9月3日アマチュア無線でCQを出すも、誰にも相手をしてもらえず、一寸ふてくされてしまいました。このまま帰ったのでは此処まで来たのがもったいない。ということで、上三川城の跡地を散策することにしました。この記事はその時の記録です。

上三川城は建長元年(1249年)、宇都宮氏の一族の横田越中之守頼業が築きました。

お堀の周りは遊歩道になっていて、ゆっくり歩く事が出来ます。

少し歩くと「緑水門」前の橋が見えてきました。

橋を渡って下を見るとお堀の中に、滾々(こんこん)と水が湧き出る井戸がありました。お堀の中に在る井戸?ちょっと不思議です。

「緑水門」は何だか山寺の門のようで一寸貧弱?(失礼!)。

お堀の周りは住宅が立ち並んでいます。

先程の「緑水門」の反対側にある「櫻花門」です。印象は「緑水門」と同じです。

さて、「櫻花門」の近くに桜の木がありました。たて看板には「しとやかにしてせいそなり 勝姫櫻」とありました。

画像では鮒が写っていますが、この堀には「片目のドジョウ」という悲しい伝説が残っていました。

現在では、この本丸を残すのみですが、元は東西四百から五百メートル、南北千メートルの範囲で土手を廻らせた郭がいくつも並んだ、広大で堅固な構えをみせた城だったそうな。それが、慶長二年(1597年)に芳賀高武に攻め滅ぼされました。三百四十八年間の権勢でした。

さて、「片目のドジョウ」悲話はその時のお話です。
慶長二年(1597)豊臣秀吉は、後継ぎのいない下野宇都宮家に養子を迎えるよう勧めました。でもそれについて宇都宮家臣らの意見が食い違い、大坂で家臣同士でいざこざがありました。秀吉の言うとおり養子迎えようという今泉高光、北条松庵らと、養子反対派の芳賀高武とです。
宇都宮家には昔から、養子を迎える事で決まりごとがあったそうで、秀吉の提案はそれを無視したものだったので芳賀高武は怒ったのです。
高武は、北条松庵を京都で斬り、それに驚いた今泉高光は、あわてて国許である下野の上三河へ帰りました。
そこへ芳賀高武が帰ってきて、軍勢を率いて上三河城を攻めました。高武は、前から今泉家の姫(勝姫?)を気に入っていて、それを奪いにやってきたという話もあるそうな。
結局、今泉勢は力尽き、落城。高光は自害。高光の奥方も自害。この時、のどを突こうとした奥方が、誤って目を刺し、本丸の堀へと身を投げた。堀には、奥方の無念が残り、住むドジョウはみな片目で、取るとたたりがある。という伝説です。