お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

1982年の卒業旅行 2.カイロ・・・エジプト

2020年05月14日 | 旅・外国
離陸後、ジュース。雲でドーバー海峡見えず。アルプス見える。

17:00、夕食。眠さと疲れで気分悪し。顔色悪い。やはり、僕は添乗員に向かなかったのか?(この前年、JTB日本交通公社に内定をもらっていたが、「不整脈」「高血圧」「肝機能異常」で内定を取り消されている)

 

カイロ時間22:00、カイロ国際空港着。空港の入口に兵士が機関銃を持って立っている。前年、1981年10月6日、サダト大統領暗殺事件が起きたからではないか。彫りの深いエジプト人、その視線が鋭く不気味だ。バスにてカイロ市内へ。30分くらい。バザールの雑踏の中をバスは通る。降りてみたい。

23:00、ホテル着。思っていたより、いい雰囲気のホテル。場所も街の真ん中に近い様だ。街は車で溢れ、二重三重駐車は当たり前、趣味の様にクラクションを鳴らすものだから騒がしい。カイロでクラクションが鳴らされる理由。それはどの車も信号があっても守らず交差点に進入して来て慢性的な渋滞をひき起こしているからである。違法駐車もその渋滞に拍車をかけている。


フランス映画「死刑台のエレベーター」に出てくる、内側のドアの無い金属が網目状になったエレベーター。三人がスーツケースを持って乗ると、一階と二階のちょうど真ん中で止まってしまい、ボーイが焦る。一階に降りて階段で二階へ。ボーイは黒人が多い。二階の客室前廊下には黒人のベルガールが並んで座っていた。この人たちはチップのみで生活している様だ。エジプトはイギリスの植民地だったのだ。生田と二人のツインルーム。風呂に入り、洗濯。水が濁っていて、シャツやパンツが赤くなる。生田が大阪空港で友達にもらったウィスキー、スーツケースの中で割れている。えらい災難や。1:00就寝。

 

1982.2.22.
7:30、起床。8:15、朝食。パン、コーヒー等、アメリカン・ブレックファースト。

9:00、バスでピラミッドへ。ピラミッドは思っていた通りで、さして感動せず。中は狭く、湿気ていて、閉所恐怖症だったら、耐えられない。王の棺のあったらところまで往復すると、息が苦しい。体力を奪われる。カメラのストロボの調子、悪し。ラクダを写すと1ドル取られる。

小野がラクダに乗って(乗せられて)、10ポンド(3000円)ぼられる。いち早く、ツアーの人気者に。ピラミッドのよく見える所へ行って写真を撮っていると、ラクダに乗っておじさん達が追いかけて来る。ああ、怖! 絵はがきを売っている少年たちもいる。ここは地球的にも屈指の観光地なのである。

スフィンクスへ。スフィンクスは思っていたより小さい。

 

11:40、パピルス・ギャラリーへ。無料のコーラが出て来る。これは「コーラを御馳走になったのだから、少しは買い物をしないと」という日本人の気質に訴える作戦で、のちにインドに行った時にもこの作戦に出会った。

パピルスの作り方を見学。あまり、興味無し。

 

13:00、エジプト博物館着。外観は薄オレンジ色で立派。博物館前で女の子のグループが僕を見て声を挙げる。エジプトではモテるんちゃうか? ミイラを見たかったのだが、エジプトのミイラはイギルスに運ばれ、大英博物館で展示されているらしい。ちなみにツタンカーメンの像は日本で見ている。この時、エジプト博物館には無かった。貸し出しているらしい。それほど感銘を受けぬまま、14:05、エジプト博物館発。ホテルに帰り、昼食へ。阪大4人で一緒に行動。

割と小ぎれいなレストランを見つけ、入る。ランチは2.25ポンド。ビールとコーラを入れて、4.5ポンド。パン、ひき肉入りピラフ、チキン、サラダ、プリン。

小野が寒いから服を取りに行くと言い、ホテルへ。ピラフ食べられず。ホテルに帰る途中でサノらに遭ったとの事。彼らはもっと安く食事をしたそうだ。僕としてもそうしたかったのだが・・・。食後、カイロ・タワーへ。

繁華街は日本と変わらぬ佇まい。ナイル川を渡って、カイロ・タワーへは徒歩で30分。道路を横断するのが怖い。車も人も信号を全然守らない。しかも車は猛スピードで走っている。カイロ・タワー到着。入場料50ピアストロ。少し待たされて、エレベーターに乗り、タワーの展望台へ。上に上がるとエジプトの若者たちに取り囲まれる。ペンパルになろうと住所を交換する。僕の名前をアラビア語で紙に書いてくれた。Cabin、あげる。タワーの上、風邪強し。カイロの街が砂で煙っている。エジプト人は大人びてみえる。向こうもそれを感じたらしい。カイロ・タワーからの帰り、コーラを飲んで、パンを買い、ホテルへ。パン固し。食欲無く、これは昼食の食い過ぎ。

