僕の旅と彼方の友と

旅が好きアマチュア無線が好き、そんな僕の呑気な日々を綴ります。

『沖縄の旅』 ※黒島編

2012年01月10日 22時03分47秒 | 旅の思い出

 黒島へは竹富島からの直通便が無いので、一旦石垣島へ戻ってそこから再出発となります。 


 ターミナルはこじんまりとしています。個人的にはいい雰囲気だと思います。


 島で最初にむかえてくれるのがこの牛。ほぼ実物大でレンタサイクル屋さんの前に居ます。ちなみに、このレンタサイクル屋さんの話によると、今日の観光客は僕とY君を含めて8人だそうな。数を数えられるところがある意味感動です・・・。



 この島では人が200人程暮らしています。そして牛は2,000頭程飼育されています。牛の方が多いんですねぇ。



 この木を見て昔のTVのCMを思い出しました。「♪この木何の木気になる木」



 ついでと言ったらなんですが、気になる鳥も居ました。拡大すると・・・ 



 これは孔雀!実は黒島には随所に野生化して生息しています。



 島にある『黒島研究所』というところに寄ってみました。



 主に海ガメの研究をしているらしいのですが、展示品は色々あります。ウミヘビの皮や人工衛星の破片なんてなものもありました。




 これは椰子蟹です。食べると美味しくて、個体数は減っているそうな。石垣島の居酒屋でも売っていましたが、注文するのは止めました。


 モブログでも紹介しましたが『プズマリ』です。ブズマリとは賃銭や異国船を監視するため、遠見台として琉球王府時代に使われた黒島で一番高い場所です。八重山の島々にこのような遠見台があって、船が見えると火や煙を使って遠見台から遠見台へ次々と合図が送られ、石垣島の蔵元(琉球王府の役所)へ通報されたそうな。 



 牛用の電流かはたまた人用か・・・。ちなみにこの島にはお巡りさんは居ません。  


 島の灯台です。何故か観光スポットに・・・。



 灯台下の海岸。男の人が静かにたたずんでいました。詩人だねぇ。

先にも書きましたが、黒島には人が200人程牛が2,000頭程居ます。ちなみに僕の住むマンションは約800世帯約3,000人程暮らしています。比較しても意味無いけど・・・。牛の島らしく島の全域がやはり臭っています。



 伝統芸能館近くで飼われているワンちゃんです。こいつがとても人懐っこくて、なかなか放してくれませんでした。




最近出来たプズマリ。登ると見晴らしは良かったです。



 こんな感じです。ちなみにこの方向は尖閣列島方向です。まっ此処からじゃ逆立ちしても見えっこありませんけど。



 中身は牛の餌用の牧草です。



 港のお土産屋さんでは、シーサーではなく牛の置物が売られていました。

黒島編終わり
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『沖縄の旅』※竹富島編

2012年01月09日 11時20分20秒 | 旅の思い出

竹富島へは羽田から空路で沖縄本島へ行きそこからさらに飛行機を乗り換えて石垣島へ、さらに今度は船に乗ってやっと到着します。


竹富島の印象といえば白い道と赤い屋根と石垣・・・。独特の情緒があります。


 石垣島を朝早く発ってこの島に着きました。この時期は観光客も少なく静かな港です。


 港に着いて迎えてくれたのが「あだんの木」?。南国らしい樹木です。


 この島の道はたぶん海岸から採取したであろう白い砂が敷き詰められています。白い砂は珊瑚の欠片、石垣(グック)は珊瑚石灰岩だそうな。




 島の中央部に奇妙な塚がありました、『ンブフル』というんだそうな。ここは別名「牛岡」とも云われていて、昔に中筋村で飼われていた牛が夜中に飛び出し、角で土や石を突き上げて一夜のうちに高い岡をつくり、その上で「ンブフル・ンブフル」と鳴いたそうな。当時の酋長はこれをみて大いに喜び、この岡を土台にして堅固な見張り台を築き上げ、その名を牛の鳴き声にちなんで『ンブフル』としたんだそうな。




 今度来る時はこんな宿に泊まって何んにもしないでぐうたら過ごしたいですねぇ。



 郵便局の建屋も島らしい造りです。ちなみにこの日は正月休みで開いていませんでした。



 島を一望できる『なごみの塔』です。突端に上がる階段は上がり辛かったです。




 突端はらの風景その1。



 突端はらの風景その2。僕とY君はレンタサイクルでしたが、このように徒歩での島内巡りも良いかもしれません。



 何となくの画像です。




 牛車が来ました。三線を弾きながら観光案内をしてくれます。



 再び何となくの画像です。



 山羊が居ました。いったいこんな所で何をやっているのでしょう。



 ふ~ん。墓守ですか・・・。まあ頑張ってください。



 島の中の神社にあった木。根の張り方が凄かったです。



 カイジ浜。白い砂浜とコバルトブルーの海、家へ帰りたくなくなります。



 浜では人懐っこい猫達が毛繕いをしてました。

同行したY君のブログはこちら↓http://blogs.yahoo.co.jp/yoneyoneyone1227/7410425.html
竹富島編終わり
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UFO?

