めて打ったが、釘は打てなかった。指を打ってしまった」も同じ。日本語の他動詞文は、変化動詞の変化が最終段階まで進むことを意図しない。「完了」を意味せずに「餅を焼いた」と表現でき、中味が生焼けだろうと半焼けだろうとかまわない。「意図したとおりには焼き上げることができなかった」という場合、「餅を焼いた。しかしうまく焼けなかった」と表現しうる。逆に「餅を焼こうとした。しかし焼けなかった」という文では、餅に対して行為者の意図はあったものの、何らかの事情があって、「餅を焼く」という動作が行われなかったことを意味する。「焼く」という動詞内容がまったく開始されなかったことを意味するのである。
 次の例でも、「焼く」動作が意図通りに終了しなかったことを表現している。

  はじめておもちを焼きました。でもうまく焼けなかったのでどのようにしたらおいし そうなお餅が焼けるのか教えてください。(Yahoo「知恵袋」2008/11/29 10:01:58)

 「釘を打っていて、思わず指を打った」というとき、行為者の動作者性、主体性は、まだ残されているが、「餅を食べていて歯を欠いた」という発話では、行為主体から歯への積極的な働きかけはない。それでも日本語は「ヲ格+他動詞」で表現する。「引き出しを開けたけど開かなかった」という表現では、「誰が引き出しに対して行為を加えたのか」というような行為者に話題の焦点があるのではなく、「結局のところ、引き出しは開かなかった」という最終的な状態に話題の焦点がある。「私がお茶をいれた」という動作他動詞表現では、最終的に「お茶が出来上がること」まで含まずとも表現できる。お茶の完成を確実に表現するには、「お茶がはいりました」という表現のほうがよい。むろん「お茶、いれましたよ」と、発言することも可能であるが、行為主体の明示は、「行為をした者」を目立たせる結果となり、「行為にまつわる恩恵の授受」の表現が発達している日本語では、聞き手に「お茶をいれてもらった」と、感じさせる発言は注意深く排除される。聞き手に「その行為を行ったのは私である」という行為主体の特定化は、「恩恵の明示」となるからである。その点「お茶がはいった」という表現は、お茶の完成を意味しつつ、動作主への言及は避けられる。「主体から客体への行為の完成」は、日本語においては責任の有無ではなく、恩恵の授受に関わってくるのである。
以下「行為主体がどのように行為作用を対象へ加えるのか」として<主体>の行動を叙述するよりも、「話し手聞き手のいる言語空間で、どのように事象が推移したのか」ということが、日本語表現の中心であるという観点から日本語叙述を見ていく。
 森田(1998)は、以下のように述べている。

  外の世界を内なる己がいかに把握するか、外は客体的な外在世界と考えるのは論理の世界であり、日本語の発想ではない。日本語はあくまで己の内なる視点に投影した世界として主観的に把握する。自分を取り巻く周囲の「世界」対「己」の関係で、自らが受け止めた印象や感覚として対象を理解する。(131)。

 本論も、森田が言うように、「日本語の内なる視点を投影した世界として主観的に把握する」という観点にたって他動詞文の分析を試みる。
 言語タイポロジーでいうSOV 型の範疇に入ると見なされる日本語他動詞文について、「主語が対象に作用を加えて変化させる」という「動作主体中心の表現」としてみるより、「事態推移表現中心の述語」とみなす。日本語の述語が表現の「場」を担い、述語(述部)を中心として表現が成立すると考えるのである。

1.3.3 再帰的他動詞文
 英語では、動詞をめぐって<主語>と<客語・目的語(対象となる存在)>は対立している。<主語>は動詞内容を対象(目的語)に加え、変化を引き起こす。

 <主語>→<他動詞>→<対象>

 日本語では、対象格は<主体>と共にあるものとして存在し、<主体>とは、対象が動詞内容の変化を表していく事象の中心にいる存在である。

 <主体(対象)>←<他動詞>

 英語の他動詞文は、行為主体が客体に変化を与えることを表現しているが、日本語の他動詞文は、自動詞文の対極にあるのではなく、グラデーションをもって自動詞文から他動詞文まで連続的に存在する。