 

バーにてダブルのハイボール5.35ポンド。非常に高い。飲み終わってロビーに戻ると、同じツアーの連中がいて、一時間近く話し込む。部屋に戻り、シャワーを浴びて、絵はがきを書き、就寝。前日に引き続き、生田と同室。天井の高い部屋。

 

1982.2.23.
7:30、起床。8:15朝食。オレンジジュースはエクストラチャージで飲めず。

9:00、バスにてメンフィスへ。オプショナル・ツアー。ナイル川の西岸を南下。車窓からレンガ工場が見える。泥の河で洗濯している人有り。メンフィス近くでは道が泥沼化し、前のバスが道から落っこちて横倒しになっている。僕たちのバスも危ういところだった。

今日から、僕は阪大4人が別々に、或いは、阪大じゃない奴と歩きたいとの考えから、阪大以外の人と歩く様にする。生田は阪大の4人組で歩きたい様だが。

10:00、メンフィス着。ラムセス二世の像(石灰岩)有り。スフィンクスも有る。僕が写真を撮ろうとすると、アラレが来て僕と肩を組もうとする。肩を抱いてハイ、ポーズ。ああ、えーえ目したわ。アラレの目、きれいやなぁ。

10:40、メンフィス発。緑の中を通って、水車なんか見たりして、11:00、サッカラ着。階段ピラミッド、神殿有り。涼しい。大臣の墓有り。写真を撮ろうとすると何故か止められた。墓の写真はNGなのだろうか?

 

13:00、昼食。エジプトのパンみたいなもの、オレンジジュース50P、焼き鳥、ライス。W.C.へ行って用を足すと、少年がタオルを持って来たので、それで拭く。チップが必要だったのかなぁー?後で後悔する。

自分たちが乗っているバスのタイヤが坊主になっている。ビックリ。道を悠然と歩くヤギに紙をやるとバクバク食べる。渋谷(中央大学で住友銀行内定)、100円ライターで買い物しようとする。この頃は、日本でしか手に入らないもの(100円ライターとか紙製の日本人形)を持って行くと、結構な品と物々交換ができた。

14:00、レストラン発。バザール、モスクへ寄り、16:00、ホテル着。

 
16:50、ホテルから郵便局へ。郵便局は汚い場外馬券売り場の様だった。そこでお釣りとしてもらった紙幣は金額も読めないゴミとしか言えないもの。

みんなと一緒に歩くのは機動力に欠けるので、植出と一緒に別行動。文房具店で、植出は日程表をコピーし、僕はメモ(20P)を買う。デパートに立ち寄ったり、コーラを飲んだり、映画館を覗いたり(「ナイトホークス」「砂漠のライオン」「征服王」をやっていた)して、ラムセス中央駅へ。駅の近くでエジプトの兵士に日本語で声をかけられ、「えらいなぁー」と思って、「You are diligent(あなたは勤勉ですね)」というべきところを「You are dangerous(あなたは危険ですね)」と言ってしまった。焦ったぁ。向こうは分からなかった様だ。

駅には改札口は無く、誰でも入れる。構内の線路上を歩いている人もいるし、車内ではたくさんの人が網棚に座っている。

僕はこれから回る都市の「駅」を訪れて、いちばん安い切符を買う事にしたのである。切符を手に入れる為、散々歩き回るが英語が通じず苦戦を強いられる。どうも何種類もの切符があるらしい。1時間近く駅構内をウロウロ。ついに買う事ができず、駅の入口にあった使用済み切符入れから1枚失敬する。

 

駅を出たのが、19:00。土砂降りの雨。幸いな事に「晴れ男」の力を存分に発揮したせいなのか、雨はすぐ止む。道端でホットドッグ(にんにくの様な強い匂いのするソーセージとニンジンをパンではさんだもの)15Pを食べ、映画館の前の食堂へ。ビールを飲み、オイルサーディンと何か訳の分からない白いぶよぶよしたもの、キュウリ。二人で6.9ポンド。もうこれでエジプトのお金はコイン以外無い。余っても、他国の通貨とは交換してくれないから、助かった。2日間で20ドル。安い。20:00、ホテル着。部屋でパンを食う。22:00、入浴。