2012年01月08日 10時13分17秒 | 旅の思い出

 沖縄旅行の画像を整理中に面白い写真が見つかりました。まるでUFOが飛んでいるように見える写真です。特に左下のものは雲の陰に隠れているように見えます。もちろんこれはUFOではなく竹富島行きの船内の照明の灯りです。
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『木曽路の旅』総集編

2011年05月05日 19時02分57秒 | 旅の思い出
『馬籠宿』(まごめじゅく)


「お民来て御覧。きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曽川の音はきこえるかねえ」

「ええ、日によってよく聞こえます。わたしどもの家は河のすぐ側でもありませんけど」

「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ」

「それでも、まあ良い眺めですこと」

「そりゃ馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気の良い日には、遠い伊吹山まで見えることがありますよ」

林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開

けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。僅かに二里を隔てた妻籠と

馬籠とでも、言葉の訛りからしていくらか違っていた。この村へ来て味わうこと

の出来る紅い「ずいき」の漬物なぞも、妻籠の本陣では造らないものであった。


                   島崎藤村『夜明け前』より



とりあえず馬籠宿を散策した様子を動画でご覧下さい。GW真只中とあってかなり込み合ってます。

 中山道六十九宿のうち、木曽谷には十一の宿場が置かれていました。馬籠は板橋を一番目とすると四十三番目の宿場になり、江戸からの距離は八十三里六町(326.618182Km)余りとなっていました。

 街道が山の尾根に沿った急斜面を通っているので、その両側に石を積んで屋敷を造る「坂のある宿場」が特徴だそうな。

 明治28年(1895)と大正4年(1915)の2度の大火で江戸時代の遺構の殆どを焼失してしまったそうな。

 動画の中で出てくる大きな水車は実は発電機で、中はこの様になっていました。

 発電された電力は実際に近所で使われているそうな。


 そもそも中山道ははじめ「中仙道」と書かれていましたが、本州の中部山岳地帯を貫いている道路ということから享保元年(1716)以降「中山道」と書き改めやはり「なかせんどう」と読ませたそうな。

 洒落たデザインですが、防火水槽じゃないんですねぇ。


 なかに消火器が入っているんです。よく見ると書いてありますけど・・・。



岐阜県中津川市馬籠


『妻籠宿』(つまごじゅく)

 駐車場から車を降りて宿場街に入って最初に出くわすのがこのお店。やけに目立つ物が置いてあります。

 藁(わら)でできた巨大な馬でした。感覚的にポニー位の大きさああります。よくぞ作りました、お疲れ様です。

 観光案内などによく出ている風景です。何の木だかは知りません。

 画像よく見ると何となく構造が分かるかも知れません、昔のシャッターです。良くできています。

 こちらもGWとあってかなり観光客が来てました。

 ひょっとして今でも使っているみたいです。そんな感じがします。

 道は殆どアスファルトで舗装されていますが、このような整備はされてますが未舗装の道もあります。風情があって僕は好きです。

 雨樋(あまどい)は木製です。複数の板を組合せた物や、一本の木を彫って作った物等 がありました。

 このような路地も見どころ行きどころです。 。

  蘭(あららぎ)川です。

 宿のこちら側からは蘭川が良く見えます。川の流れを眺めつつ、昔の人も旅の疲れを癒していたのかも知れません。

 「鯉岩」です。鯉が跳ねてる姿に似ている為に名付けられたそうですが、全くそんな感じには見えません。昔は見えたそうですが、明治二十四年の大きな地震で動いてしまい、こうなったそうです。

 「鯉岩」上部からの家並みです。

 「本陣」(大名のお偉いさんが泊まる所)です。中まで見学しませんでした。

長野県木曽郡南木曽町吾妻

後日、時間を見つけて番外編をUPしたいと思っています。
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帝国海軍地下司令壕

2011年01月21日 21時20分34秒 | 旅の思い出
 久し振りのトラックバック練習板です。今回のgooブログトラックバック練習板のお題は「お気に入りの動画はありますか?」です。
 Youtubeの動画は楽しくてよく見ています。昔のTVドラマの主題歌や音楽等を中心に、たま~に心霊動画なんかも。昔のTV番組の投稿動画で、どう見ても生身の人間が画面の端っこ(何故か必ず端っこ)に映っているだけなのに、「心霊じゃああああ」と霊能者を名乗る人が叫ぶのがなかなかおもしろいです。どうせなら写真家に見せて、トリックでも同じ様な動画が撮影出来る事を説明させればもっと面白いと思うんですけど・・・。
 まっ、それはさておき。投稿動画はどれも楽しくて、これと特定できるものはありません。そこで僕がYoutubeに投稿した動画でブログ未発表のものを紹介させて頂きます。