 自動詞文>再帰的他動詞文>弱い他動性の他動詞文>強い他動性の他動詞文>他動詞文

 学習者は、文法解説書を参照するとき、どうしても母語の文法にひきずられた解釈をする。「他動詞」という文法用語を知れば、自分の母語の他動詞にひきつけて理解しようとするのは当然のことだ。しかし、日本語に表現された他動詞文は、幅が広く、形式上は他動詞であっても、自動詞文として扱うべき文も存在する。「綱子は、餅で歯を欠いた」(向田邦子『阿修羅のごとく』)という他動詞の形をとる文を分析してみよう。「ヲ格+他動詞」の形をとり、形式上は他動詞である。しかし、「~を欠く」の主体「綱子」は、対象格の「歯」に対して、意志的に動作作用を加えた行為者ではなく、動作主体とは言えない。この文は、他動詞の形式を見せていても、「~ヲ格名詞+他動詞」のセットで自動詞相当になっており、事態の推移を表している。綱子は、「歯が欠ける」という事象の推移を負うているにすぎない。なぜなら、この文の「歯」は綱子に所属するものだからである。綱子と歯は「全体・部分」の関係になっている。
 日本語の他動詞文は基本的に「ヲ格補語・対象語(目的語)」をとる。ヲ格補語の名詞は「モノ名詞」がほとんどで、「ヒト名詞」は少ない。日本語の他動詞文では、事象の推移の中心にいるものとしての<主体>が存在する。西洋語の他動詞文は、主語が目的語に作用行為を加え、目的語は変化移動を成し遂げている、ということを叙述する。日本語の他動詞文は、西洋語の他動詞文と基本的機能が異なり、<主体>と<客体>が事象の推移の中に存在し、事象の変化を共に担っていることを表現している。「太郎は、床屋で髪を切った」という他動詞文で、太郎は「行為主体=agent」ではなく、「事態の変化推移を所有する者・主宰する者」となっている。太郎は「太郎の髪が切られて、短くなったこと」という事象の推移を<主体>として負うている。では、「次郎は洋裁室で布を切った」は、どうか。これとても、次郎がハサミを持った行為者でなくても、文は成立する。トップデザイナーの次郎が、仕事を指揮して、洋裁チームの一員に布を裁断させており、自分ではハサミを持っていないとしても、仕事の推移について全体の責任者として「洋裁室で布を切った」と、表現できる。次郎は、「洋裁室で布が切られた」という事象の推移を、負うている主体である。従来、自動詞文は事態の推移を表現し、他動詞文は<主語>による行為動作を叙述すると文法書などに解説されてきた。筆者は、日本語においては、他動詞文もまた、自動詞文と同じく、「事態の推移」を表すことを主とするものと考える。他動詞の客体(対象補語・目的語)は、主体と共にある存在として動詞の内容を実現する場になっている。片山きよみ(2003)は、稲村(1995)を引用して以下のように述べている。

 稲村(1995)は、主語と目的語が所属関係にある多数の再帰構文の意味分析から、「主語+主語と所属関係を持つ目的語+述語」という構造の再帰構文は「主語をめぐる出来事」を表し、その表現内容には「主宰者主語による使役的出来事」や「他の行為や外部の原因を受けた受け身的出来事」などがあることを指摘、「家を建てる」「注射をする」なども広く再帰構文に含めて提示している。(3)