※エジプトで食べたホットドッグは文字通り「犬の腸」。ぶよぶよしたものは「牛の脳みそ」との事。ああ、気持ち悪い~~。添乗員の深沢さん情報。
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1982年の卒業旅行 1.大阪国際空港〜ロンドン

2020年05月13日 | 旅・外国
1982.2.20  3:00前、車で自宅を出る。大学の友人生田(サントリー内定)をピックアップして、大阪国際空港へ。僕らがいちばん乗り。2階から見ていると、同じく同級生の小野(住友化学内定)到着。最後に植出(パナソニック内定)が到着。この四人で今日から「大学生協主催ヨーロッパ歴史の旅」に参加するのである。訪れる国は、イギリス・エジプト・ギリシャ・イタリア・オーストリア・西ドイツ(当時)・スイス・オランダ・ベルギー・フランスの10カ国。

元々、就職浪人した僕。海外旅行に行く予定は無かった。大学の同級生四人で申し込んでいたのだが、その内一人が旅行期間中に内定をもらった会社の行事が入って行けなくなり、部屋がツインという事で僕にお呼びがかかったのである。

就職して返す事になったツアー料金は、全宿泊費・全交通費(航空機・都市から都市へのバス・ベネチアからウィーンへの寝台特急)・全朝食費・簡単な半日市内観光が付いて、27日間で36万5000円。1ドル=243円の時代であるから、安いと言えるのではなかろうか?

出発前には、母方の祖父母から「激昂の電報」があった。海外旅行はそんな「高嶺の花」の時代だったのである。

この旅では「東京銀行のトラベラーズチェック」を持って行った。淀屋橋の「東京銀行大阪支店」まで行って両替した。海外ではまだ「東京銀行」が強い時代。TCもそこそこ使えたのである。

 

重いスーツケースを引き摺って、レストランに入る。僕はカレーライスを注文した。これが最後の日本食か!?

生田、レストランの窓からクラブの友達が来ているのを見つけ、会いに行く。この時もらったウィスキーが「魔のウィスキー」になる事も知らずに。

 

5:00 英国航空のカウンターに行く。京都産業大学の男性(後にサノと分かる)と女性が一人(のちにアネゴと分かる)並んでいた。

両親、妹、大叔父、大学の親友が見送りに来ている。

英国航空のお姉さん、きれい。飛行機は一時間遅れている模様。

6:20 通関へ。ここで見送りの人たちとはお別れ。生きて日本へ帰れるかな?

税関はたくさんの人々が並んでいる。パスポートと搭乗券を提示。通関後、タバコCabin100’sを1カートン買う。1100円。生涯初めての「duty free shop」での買い物。搭乗ゲートの前まで移動。伊丹空港の国際線フロアーがこんなに広かったなんて知らなかった。同志社女子のツアーがいる。かわいい子多し。わがツアーはどうかな? トイレに行き、キャッシュベルトにパスポートを入れる。植出も一緒。

 

散々待たされて、英国航空006便は20:15大阪国際空港を離陸。成田・アンカレッジを経由してロンドン・ヒースロー空港へ向かう。定刻より遅れる事、1時間。外は真っ暗だ。

 

僕のイスはリクライニングが壊れていて、日本人スチュワーデスに言ったら、「ロンドンまで直りません」と素っ気ない返事。何を考えているのか!その後、他のスチュワーデスに「イスを元の位置にしろ」と言われ続ける。

初めての海外、久しぶりの飛行機。大阪を離陸する時、本当に飛ぶんだろうかと気分が悪くなった。

成田までにパインジュースが出る。成田からどんな奴が乗って来るんやろか?

21:45 成田着。ガラガラだった英国航空006便も満員になる。

なぜか我がツアーの女子は同志社女子に比べて質が落ちる!?気のせいか?

 

ジュースを飲めばただなのに、スコッチのハイボール(2ドル)を飲む。機内はドルも円も使えるので、どちらで買えばいいか、悩ましい。スリッパ、アイマスク無料で配られる。イヤホン(700円/3ドル)借りる。機内は暑い。京産の奴が近くにいる。0:15 最初の食事が出る。肉・寿司・サラダ・パン・パイ・コーヒー。量はこんなものか・・・。添乗員、近畿日本ツーリストの深沢さんは機内食を食べない。彼は35歳位。旅慣れた人には不味くて食べられないのか?