 ここは沖縄本島豊見城市豊見城236番地の小高い丘にある『旧海軍地下司令壕』です。今までブログに載せるのを躊躇していたのは、手榴弾による自決跡が撮影されていたからです。無念の思いが映像に映り込んでるわけではありませんが、歴史を後世に伝えるという意味で載せることにしました。余談ですが、僕の伯父が海軍で特別攻撃隊の出撃予定日の数日前に終戦となって命拾いをしたと聞いたことがあります。もっともその後病死しましたが・・・。こんな史跡を見るにつけ昔の人は本当に精神的にも肉体的にも強かったんだなあとつくづく思います。
『旧海軍指令部壕』

所在地
沖縄県豊見城市豊見城236番地
TEL098-850-4055

交通:那覇空港から車で約20分。駐車場あり(無料)

開館時間
08:30~17:30(7月~9月) 
08:30~17:00(10月~6月)

入館料
【大人】 420円 【小人】 210円


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休日の小旅行

2010年06月21日 21時33分03秒 | 旅の思い出
昨日の日曜日
いつものメンバーで、ちょっとした旅行をしてきました
「東篭の塔山」と「池の平」の散策さらに「懐古園」

暇を潰すにはちょうど良い具合の日帰り旅でした。


東篭の塔山はこれで二度目の登山になります。前回登った時は天気も良く展望も良好だったのですが、今回は霧が発生して残念な景色でした。


朝早かったせいか駐車場は空いていました。前回来た時は無料だった記憶があるのですが、今回500円の料金を取られてしまいました。ちなみに中型2,000円・大型3,000円
だそうな。


ちょっとピンボケですが、岩鏡(イワカガミ)が綺麗に咲いていたので写真に撮っておきました。


今回の登山では一番の難所です。まあ難所というより軟所かもしれませんけど・・・。この後すぐ山頂(2,228m)です。駐車場から30~40分位です。

さてさて


下山してすぐ、ミニ尾瀬と言われる「池の平湿原」を散策しました。


湿地帯は乾燥していて何か変な気分です。



「鏡池」。ここだけは水気がありました。風が無ければ向こうに見える東篭の塔山が写る筈なんですけど、今回は風もありご覧のとおりでした。

そしてついでに


「懐古園」に寄ってみました。有料の処はパスして無料の処だけ・・・。
この辺りは小諸城の跡地ですが、市街化が進んでもはやその面影は殆んどありません。
上の写真は「三の門」です。


こちらは小諸城の「大手門」。さすがに立派です。
「三の門」と鉄道を挟んで地下道を潜った反対側にあります。
廃藩置県後に一旦は民間人の所有となりましたが、現在は小諸市の所有となっています。



小諸駅近くにあったお店です。
別にこれといって意味はありませんが、何となく昭和30年代を思い出しそうで、記念に写真に撮っておきました。

おまけ
 関越自動車道の上り横川SAで

「龍の髭」に似た「龍の舞」が売られ

ていました。4個入りで525円と少

し高めのお値段ですが、これがな

かなかの美味!お薦めです。

都内で買うならココ
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美ら島・沖縄の旅(歴史編)

2010年01月12日 08時00分00秒 | 旅の思い出
『玉陵(たまうどぅん)』

 沖縄へ来て最初に訪れたのは『玉陵(たまうどぅん)』です。読み方が沖縄地方は独特で難しいですね。「ぎょくりょう」とならなんとか読めるのですが、「たまうどぅん」と読むとなると「玉子うどん=月見うどん」なんてな解釈をしてしまいそうです。しかし、ここは立派なお墓、しかも王家の墓です。



 場所は首里城の近くにあって、うっかりすると見落とすかもしれません。たまたま自称ウチナンチュ(沖縄の地元民の意)のY君が知っていたので見に行きました。



 本土の古墳とは全く別の発想で造られています。もともと沖縄は琉球王国で日本とは別の独立国家でしたから、当然といえば当然かもしれません。



 戦争でかなりの損傷を受けたそうですが、立派に修復されていました。それでも
銃跡がまだ残っていて、それについては別編でお伝えするつもりです。



 参詣道から玉陵に入り中門を見る所です。玉陵碑が見えています。パノラマにするのが面倒なので動画にしました。




 こちらは、中門から見たところです。東室・円塔・中室・西室と順番に見えています。



 玉陵は、1501年、尚真(しょうしん)王が尚円(しょうえん)王の遺骨を改葬するために築かれ、第2尚氏王統の陵墓となりました。
 墓室は3つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。全体の造りは、当時の板葺き屋根の宮殿を表わした石造建造物になっています。墓域は2,442㎡.