 「私は力をこめて瓶の蓋を開けた」という文が成立するとき、「瓶の蓋」は、すでに「私」の関係物/所属物として存在し、「私に所属するもの」と、表現主体に受け止められている。瓶の蓋が開いたとき、「あ、開けた」ではなく「あ、開いた」と表現するのは、「対象・目的物(ヲ格補語)=瓶の蓋」に対して与えられた動作主体の力は、動作主体の支配下、影響下にある物への言及だからである。これは三人称動作主体であっても同じである。彼が力を込めて瓶の蓋を開けたのを見ていた人も「開けた!」とは言わない。「開いた!」と、事態の推移について感慨を述べる。発話者の視点の中心に瓶の蓋があり、「瓶の蓋」を話題の中心として述べるからである。「あ、彼が開けた!」というのは、「他の人が開けても開かなかったのに、彼だけが開けることができた」というような場合に限られ、有標的な表現となる。部屋の中、グラスがテーブルの上に置いてある。家の主人または客人がグラスを手にしてウィスキーを飲んでいたときグラスが下に落ちたのであれば、通常は「あ、お客(主人)がグラスを割った」とは言わない。故意にグラスを投げつけたというような場合でなければ、下に落ちたグラスを見た人は、「あ、グラスが割れた」と言う。グラスに視点の焦点をあてて表現するほうが無標的表現であり、動作主体を文の主体として表現するほうが有標的である。客が手に持っていたグラスは客に所属していると考えられるゆえ、「お客さんが手に持って飲んでいたグラスを手から落として割った」と再帰的表現によって表現した場合、「お客さんが固い餅を食べていて歯を欠いた」と表現した場合と同じく、「グラスが割れるという事態」の状態主体として存在しているのであって、「グラスが割れた」という事態への行為主体として表現しているのではない。この「お客さんが手をすべらせてグラスを割った」という他動詞文も、事態推移を表現しているという点で自動詞表現につながるものである。竹林一志(2008)も、以下のように述べている。

  訪問先の家の花瓶を落とした場合に、「あ、割れてしまった」と言えないのは、発話者が心の中では「割れてしまった」と思っていても、「割れてしまった」と無標的に表現したのでは、事態の重大さ(いわば特殊的・非日常性)を表現することにならないからである。家の主人がその持ち物である花瓶を落とした際に、訪問者が何も言わない場合や「あっ」のような感嘆詞のみの場合もあろうが、自動詞・他動詞のいずれかを使うかと言えば、「あ、割ってしまった」ではなく、「あ、割れてしまった」というのは、責任の所在が家の主人にあると表現するのを避けるという理由もあろうが、事態を無標的に表現するだけのことであるとも言える。(140 -41)

 再帰的他動詞表現を通して考えるなら、花瓶が家の主人に所属していることがわかっていると、「ご主人の肘がぶつかって、花瓶を割ってしまった」と、他動詞文で表現したとしても、それは「ご主人」を「行為主体」としての責任を追及し有標的に表現しているのではない。「花瓶が割れたこと」という「事態の推移」の中心に「ご主人」がいる、という表現にすぎない。竹林(2008)は、以下のように述べている。

日本語の文表現の本質は、<主部項目における、或る事象の現出>を表す。<主部項目における、或る事象の現出>は、もっとも無標的なあり方で事態を把握・表現する傾向が強い「現出」型言語である。(144)

