フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

邪悪なものの鎮め方 内田樹著

2010年09月24日 22時30分54秒 | 読書・書籍

 「邪悪なものの鎮め方」を読了。本当に面白かった。どう面白かったのか、これから説明しようと思う。

 邪悪なものとは、有形無形の私たちを傷つける暴力的なものの総体である。社会システムだったり父性的なものだったり呪いだったりする。この邪悪なものとどのように対峙し、またどのように折り合いをつけて生きていくのかというのが、この本のテーマだと思う。

 内田氏の思想を考える前提として、一言付け加えなくてはならないことに、私たち人間は根本的に「世界に対して遅れている」というユダヤ的考え方がある。どういうことかというと、私たちが生まれた時には既に世界は始まっており、私たちのまだ知らないルールによってゲームが始まっているというものだ。日本語だってある種のルールだし、日本の道徳や法律も生まれたときには決められている。私たちはそのゲームのルールを知らなくても、とりあえず知らないなりに何とかやっていかなくてはならない。

 このように、世界は本質的に分からないものだということが、人間の本能に刷り込まれている。その上で、彼の著書に繰り返し現れる主題、「人間の最大の知性は、第六感である」というものがある(内田氏はそうはいっていないが)。
 この第六感を霊感と言い換えてもいい。ポランニーは暗黙の知といい、フッサールは超越論的直観といい、カントは先験的統覚といった。
 
 具体的にどういうことかというと、
 
 「どう振舞っていいか分からず間違いが許されない場面で、適切に振舞うことができる能力」とか、
 
 「それを学ぶ意味や実用性をまだ知らない状態で、それにもかかわらず、これを学ぶことがいずれ生き延びる上で死活的に重要な役割を果たすだろうことを先駆的に確信する能力」とか、
 
 「自分がその解き方を知らない問題を、実際に解くより先に、これは解ける、と分かる能力」

 

 などである。
 
 世界は本質的に分からないものなのだから、人間にそのような能力が備わっているのは自然のことである。

 

 このような第六感を研ぎ澄ます方法は、意外にも、常識だったり、礼儀正しさ(礼儀正しい者を傷つける者は稀だ)、身体の感覚だったりする。その辺が興味深い。

 また、呪いについて語っている。

 「呪いというのは、他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びをすることである。さしあたり、自分には利益がない」こと、という。
 私たちの社会では「他者が何かを失うこと」をみずからの喜びとする人間が異常な速度で増殖している。内田氏は、これは一つには偏差値教育の効果だと分析する。偏差値は同集団の中のどの位置にいるかの指標であり、他人の学力を下げることができれば努力せずに相対的に自分の学力を上げることができるからである。

 自分で自分にかけた呪いは誰にも解除できないとも言っている。自分にかけた呪いとはどういうものかというと、「自分自身の消滅を求める呪い」である。どうしてこのような呪いを自分自身にかける羽目になってしまうのか。

 ルールを愚直に守る人間たちが多数派である場所では、ルールを破る少数派は利益を得ることができる。だから、ルール違反をした本人は、彼以外の人々が全員ルールを守ることを望んでいる。そうであればそうであるほど利益が大きいからである。例えば、高速道路で渋滞しているときに、ルール違反をして路肩を走っているドライバーは「自分のように振舞うドライバー」ができるだけいないことを切望している。
 自分のような人間がいないことで利益を得ている人間は、いずれ自分のような人間が一人もいなくなることを願うようになる。その願いは、潜在的に、無意識的に「自分自身の消滅を求める呪い」となって返ってくる。

 

 
 これは個人的な意見だが、人を呪おうとしている人間は、既に呪われている。どういうことかというと、他人を呪おうとするからには、その他人に対して、恨みや嫉妬や許しがたい出来事があったのだと思う。しかし、過去のある出来事にとらわれていると、自分自身が前には進めない。この前には進めないことが呪いなのである。例えば、いじめられた過去があったとする。うまくいかないことがあるとすぐにあの時いじめられていたからだと考える。その時点で心が過去にさかのぼっているのである。過去にとらわれていると言い換えてもいい。この過去の出来事に、足を絡めとられているうちは前には進めない。だから、人を呪おうとしている間は、自分自身の呪いを解くことはできない。

 

 
 最後に、カミュの言葉で締めくくりたい。

私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じていません。私が知りたいのはどう振舞うべきかです。より厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、どのように振る舞い得るかを知りたいのです。
 

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