 たぶんこれもシーサーだと思うのですが、他のものとはだいぶデザインが異なっています。




 カジュマルの木。垂れ下がっているのは「気根」といって徐々に土台や自分の幹に複雑にからみつきそれなりに立派なな姿になっていきます。現地の説明書きには台風などの強風に耐える為とか。

『首里城』

 まあ僕としては初めて沖縄へ来たんですから、とにかく寄るだけは寄ろうというこで来ました。
 『守礼門』は尚王時代(1527~1555)に創建。「守礼之邦」とは礼節を重んずる国という意味だそうな。やっぱり沖縄は日本じゃないのかも・・・。



 綺麗な衣装まとった女の人たちがいます。一緒に記念撮影してくれるそうです。僕達は頼みませんでした(理由は料金が高いから)。



 門の造りも本土とは大分異なっています。



 城全体の構造は本土のものと同じで攻め込みにくいものになっているようです。ただ階段の造りは独特で段毎に傾斜がついています。登るのにはそれほどでもないのですが、降りるのは少し違和感があります。




 正殿は漆(うるし)の塗り直し作業が行われていました。




 沖縄らしい音楽と踊りをLiveで観れて、来てよかったとしみじみ思いました。



「中山世土(ちゅうざんせいど)」琉球は中山が代々治める土地である、という意味なんだそうな。中国の皇帝から贈られた書らしいのですが、もちろんこれはイミテーション、本物は正殿を含めすべて戦争で消失しました。



 寒水川樋川(スンガーヒージャー)。給水は城にとってまさに命です。これらの水施設は生活用水の他に防火用水としても利用されていたといわれています。
 あふれ出た水は地中のみぞを通り、久慶門(きゅうけいもん)の外側の左右から再び地中に入り、向かい側にある円鑑地(えんかんち)に抜けました。円鑑地が満水になるとさらに龍潭(りゅうたん)に注ぎました。





 こちらは「龍樋」。龍の口から湧き水が出ている事から名付けられ、王宮の飲料水として利用されていたそうな。


 石垣の造りも変わっていました。上の両端が少し尖っています。




 個々の石も丁寧に加工されています。それでも石と石が密着していません。これは故意に密着させてないんですねぇ。雨などで石垣の内側に溜まった水を石の隙間から排水します。そうしないと水の圧力で石垣が崩れてしまうんだそうな。


 『龍』は琉球王家のシンボルだそうで、お手洗いの中の蛇口も龍の形にしてありました。



●座喜味城(ざきみじょう)跡

座喜味城(ざきみじょう)は、築城家として名高い護佐丸(ごさまる)が、15世紀初期に築いた城といわれている。 護佐丸は中山王の尚巴志(しょうはし)と伴に、北山や南山と戦い三山統一、いわゆる琉球王国の統一に大いに活躍した武将である。 護佐丸は、当初山田城(やまだぐすく)に居城していたが、滅びた北山の旧勢力を見張る目的で座喜味城を築城したと言われています。




 こちらも門が石造りになっています。本土の城は殆んどが木造でしたが、文化の違いに新鮮さを感じました。



 天守閣の跡?礎の数が少な過ぎる気もしないでもありません。



 沖縄の城は中国の影響をかなり受けているような気がしました。万里の長城も規模はまるで違いますが、こんな雰囲気だと思います。




 ここは何の跡でしょう。基礎構造物が見当たりませんでした。 




 本土の城もそうですが、建屋が無くなっているのは残念です。



『斎場御嶽(セーファウタキ)』

 「斎場御嶽」をなんで「せーふぁうたき」と読むのか分かりません。ここまでくると全く別の言語ですね。



 ここから先は「御門口(うじょうぐち)」といって、とても神聖な場所で世が世なら僕のような下賤の民の立ち入れる場所ではなく、王府関係者のみだったそうな。一般の民はここから奥に向かって拝んだそうです。



 石畳の道が歩き易く出来ています。



 「大庫理(ウフグーイ)」。首里城正殿の2階も大庫理と呼ばれていて、祭祈的な機能を持つ格式の高い場所だそうで、聞得大君のお新下りの儀式での「お名付け(霊威付け)」儀礼が首里城と同じ名前のこの場所でも行われたそうです。
 前面にある磚敷(せんじき)の広間では神女達が聞得大君を祝福し、琉球王国の繁栄を祈ったそうな。



 「寄満(ユインチ)」。寄満とは首里城内にある建物の名前で、国王の為に食事を作る厨房を指すんだそうな。当時ここには国内外からの海幸・山幸が集まりそれが「豊穣の寄り満つる所」と理解されていったらしいです。



 左側(参道から奥)が「シキヨダユルアマガヌビー」、右側(参道側)が「アマダユルアシカヌビー」と言うんだそうな。滴り落ちる水はとても神聖で、[触れてはならぬ]とのお触れ書がありました。



 観光ガイドによく載っている写真です。「三角岩」です。

 この水路の水もやはり神聖なんでしょうねぇ。
 



 三角岩の奥にあるのがここ、「三庫理(サングーイ)」と呼ばれる場所で、金製勾玉などが鎮められていたそうな。やはり、[触れてはならぬ]とのお触れ書が・・・。



 この画像では良く分かりませんが、海の向こう側に久高島(くだかじま)が見えています。久高島はこの地点の東側にあり、太陽の昇る方向です。そんなあの島は、東方楽土(ニライカナイ)へのお通し(遥拝)所として沖縄各地で崇拝されているんだそうな。どうでもいいけど、仏教では西方楽土だったような気がします。