 

5:00(日本時間) 10:00(アンカレッジ時間)アンカレッジ国際空港到着。1982年当時、ヨーロッパ線のほとんどはアンカレッジを経由していた。アメリカ合衆国上陸。


いろいろ見たが品少なく、値段高い。酒くらいか、安いのは・・・。

ビール飲む。小野1ドル、僕1.25ドル出す。初めて手にするアメリカの25セントコイン3枚。

 

6:20再び飛行機へ乗り込む。3回目の食事があった後、9:20から映画「クリスタル殺人事件」を見る。最初10チャンネルで聞いていたら、画面と音声がずれていたので、イギリス人のスチュワーデスに文句を言ったら、9チャンネルにしてくれた。声が小さい。映画の最初の部分が分からないので、登場人物の名前がなかなか憶えられない。映画は飛行機の壁にある絵が回ってスクリーンになり、客席の上の映写機から映す小さなもの。字幕映り悪く、山場少なく、面白くなし。どうしたガイ・ハミルトン監督。出演がロック・ハドソンとエリザベス・テーラーじゃねえ・・・。生田・小野・植出はアイマスクをして眠っているのに、なんで僕だけ眠い目を擦りながら、こんな面白くねえ映画を見なきゃならないんだよー!

上映後も電気は点かず、飛行機は一路ロンドンへ。

外ずっと暗し。13:40、朝食出る。肉、ハム。海老入りサラダ、パン、牛乳。



食後、前の席のサノ(ツムラ内定)らとトランプ。

 

現地時間6:10、ロンドン・ヒースロー国際空港到着。薄暗し。空港は広く近代的だ。僕はすぐ通関できたが、生田はえらい時間を食った。エスキモーと間違われたのではないか!?

英国航空のポーターのストライキの為、自分たちで荷物をカイロ行きの英国航空カウンターへ持って行く。

8:25、カイロ行きの出発時間までかなりあるので、一旦解散。地下鉄ヒースローセントラルからハイドパークコーナーへ。四条軌条方式。車内狭く、かまぼこ型。軋む音しきり。地上に出た地下鉄より見る家々はどれも同じ形に見える。


初めて踏むイギリスの大地。ハイドパークは広く、涼しく、人はいず、日本の公園と雲泥の差。ジョギングする人、馬に乗った警官、芝生に降りた霜の水滴。僕の眠気も吹っ飛んだ。

写真を撮りまくる。植出はゴミ清掃員のおじさんにサインをもらっている。おじさん、恥ずかしそうにしている。

歩いてマーブルアーチへ。植出によれば、この門の下では誰とでも話ができるのだそうだ。

車のエチケット良し。人が道を渡ろうとすると、車は必ず止まってくれる。

僕と植出、歩くの速し。小野・生田、遅れる。

マーブルアーチのそばに「マクドナルド」。まだ食べ物はやっておらず、飲み物だけなので、あきらめ、通りを東へ。やっと「7days a week」の店を見つける。外見は刑事コロンボでもいそうな安っぽい店。初めての外国での食事にいささか緊張。中に入るとイギリス人が静かに食事をしている。席に座っても誰も来ないので、「Excuse Me」と言って店の人のところへ行くと、席に座っていろ、との事。

頼んだ食事は2.25ポンド。目玉焼き、焼いたフランクフルト、トースト、コーヒー。味はまあまあやけど、値段高いんとちゃうか・・・ロンドンはかなりのインフレ?

食事は音をたてないように、そしてチップをいくら置けばいいかアタマを悩ます。

 

食後、ハイドパークの北を回って、アルバート公の像、「ヒッチコック映画」「刑事コロンボ・ロンドンの傘」でも有名なロイヤル・アルバート・ホール」へ。この辺りのアパートは怪物の様に大きい。


ソフトクリームを屋台にて食す。屋台のおじさんがソフトクリームではなく、ホットドッグを作りそうになったので、焦る。25ペンス。ソフトの上にレモンクリーム載っているが不味し。

地下鉄の入口、日曜日の為、閉まっているところ多く、通りゆく人に聞きながら、駅にたどり着く。駅のホームはとことん深い。エスカレーターが木製なのもロンドン地下鉄がSLの時代から動いている世界最古の地下鉄である事を物語っていた。

ホームに僕の大好きなMel Brooks監督の「珍説世界史パート1」ポスターが貼ってあった。嬉しい。

 

12:30、ヒースロー空港。家に絵はがきを出す。

英国航空の時刻表を探すが見つからず。添乗員の深沢さんによれば、鉄道案内所の様なところに置いてあるそうだ。

Duty Free Shoppers 内の待合せ室に再集合。四人ほど遅れた。

飛行機も遅れる。

14:15、ロンドン・ヒースロー空港を離陸。英国航空155便でエジプトはカイロへと向かう。

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駿台予備校京都校の表三郎先生と田中重太郎先生

2020年05月12日 | エッセイ・日記・意見
1986年・1987年(高二・高三の夏休み)、僕は京都百万遍に仮校舎のあった駿台予備校京都校に連日通っていた。
印象的な先生は、英語の表先生と漢文の田中重太郎先生だった。