「花瓶」をお客さんや主人の所属物として認めた表現として、「ご主人の肘がぶつかって、花瓶を割ってしまった」と、再帰的他動詞文によって表現されたとき、それは自動詞文「花瓶が割れてしまった」と、同様、事態の推移を表しているのである。
「彼はころんで骨を折った」は、彼が骨に対して「折る」という行為を加えたことを表現しているのではない。「彼」は「骨が折れた」という事態の推移の話題の中心者であって、他動詞文で表現したとしても、自動詞文の表現に相当する。「信長は安土城を建てた」というとき、「信長さんは大工ですか」という冗談が通用するのは、「家を建てる」という「ヲ格補語+他動詞」の表現が、実際に動作主体(行為主体)の動作が行われたとして表現することも、「家が建つ」という自動詞的事態の変化を視点の中心的な人物を主体として表現することも、どちらもできるからである。「安土城が建った」という事態推移全体の中心に存在しているのが信長であって、城に対して具体的な動作をしている必要はないと、日本語話者は知っているからである。文の<主体>から<客体(対象格・目的語)>への具体的な他動性をもつかもたないかに関わりなく、「ヲ格補語+他動詞」の形式の文で表現することが可能であることを示している。
 日本語学習者に対し、次の点を日本語自動詞表現・他動詞表現の特徴として示したい。
(1)「日本語は、有対自動詞(他動詞と対応のセットになっている自動詞)は、働きかけによってひきおこしうる非情物の変化を、有情物の存在とは無関係に、その非情物を主語にして叙述する動詞である」(早津 1987)
(2)「客体・ヲ格対象語(目的語)が、文の<主体>と関わりを持つ」と発話者(表現者)が意識しているとき、他動詞文は全体として「事態の推移」を表現し、文の<主体>が実際に行為者性(agentivity)を有しているいないに関わらない。「事象の視点中心者」「事象の主宰者」を主体として表現する他動詞文もある。
(3)「主部項目において或る事象が現出する」ということを表現する場合、もっとも無標的な表現は、発話者にとって「おのづから然る」表現となる。