 帰り道、珍しいトカゲと出会いました。お腹の赤いトカゲです。

 

『美ら島・沖縄の旅』は3回程に分けて投稿する予定です。膨大な写真や動画を適当に選択編集しても1回で収めるにはかなり厳しいものがあるからです。さて次回は『●文化編・観光編』です。くれぐれも期待しないでお楽しみにして下さい。
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初飛行機

2010年01月05日 21時38分16秒 | 旅の思い出
 「旅の思いで」として沖縄旅行の記事を書こうと思っているのですが、膨大な写真と動画の整理がなかなか進まず、とりあえずDVDへそれも2層書きのやつへコピーしているところです。

なかなか終わりません。

動画については圧縮をかけないと動画サイトへ投稿できないサイズなので、これまた大変で手間ひまかかります。

そんな訳でもないのですが、飛行機初体験のお話なんぞで茶を濁します。
そうなんです、今まで飛行機には乗ったことがないんですねぇ。今時珍しいかもしれません。

離陸時の加速感には感動しました。昔の車はけっこう加速が良かったのですが、それを思い出しましたねぇ。「ふっふっふっ。思い出すぜぇ、野生の感覚を!」なんてな印象でした。

フラップってこんな風に動くんだぁ!(動画参照)なんて子供みたいに感動しました。僕は今まで上下に折れるように動く物とばかり思ってましたが、前後にスライドするんですねぇ。なるほど、要するに複葉機状態になるわけだ・・・。ちなみに離陸時は二枚羽、着陸時は三枚羽状態でした。



後はまあ飛んでしまえば景色は無いも同然。下は雲ばかりであんまり面白くありません。時々プロジェクターに表示される自機の位置や高度や速度を見て40,000フィート(12,200m位)かあ高いなぁとか、600km以上の速度かぁ速いなぁとか感じてました。

今度乗るときは無線機を持ち込んでエアーバンドでも聞いてみようと思っています。自分の乗ってる飛行機がどんな無線交信をしながら飛んでいるかを知るのも面白そうです。
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袋田の滝と竜神大吊り橋

2009年10月25日 16時21分14秒 | 旅の思い出

 『袋田の滝』は茨城県久慈郡大子町にある巾73m・高さ129m、四段に落下するところから別名「四度の滝」とも呼ばれ、日本三名瀑の一つです。



 観滝するにはトンネルを潜るのですが、通行できるのは歩行者のみ、従って近くの駐車場に車を停めます。お土産屋さんがあってそこの駐車場を利用させてもらいました。お店の人は好意的で気持ち良く停められました。ここはトンネル直近ですが、ここまでの道路は10:00以降通行出来なくなるので注意が必要です。



 トンネルを通るには大人300円がとりあえず必要です。「とりあえず」というのは午前8時以降ということでこれより早く入って早く出れば 無料で滝を観ることも可能です。ただしこの場合8時から運行するエレベーターを利用する新観瀑台は利用できません。お得情報としてはJAFの会員証を提示すれば50名まで250円で通行できます。僕達はもちろん利用しました。



 トンネル内は作業者通行用の趣で、地下の核施設へでも向かって行くような気分です。




 途中に観音像がありました。工事の無事を祈ったのでしょうか。





 このトンネルを利用して観瀑出来るのは3ヶ所あって、こちらともう一箇所とエレベーターを利用する所です。




 こちらはからはこんな風に見えますが今ひとつですねぇ。左端にも観瀑台が見えています。これから行きます。




 後で向かう対岸の景色が見えます。紅葉になると綺麗でしょう。




 トンネルの突き当たりに「お不動さん」がありました。





 携帯でもUPしましたがこちらの方がやや画質は良いかと思います。『袋田』の地名のおこりは、元々はこの辺りは滝があるから「瀧村」と呼ばれていたそうですが、応永年間に滝の近くの月居山(つきおれやま)に城を築いた北酒出助義の二男定義が袋田氏を名乗った為このようになったそうな。


 新設された観瀑台へ向かうにはエレベーターを使います。




 紅葉になればこれはこれで見事だと思う。



 さてエレベーターで再び元の観瀑台へ戻り、橋を渡って対岸へ向かいます。




 対岸にも展望台がありますが、こちらからの眺めはあまり良くありません。




 こんな感じです。 




 対岸の道に赤い鉄製の階段がありそれを上ってさらにその先のコンクリートの階段をも上っていくと、袋田の滝の上部が見えてきます。特にどおってことありません。



 途中に『天狗岩』と呼ばれているらしいものがありました。ここで天狗が滝見をしていて、夜な夜な羽ばたく音がしたそうな。羽音がしたのは確からしく、これはこの辺りに生息するムササビのものらしいです。
   