表先生は予備校講師の典型で、聞く生徒の気をそらさず、的確に教えてくれた。そして、表先生のメガネ、片方が遠視で片方が近視なのであった。

田中重太郎先生は退屈な漢文の授業を魔法をかけた様に魅力的にしてくれた。中国のポルノ・金瓶梅を素材に教えてくれた事もあった。

京都の蒸し暑い中、通った駿台予備校。42年前の夏の話である。
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湖水地方〜ネス湖・・・イギリス

2020年05月11日 | 旅・外国
1993年、私は妻と一歳になる娘と共に、ロンドンへ向かうJALの機内にあった。

娘の事を思い、外国のキャリアではなく、JALにした私たち夫婦の気遣いを知ってか知らぬか、娘は穏やかな表情で眠っていた。

今回の目的地は、アーサー・ランサムの少年小説の舞台となった湖水地方(ピーター・ラビットの故郷としても有名)とネス湖である。アーサー・ランサム全集は、私が転校生としてイジメられていた時、二宮金次郎の様に小学校から自宅まで、歩きながら読み耽った本である。

 

ロンドン・ヒースロー空港に着き、タクシーでヒルトンホテルへ。

ヒルトンホテルと言っても、ピンキリである。そんなに豪華さは無いけど清潔なホテルであった。ホテルに着いて分かった事。イギリスは明日12/26が「BOXING DAY」だと言う。要は「12/25まで飾ったクリスマス飾りを箱にしまう日」。その為、全国の鉄道が止まってしまうのである。今日一泊して、明日鉄道で湖水地方に行こうと思っていた私たちのプランがガラガラと崩れ落ちた。

ホテルのカウンターに相談すると、ロンドンから500キロある湖水地方へはレンタカーしかないとレンタカー屋にあたってくれた。そして、有難い事に車の予約までしてくれたのだ。

 

翌朝、早くに起きてレンタカー屋へ。少し受付で並んだが、VOLVOのワゴン車を借りて、無事ロンドンを出発。郊外へ出るまでVOLVOは国産車より大きいので緊張したが、出てしまえば逆に安定感があって、頼もしい味方になってくれた。途中国道沿いのサービス・エリアで昼食を取り、500キロをひたすら走る。一人で運転しているので、最後の方は睡魔と闘いながら、運転。何度か、凍っている路面で滑りそうになりながらも、湖水地方の中心・ウィンダミアに到着。予約しておいたホテルに雪が積もっていて、「白いお菓子の城」に見える。娘は車中でも大人しい。

 

翌朝、アーサー・ランサムの著書にいちばん多く出て来る「ウィンダミア湖」と御対面。著書では「ハリハウ」という名前で登場する町から観光船に乗って、湖上遊覧。やっと憧れ続けた場所に来られた喜びに思いっきり浸る。


 

車でグラスゴーへ移動。ここも泊まりはヒルトンホテル。翌朝のバイキングでは「味噌汁」「海苔」「梅干し」「白米」など日本食のコーナーがあり、有難い。グラスゴーに日本企業が多いせいだろう。

 

ここから先は道が凍結している危険性もあるので、レンタカーを返して、電車で北上。目的地はネス湖観光の拠点・インバネスだ。インバネスで鉄道を降り、駅前に出るとすぐ左手にあったのが「カラオケ」という赤い提灯。日本の「カラオケ」がここインバネスにも進出していた。

 

ネス湖の観光はバスで。冷たい風が吹き荒び、木々がしなう様に低く生えている。

車窓から目を凝らしてネス湖の湖面を見据えるが、さすがに「ネッシー」は出て来ない。しかし、不気味な事に変わりはない。お土産屋でネッシーグッズを買い漁り、インバネスから電車でグラスゴーへ戻る。グラスゴーで一泊後、飛行機でロンドンへ。ロンドンの遊園地に行く。新年を迎えた。

ロンドンでフリー・アナウンサーの逸見政孝さんの逝去の報に接する。


帰路もJAL。しかもエコノミークラスに乗客を乗せ過ぎたのか、席のみ、ビジネス・クラスへアップデート。機内食はエコノミー。

娘は今27歳。このイギリス旅、憶えていないだろうなぁ・・・

(1993年)