1.3.4 <主体>の背景化と動詞の完結性
 前項で述べた動作主体を<主語>として「お客さんがウイスキーを飲んでいたとき、手がすべってグラスを落とした」は、非意図的な動作を他動詞文によって表現している。一方、「グラスが落ちた」は、動作主体に言及せずに、事象の推移のみを述べた文であり、地震によってグラスが落ちる結果になったのか、人がぶつかったのか、結果を招いた原因には言及されていない。動作主体や原因が明らかな場合、「手がすべって、グラスが落ちた」であっても「手がすべってグラスを落とした」でも、発話主体にとって、動作主体の「行為実行責任」を追求しているわけではない。動作主体を主語として文の上に明示するかしないかは、「責任の有無」とは関わらない。
 自動詞文は動作主体を前景から背景に移す表現となる。あるものを話題の中心として、そのものをめぐる事象の推移を完結したこととして述べているのが自動詞文である。他動詞は多くの場合、事象の完結を描ききる表現とはならない。動詞の完結性限界性が関わるのである。「餅を焼いたが焼けなかった」の「焼く」は、変化動詞が変化の完結を表現せず、変化の着手だけを表現するゆえに成立する。しかし、自動詞の場合、変化の完結を表現する。「餅が焼けた」は「焼く」という変化が限界に達し完結した場合でないと使えず、「*餅が焼けたが焼けなかった」は、不自然である。日本語が「(○○が)餅を焼いた」という「主語プラス他動詞」よりも「餅が焼けた」という自動詞文を好むとすれば、この「変化を表す他動詞文では完結性が表現しにくい」、ということが理由のひとつに上げられるだろう。日本語動詞のうち変化(状態変化・空間移動変化など)を表す動詞においては完結性(telic)は表現されず、行為の着手のみが表現されるのである。動詞内容の変化が終了しているのであるなら、動作主体の動作行為に注目して「餅を焼いた」というより、事象の変化完結に注目して「餅が焼けた」と、自動詞によって変化事象完結を表現したほうが、的確な描写となる。日本語が「主語プラス他動詞」という表現より、自動詞による事態の推移としての描写を選んで表現することが多いというのも、動詞の完結性によって説明できることである。あるひとつの事象が完結して目の前にあることを認識した認識主体が、それを他者に伝える表現主体として発話するとき、動作意図の有無や動作主の関与度の割合まで勘案して「主語+他動詞」で発言するより、事象全体の推移を、事態の中心物にスポットを当てて表現する方が多いのは、表現主体の一方的な認識としてでなく、事象変化の推移を的確に表現できるからである。ある変化が事象の中に起きたとき、その事象の中心となる人は必ずしも動作主体でなくてもよい。「床屋で髪を切った」というときの出来事の中心人物は、床屋の椅子に座っているだけで、切るという動作を行っているのではない。出来事全体のの主であれば、文の中心としてフォーカスを当てて良い。動作行為を直接に行う場合でなくても、文の中心的存在としてスポットをあてて表現できるのも、日本語述語が「事象の推移を表現する」ことに力点が置かれ、「動作者の行為を主語述語依存関係で表す」という構造になっていないからである。
 「集団主義」「個人が責任を追わないようにする社会構造」などを日本語の特性からくるものと考えたい人には、「自動詞文が多用されるのは、主語の背景化によって、責任の所在を曖昧にするため」という、「責任逃れ説」が支持されているのであるが、日本の社会構造と日本語の構造は別の問題として考えてみる必要があるだろう。
 池上嘉彦(1981)『「する」と「なる」の言語学』以後、一般的な認識として広がった「行為者による行為の描写を中心とする英語」に対する「状態の変化の描写を中心とする日本語」、という言説によれば、「日本語では<主語>の表示が義務的でない」という言い方になる。しかし、全世界の言語を類型別に俯瞰すれば、「<主語>の表示が義務的」である英語のほうが特殊な言語であり、英語を古英語と比較すれば、現代英語において<主語>の表示が義務となったのは、近代以後のことにすぎない。(松本2006:227-56)
池上(1981)が日本語を「行為者によって行われた行動の描写」ではなく、「状態変化の推移を描写する」ことを主たる言語表現とすることを、認知言語学の立場から明らかにしたことは日本語への新たな見方を定着させたものとして評価できるが、では、なぜ日本語は「状態変化の推移」を描写する言語なのか、なぜ上司への報告が「このたび結婚いたします」でなく「結婚することになりました」という「ナル」表現になるのか、ふたを力をこめてひねって瓶を開けたとき「あ、瓶を開けた」と他動詞文で表現せずに「あ、瓶が開いた」と、自動詞文で表現するのか、解明されていない。
 『「する」と「なる」の言語学』の核心部分をまとめた池上(1982)は、「日本語は<出来事全体>=<コト>中心的な事態把握に基づく言語類型に属する。 日本語では個体を出来事全体に埋没させた「なる」的な表現になっている。」と述べている。また、池上(1993)は、自動詞と他動詞の区別には統語論的なものと意味論的なものがある」とし、統語論的には「動詞が目的語objectを伴い、受動態化passivizationが可能になることが他動詞の条件となる。意味論的には、自動詞他動詞の区別に他動性transitiviyの程度が関わる、としている(35)。本論は、「日本語の自動詞も他動詞も、事象の推移を述べることが表現の中心である」と考える。他動性の強弱や受動態化の難易が段階的に存在するが、典型的な他動性を持つ他動詞であっても、客体が主体とどのような関係を持つかによって、他動性の発揮の仕方も変わってくる。
 日本語の自動詞他動詞に関して、筆者は日本語学習者に、
(1)自動詞は述語が結びつく名詞格成分が1項以上、他動詞は2項以上を必要とする。
(2)日本語自動詞文は動詞内容の完結性を表現できる。
を教科書等に示しておくべきであると考える。
 森田良行(1998)は、日本語に「無主語文」が多いことを取り上げ、次のように述べている。

  <主語><目的語>が省略されており、<日本語では、表現に際して、現在の事象である事柄や周囲の状況を、自分自身の目でとらえ心で感じた外界のこととして、聞き手にそのまま投げ掛ける。己を客体化し、対象化した表現をしない。日本語がいちいち<私>を文の中に立てていかない言語であるということは、話し手が表現を進める<話者の目>として言葉の背後に隠れてしまい、話者は視点を通して対象と対峙している、そのような立場に立つ言語だということである。(13)

 森田が、日本語の<主体>について「発話者は、<己>であって、<内>の存在として陰在化し、己の目でとらえられる事物、現象が<外>の世界として顕在化し、文面に表れる。」とみなしている点を肯定する。
 日本語は、出来事を対象化客体化せず、表現主体の視点が捉えたことを直接表現しようとする。日本語文は表現主体の視点が捉えた外界をそのまま言語化する。