 さて「袋田の滝」よりさらに奥にある『生瀬滝』です。遠目にしか見えませんがそれだけに神秘的な感じもします。




 竜神吊り大橋って何のために設置されたのか良く判りません。多分、観光目的なんでしょうねぇ。




 橋のたもと駐車場側には竜をデザインした彫刻がありました。




 近くにもう一つかえるに見える岩があります。このかえる何となくぐうたらな感じがして、親近感を覚えてしまいました。
  



 映像では光の反射でよく解かりませんが、所々にアクリル板が敷いてあって、橋直下の景色を覗けます。大丈夫とは知りつつも上を歩けませんでした。動画の途中でグレーチングの下を覗いているおじさん達がいますが、これは中に小銭が投げ入れられていてそれを見ているんですねぇ。僕はまた来たいとは思わないので無駄使いはしませんでした。




 橋を渡りきると『木精の鐘』(もりのかね)という施設がありました。「愛の鐘」・「幸福の鐘」・「希望の鐘」の三種類あって100円で好きな鐘を自動演奏させられます。



 けっこう強力な音量でびっくします。




 記念撮影です。ちなみにこの橋の渡り賃は通常大人300円ですが、JAFの会員証を見せると270円になります。
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文明開化の町です。

2009年10月11日 21時55分03秒 | 旅の思い出


 その昔に何年も住んでいながら、一度も行ったことの無い横浜の街を散策してみました。
 
 『赤レンガ倉庫街』はその一つです。僕が横浜に居た頃はこの辺りは保税地域として一般人の立ち入りは禁止されていました。


 倉庫はとても頑丈に出来ています。


 扉も頑丈です。


 港から輸入貨物を運ぶ貨車の線路も残されていました。


 これは旧税関事務所の遺構です。大正12年9月1日の関東大震災で床や屋根が焼失したため、復旧されないまま埋め戻され荷捌き用地となっていました。竣工時はレンガ造りスレートぶき、3階建てのゴシック様式の建物だったそうな。
 「赤レンガパーク整備」の際に発見され、今はご覧の様に花壇となっています。 



 マリンタワーですが、まっどうでもいいです。この前にある『山下公園』を訪ねました。


 海沿いに長~い公園で、実はここも初めてです。いつも前を車かバイクで通り過ぎるだけでした。



 『氷川丸』ですが・・・、いいやぁ別に観に入らなくったって。


 観光ガイドには必ず載ってる「赤い靴の女の子」。この方向の画像は皆さん見飽きているかと思います。そこで



 真後ろだと芸がないと思って斜め後ろから撮影しました。この女の子は今はベイブリッジを見つめているようです。


『♪散切頭(ザンギリあたま)をたたいて見れば文明開化の音がする。 総髪頭(そうはつあたま)をたたいて見れば王政復古の音がする。 半髪(はんぱつ)頭を叩いてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする』
歌詞は皆さんご存知かと思いますがメロディはどうでしょう。入れる方法を今考えています。



 『港の見える丘公園』直近の駐車場です。ここに車を停めて公園の他に外人墓地・元町・中華街等を散策しました。


<</MARQUEE>>

  『港の見える丘公園』から見える港の風景です。あんまりたいしたことないみたいな気もしなくもないです。




 フランス山地区へ向かう途中にも見晴らし台がありました。ネコが二匹居たのですが、撮影しようとしたら照れて逃げてしまいました。



 旧フランス領事館邸遺構へ向かう途中に古い井戸がありました。明治29年に掘られたものだそうです。ピンボケ画像でスミマセン。


 かなり深い井戸です約30mあるそうな、底が全く見えませんでした。





 風車が見えます。実はこの風車もともとはここではなく、先の古井戸の所にあってそこで水を汲み上げていたんだそうな。画像は載せませんでしたが、その基礎らしきものも残っています。付け加えますがこの風車はイミテーションで、観光用に後から造られました。


 この官邸は昭和5年に建築され昭和22年火災で焼失したと現地案内板には書かれていました。



 「昭和46年に横浜市がフランス政府からこの辺りの土地を購入した。」とあります。まっ領事館ですからそういうことになるのかも。



フランス軍のキャンプは山手186番にあって、3,042坪の敷地に3棟の建物が日本側の費用で造営され、300名以上の陸海軍部隊が横浜に駐屯したそうな。



厨房跡のようですがたいした施設ではなさそうです。




 さて今度はイギリス地区へ向かいます。


 こちらは横浜市イギリス館です。館内の撮影は禁止ではありませんが、許可を取らなければならないので止めました、一応。洋風で落ち着いた大人の雰囲気があったり、ドアのノブの位置が外人さん向けに高かったり。なかなか見どころのある施設で近くにお越しのせつには是非立ち寄ってみてください。無料です。



 館内でピアノの生演奏が行われていたので、チョットだけ盗み撮りしました。



 次に斜向かいある『外人墓地』を訪ねました。僕が横浜にいたころは関係者以外立ち入り禁止でした。一応建前は無料ですが係りの人がいて「保存整備の為」と称して「2百円くらい払っていただけたら有難い。」とのことでした。「嫌じゃ~っ!」と言ってみたらどうなるか興味があったのですが、気の小さい僕には出来ずに素直に払いました。