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ペルー〜ボリビア

2020年05月11日 | 旅・外国
二回目の南米は、ペルー~ボリビア。成田からシアトルを経由して、ペルーの首都リマに入る。リマは治安がとても悪いと聞いていたので、緊張して「リマ国際空港」に到着。日本にいる時からひいていた風邪が悪化していて、最悪の状態。熱があるかもしれない。



 

重たい荷物をカートに載せて、ゲートから出て来ると一人のおじさんに声をかけられた。旅行代理店の人の様だ。リマ市内まで無料で車に乗せて連れて行ってやるとの事。心身共に疲れ果てていた私は荷物をおじさんに任せた。車中、何の予約もしていない事、今回の旅でどこに行きたいかという事を話すと、俺がすべてコーディネートしてあげるとの提案。そして、フジモリ大統領候補の選挙があるので、数日後からペルーの公共交通機関がすべて止まってしまう事を教えてくれた。

リマの中心地、大統領府のある広場の一角、おじさんのオフィスに到着。ホテルと交通、ルートに関して、話し合い、ルートを決める。リマから飛行機でクスコに飛び、クスコを観光。翌朝、鉄道でマチュピチュへ移動。マチュピチュ観光後、クスコへ戻り、鉄道でボリビアの首都ラパスへ。ボリビアのチチカカ湖でウロス島を観光。その後、バスに乗り国境を越え、ペルーへ。首都リマへ戻る。

今度はリマから南に向かって5時間。ナスカの地上絵を見に行く。セスナ機に乗り、地上絵を見たら、リマに帰って来るという旅程である。もちろん、添乗員が付く訳ではなく、私がクーポンの束を渡され、それを1枚1枚使っていく訳である。

こんなに体調の悪い時におじさんと会えた事を感謝。

 

一泊目は、大統領府の前のホテルを取ってくれたので、チェックイン。

広いベランダがあり、そこから町の様子がはっきり見えるナイスな部屋。

体調を整える為に早めに就寝。

翌朝早めに起き、準備をする。ここで南米のトイレ事情を少し。

南米はトイレの水の勢いのせいか、流す紙のせいか分からないが「お尻を拭いた紙は流さず、トイレについている屑籠に捨てる」のだ。基本、空気が乾燥しているから臭わない。

リマ観光。まずは大統領府の下にある「カタコンベ(たくさんの骸骨が祀られた地下墓地)」に。実は私、小学生の頃、週刊少年マガジンの「かたこんべ特集」見て、3日間高熱を出して寝込んだ事があるにもかかわらず、骸骨やミイラに関心があるのである。

街には「血圧屋」と呼ばれる「血圧を測る事で生計を立てている人たち」もいた。

リマは治安が悪いとガイドブックに書いてあったが、歩いたのが昼間だったせいか、それほど怖いという印象は無かった。

ペルー日系人会館(のちに立てこもり事件で有名になる建物)を見終わって、トイレに行ったら、トイレットペーパーが無い。会館の向かいにスーパーがあったので、買おうと思うがお金が無い。ATMを探し、トイレットペーパーを買い、トイレに戻った。よくよく見ると便座が無かった。盗まれる事があるので、イタリアなどでも飲食店が便座を外しているケースは多い。

仕方がないので、腰を少し浮かせて、用を足した。足がつりそうになった。

翌朝、リマを出て、飛行機でクスコへと飛ぶ。前に見えるは雪をかぶったアンデス山脈。飛行機には「高山病」対策の為、一人一人に「酸素ボンベ」が備え付けられている。

 

クスコのホテルにチェックイン。インカ・コーラ(プラッシーの様な黄色のコーラ)とコカ茶(覚醒剤の原料となるコカの葉から抽出されたお茶。高地で働くインディアが飲み、高山病の予防にも効果がある)を飲む。

クスコを散歩。アルパカの毛で編んだセーターをお土産に買う。

翌日、鉄道で4時間、マチュピチュへ向かった。クスコからマチュピチュへは標高が下がっていくので、息が段々楽になっていくのを実感した。

巨大瀑布とかアマゾン川とか自然の大きさが好きな私にとって、マチュピチュは期待していたほどではなかった。ただ、何百年もジャングルの中で人知れず眠っていたマチュピチュを初めて発見した人の驚きはいかほどだったのか、そんな事に思いを馳せた。

 

クスコへ戻り、翌朝鉄道に乗ってボリビアの首都ラパスを目指す。外国人は1両だけ連結されている車両に乗る事になっていた。所要時間は7時間位か。

途中の駅で車窓越しに地元の人が鶏の丸焼きを駅弁として売る様に持って来る。毛糸でできたインディオの人形を売っている少女もいる。1日数本しか通らない鉄道によって生計を立てている彼女たちの生活はどのようなものか、旅人は想像するしかなすすべがないのだ。