 中は荒れてるとまではいきませんがそんなに綺麗でもない。



 人様の墓石をあんまりバシバシ撮影するのも気が引けて、そんなに画像はありません。記念に少しだけです。



 日本でも共同墓地など宗派に関係なく埋葬されていますがこちらもそうです。過激なくらいに入り乱れていました。
 墓石に彫られたキリスト教の十字架はまあ解るとして、同じ敷地内になんとユダヤ教の彫りのある墓石もありかなり意外でした。
ロシア正教についてはよく知りませんがやはりキリスト教と対立してなかったっけ?他にもフリーメーソンのマークのある墓石もありました。けっこう会員の方っていらっしゃるんですねぇ。何となく訳も無く怖い気がします。




 『外人墓地』の脇にある坂道を下って久しぶりの『元町』へ向かうことにしました。「貝殻坂」の名があるのは、近くで縄文時代の貝塚が発見されたせいかもしれません。僕個人の勘です。



 坂の途中に『元町公園』がありました。ここはかつて異人館があったそうな。址を見ただけでかなり瀟洒な造りだったようです。羨ましい!


 現在プールになっているところを左手に見ながら階段をあがると、建築物の基礎が遺構として残っています。



 耐震補強はされていたそうですが、関東大震災時の地震エネルギーには耐えられなかったようです。嗚呼もったいない・もったいない。
 この辺りは、かつて外国人居留地の中心地で、多くの外国人住宅のほか、学校・病院・劇場・教会などの西洋建築が建ち並んで『異人のまち』が造られていたそうな。



さらに『額 坂』を下って元町商店街に向かいます。ちなみに名前の由来については分かりません。






 なんとお洒落になってるーーーっ!!
そんな感想です。昔来た時とだいぶ違いました。路面の整備もなかったし、全体にもう少し雑然としていたような気がします。



 かばん屋さんでしょうか、派手ですねぇ。でもいい感じです。「新ハマトラ」が出てくるでしょうか。えっ「ハマトラ」とか「ハマカジ」って知らないんですか!

悲しいです。



 『石川町』の駅は少し明るくなったかなという印象ですが、大きく変わった感はありませんでした。

さてこの辺りできびすを返して『中華街』へ向かいます。




 ここへは何回も来てますが、いつ見ても派手です。


 ここは『横濱媽祖廟(よこはままそびょう)』です。10億円で土地を買って8億円でお社を建てたそうな。500円で5本お線香を買って①番から⑤番までの香炉に立てます。それぞれの香炉には意味があるのですが忘れました。その後廟内に入って物凄く簡単なご祈祷があります。
体験してみるのもいいかもしれません。
 日本では護摩木ですが中国では 金紙のお供えをするそうな、お供えといっても護摩木と同じく燃やします自分で。カメラのバッテリー不足で撮影できませんでしたが、香炉で燃やしている信者の方がいました。




 駐車場へ戻る途中『アメリカ山公園』に寄りました。ここは「みなとみらい線・元町中華街駅」の真上にあります。正直たいした公園ではありませんでした。

この後車で昔よく走った道路などなどを見てみたのですが、だいぶ変わっていて便利になっていました。僕が住んでいた頃は環状線なんて無かったです。また来てみたいです。
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秋の陸奥ぶらり旅

2009年09月27日 17時37分54秒 | 旅の思い出
 2009年9月26日、週末の休みを利用して福島県内を旅してきました。

『大内宿』


 南会津の山間部にある「大内宿」まで公共機関を利用して来るのはかなり大変なようです。整備された駐車場(有料)もあるので、車で来るほうが良いと思います。なお、左画像をクリックすると、バスの時刻表が拡大されます。




 とりあえず記念撮影。この時は曇り空でしたが、まあ雨が降ってないだけ良しとしましょう。



 路面は綺麗に整備されていますが、アスファルト等で舗装されていません。凸凹道ならもっとゴキゲンなですが、これでもかなり○です!



 神社の鳥居も木材が使われていました。




 約500m続く一本道の両側には茅葺き屋根の古民家が連なり、食事処やお土産店などで賑わっています。



 一本道の奥に茶屋があり、その左手に観音堂へと続く階段があります。登って小道を左へ進むと・・・。




 ここで町並みの全体が見渡せます。観光ガイド等には必ず載っている風景です。ちなみにこの画像はクリックすると拡大します。





 Y君はご機嫌で散策です。




 お店の前の水道でラムネやきゅうりが冷やされていました。きゅうりは一本50円でお店の中で地場産の各種味噌をつけて食べさせてもらえます。けっこう美味しかったです。




 こんなのもありました。




 これもまた美味!『しんごろう』といって、うるち米を半つきにして握り、串に刺して「じゅうねん味噌」を塗って炭火で焼きます。


 お店の前で「チョーカッコいいおじさん」が携帯でモブログをやっていました。





 すこし遅い朝食ですがここで蕎麦を頂く事にしました。TVなどでも有名な『三澤屋』さんです。




 お店の中はこのように古風で好感が持てます。空いてるように見えますが開店前だからで、店の前に暖簾が下がって開店の合図がでるとお客さんで一気に混雑しました。



 囲炉裏で岩魚を焼いています。もちろん後に頂きました。


 お店で食事にするのに、名前を告げ番号札をもらいます。番号は必ずしも順番どおりではありません、呼ばれたら座敷へあがります。僕達は6番目に入店したので6番目に呼ばれました。