列車からバスに乗り換えて、ボリビアの「チチカカ湖」の「ウロス島」へ。ここでは湖に浮かんだ「藁の島」を観光。島にはインディアンが暮らしていて、火を使って炊事している。

再びバスに乗り、先を急ぐ。2~3日中にペルーのフジモリ大統領の選挙があり、ペルーの交通機関が止まるという事らしい。その余波がボリビアの交通機関にも及ぶという。

休憩で止まった町の公衆トイレ、男性が用を足すところは限りなく高かった。

最初は手を洗うところと思った位だ。背の高い私でもちんちんをやっと載せられるほどだ。ボリビア人の足の長さを思う。

 

標高4000メートル、富士山の山頂より高いところに位置するボリビアの首都ラパス。すり鉢状になっていて、真ん中が凹んでいる。すり鉢の縁には貧困層が、すり鉢の一番凹んだ中心には金持ちが住んでいる。これは空気が濃いか薄いで決まって来るのである。

五分も歩くと私は息苦しくなり、座り込まなければいけないほどだった。ちょうど私が行った時、ラパス市民マラソン大会をやっており、私がしんどくて座り込んでいる横をランナー達が軽快に走り抜けて行った。

 

ラパスには「遊園地」があり、ミニ・ジェットコースターに乗ってから、町をぶらり。坂を金持ちゾーンへと下りながら、「レストラン東京」を探す。「寿司FUJI」という看板を見つけ、店内へ。店主に銃を突きつけられる。ボリビアは中国からの密入国者が増え、治安が悪くなっているとの事。それゆえ、鮨を握るまな板とカウンターの間に銃を置き、いつ強盗が入っても大丈夫な様にしているとの事。日本語で事情を説明したら、温かく迎え入れてくれた。店主は元々大阪・江坂の寿司屋にいたとの事で、かつて吹田市に住んでいた私としては親近感が湧く。

鮨を肴にビールを飲んでいると、40代のおじさんとボリビア人らしい女性が入って来て、店主も入れて四人で盛り上がる。おじさんはボリビアにボーリング(工事用の穴を掘る技術)を教えに来ているという事だった。

私が「フォルクローレ(南米の民族音楽)」を聴きに行きたいというとおじさんが連れて行ってくれるという。女性は彼の愛人らしい。

夜の10:30、おじさんオススメの劇場で三人待ち合わせ。ショーは「タンゴ」あり「フラメンコ」あり「民族音楽の演奏(「コンドルは飛んで行く」など)」ありで盛り上がる。最後に出て来た「フォルクローレのバンド」が開口一番言ったのは、スペイン語で「今、この会場に二人の日本人(ハポーネ)が来ている。その二人の日本人に捧げます」。

演奏し始めたのは、「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」。私の心に深く染み入った一曲であった。南米の夜は更けていき、人の出会いは貴重だと思った。

 

翌朝、ラパスから飛行機でペルーの首都リマへ。リマのホテルへチェックインし、

市内観光。と言っても、「地球の歩き方」を見て、ひたすら歩くだけ。

 

翌朝、旅行社の車がホテルの前に迎えに来ている。今日はナスカの地上絵を見に行く。私の横には知らないおばさん。添乗員さんに誰?って聞くと、添乗員の叔母さんで、ナスカに行く途中の町まで行くので同乗しているとの事。

少し走ったところで、食堂に立ち寄る。叔母さんの朝食タイム。私はホテルで食べて来たので、トイレの場所を聞き、食堂の裏手のトイレへ。

6畳位ある部屋の中央に便座があったろうとは想像ができる。しかし、何十万という人々がウンコをし続けて、三メートルの高さのピラミッド状の山になっていた。乾燥地帯なので、臭いは全くせず、それ故それだけの人数の人々が用を足したのだろうが、さすがに日本人の私は用を足す事は出来ず、ナスカの手前、空港のあるイカの町まで我慢する事にした。イカのホテルのトイレに行ったら、またしても「便座」が無く、中腰で用を足していたら、足が吊りそうになった。

 

ナスカの地上絵観光飛行の飛行機はイカの空港から出発する。欧米人のおばさんと二人、セスナ機に乗り込む。一つの地上絵につき、セスナ機は右回転と左回転を繰り返す。右座席のおばさんと左座席の私に地上絵をよく見てもらう為だ。

古代人が飛行機も無い時代に作った「ナスカの地上絵」。どういう風に作ったのか、古代ロマンに思いを馳せつつ、セスナ機を降りて、首都ペルーへ5時間の帰路についた私である。

 

事件はそんな時起きた。車のエンジンが砂漠地帯のど真ん中で動かなくなったのだ。車から降りて、私と添乗員さんで車を押す。ドライバーが何度もエンジンを駆ける様、試みる。1時間位、やっていただろうか? 永遠に続く砂漠の中、ガソリンスタンドなど全く見えない。

車を押している私たちに容赦なく、太陽の光が降り注ぐ。湿度が低いとはいえ、汗ばんできた。

「デデディィィ・・・ドドローン」

奇跡的にエンジンがかかった。

これでリマへ帰れる。ホントにホッとした。

 

ペルー帰国前日、タクシーで「黄金博物館」へ。リマのタクシーにはメーターが付いていないので、値段交渉が必要。旅行者に「黄金博物館」まで幾らかかるのか分かるはずもなく、交通整理をしていた警官に値段交渉をしてもらう。金額が決まったら、それを紙に書き、運転手に見せて同意を取った上でタクシーへ乗り込む。

 

「黄金博物館」には、「インカ時代の母子のミイラ」が展示されていた。

母子のミイラには物語がある。写真を撮った。ミイラに興味があるのである。

ノドが渇いたので、インカコーラを買って飲む。プラッシーの様な色。名前に「インカ」が付くので、私は「ミイラの粉末」が入っている様なイメージがしていたが、実際は「普通に美味しいコーラ」だった。


「セビーチェ」という食べ物がある。ペルーの人たちが好んで食べる「魚介類のサラダ」である。味はビール(スペイン語ではセルベッサ)に合う。島国の日本人好みだ。

この「セビーチェ」の影響が帰国した私に襲いかかるのだ。その話は後ほど。

 

ペルー最終日は地元旅行会社に行って支払い。全行程で28万円位か。

こちらの金額に換算すると巨額になる。

しかし、風邪で最悪の体調だった中、助けてくれた恩義もある。ほとんど値切らずに支払う事にした。

 

帰国し、会社で健康診断を受ける。

2~3日して、会社に出勤する途中で「身体がだるくて、階段を上がれない状況」になった。何とかして会社に到着すると産業医の先生から電話があり、すぐに入院しなさいとの事。血液検査のγ-GTPの数値が1600有り、A型肝炎にかかっているそうだ。入院して、数日経つと黄疸が表れた。

健診がいいタイミングであったと今にしてみれば思う。

そう、「セビーチェに使われている野菜から感染した可能性」が否めない。

入院は三週間におよび毎日二回の点滴で肝臓の数値を下げ、退院する事ができた。

(1990年)



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拝啓天皇陛下様

2020年05月05日 | 映画・DVD・ビデオ


「寅さんシリーズ」の渥美清主演
「砂の器」「八つ墓村」の野村芳太郎監督
の軍隊喜劇の傑作。
居心地の良さを軍隊に感じていた渥美清は
終戦になるかもしれないという情報に
慌てるが・・・

軍隊を喜劇として描く事により、
戦争の怖さをより一層際立てる一品。
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火の鳥2772 愛のコスモゾーン

2020年05月04日 | 映画・DVD・ビデオ


劇場で観た。手塚治虫の久しぶりの劇場アニメ映画。
カットカットには凝っていたが、全体としてはしてシンプルにまとまっていて、誠に楽しめた。
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カリフォルニア・ドールズ

2020年05月01日 | 映画・DVD・ビデオ


名匠ロバートアルドリッチ監督の遺作。女子プロレスラー二人と巡業する老紳士の物語。「刑事コロンボ」のピーター・フォークが老紳士を演じる。
ロバート・アルドリッチにハズレが無い。
「攻撃」「何がジェーンに起こったか?」「特攻大作戦」「北国の帝王」を観てみて欲しい。
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百円の恋

2020年05月01日 | 映画・DVD・ビデオ


これも2014年新宿テアトルで観た。地下にある映画館に向かって大行列。一回やり過ごして観た。安藤サクラが圧倒的にいい。ボクサーになっていく過程もリアルで素晴らしい。足立紳の脚本も冴え渡っている。
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ナビィの恋

2020年05月01日 | 映画・DVD・ビデオ


この映画は新宿テアトルで並んで観た。通路に座布団を敷いてくれたのを憶えている。テレビではあまり存在感が無い西田尚美が映画では瑞々しい存在感を観ている者に与える。その事を感じた映画だった。テアトル新宿から階段を上がって出て来ると、幸福感に包まれ、新宿ゴールデン街で飲みたくなった。
人を幸せな気分にする映画だった。
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