 「お品書き」が扇子に墨による手書きでした。あまり上手くない字にまた何とも言えない趣を感じます。




注文したのはTVでも有名な『高遠そば』(1,050円)です。冷たいお蕎麦でだし汁とおろし大根+鰹節が良く相っていました。



 一本ネギで食べますが普通にお箸で食べてもOKです。ちなみにネギのお代わりは無いと聞いています。


 そこそこの広さの駐車場があります。有料で300円だったかと思いますが500円だったかもしれません、忘れてしまいました。



『塔のへつり』

 「塔のへつり」は「塔の岪」と書くんだそうな。。「へつり」とは地元の方言で険しい崖のことだそうで、なるほどそれなりに見ごたえがあります。



 かなり侵食されていて永い年月を感じます。





 何か積み重ねてあります。




 小石の他に小銭も・・・。デフレの時代はお金の価値が上がっていきます、もったいない気がします。



 階段を登ると『虚空蔵菩薩』が祭られていました。



 対岸のお土産屋の前の道から「へつり」のところに、何やら奇妙な構造物が見えるのにY君が気付きました。何でしょう?


 蜂の巣です!それもかなりデカイ!襲われないようにしましょう。


 こちらの駐車場の料金は300円です。前払いで領収証がお土産屋さんの割引券にもなっています。


『鶴ヶ城』
 
 お城の中は撮影禁止場所が多くて困りました。



 天守閣最上階から眺めです。やっぱり気持ちいいですねぇ。ちなみにここは撮影可でした。



 庭園も見学しました。天守閣の入場料500円を払えばこちらも入園可です。中で別料金で抹茶と菓子を頂けます、こちらも500円だったと思う。



 何となくくつろいだ感覚になるのは、やはり日本人だからでしょうか。

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春爛漫の旅

2009年04月12日 17時02分51秒 | 旅の思い出
会社の旅行のまとめ記事を書こうとしているのですがなかなか進みません、困ったものです。どうせなら動画もブログに貼り付けようと、今UPしているところですがなかなか完了しません。まあいいかぁ・・・

都内某所を朝8に出立して最初に訪れたのがここ、「東照宮」の手前にある『輪王寺』です。案内の人が一生懸命に説明してくれていたのですが、何を仰っていたのか完璧に忘れました。お堂の中ではお坊さんが鬼門封じの御札(木製で円形)の売り込みに懸命でした。



『東照宮』へは何回くらい来たでしょう。



五重塔。一応目立つので載せておきました。


 『見猿・言わ猿・聞か猿』有名ですね。俗説では猿は馬を守る動物だそうで、この彫刻は馬屋にあってここの馬を守っています。

 こちらは猿が守る馬屋の前の建てや屋にある『象』の彫刻です。まあ象なんて見たことも無い人が彫ったんでから仕方ありません。


 を浴びて眠る猫。日光という地名から猫を連想した作者の左甚五郎という人は素晴らしい人です。




『眠り猫』の下を潜り、奥の院へと続く階段を登ります。



立派な門がありました。「鋳抜門(いぬきもん)」と言うんだそうな。重要文化財です。



「叶杉」何でも願いを叶えてくれるそうな!僕は当然「宝くじで3億円当たりますように!」です。それしかないのかと自分でも情けないです。



「奥宮御宝塔」。御祭神家康公の神櫃を納めた宝塔だそうな。



御宝塔の前には鶴と唐獅子が・・・。何を意味するかは解りません。



『鳴竜』のある御殿です。昔は参拝客一人一人拍手を打たせてくれましたが、今日ではお坊さんが代表で拍子木を打って竜の鳴き声を聞かせています。


 バスに戻る途中「見猿・言わ猿・聞か猿」の馬屋から白馬が出てきました。



 バスの停めてあるところへ戻る時、ちょうどお昼で輪王寺が鐘突きをしていました。




参拝の後はしばらくバスに乗って今夜の宿「八幡屋」さんに来ました。なかなか立派な旅館です。


 窓からの景色は良くありません。隣は小学校で、夜中に体育館でママさんバレーが行われていました。



さて夜に行われた宴会の話は割愛させて頂いて、いきなり旅館の朝の情景です。吹き抜けの下に設置しれある舞台で琴の演奏がありました。とりあえず一部ですが聴いてみてください。
      



ラウンジで朝のコーヒーを頂きながら鑑賞させてもらいました。


ここ八幡屋さんでは団体客が帰るとき、総出でお見送りしてくれます。
こちらこそ有難うございました。


予定外だったのですが「三春滝桜」を見に行きました。大勢の見物客も訪れていて賑やかでした。

 モブログでもお伝えしましたが花はまさ四分か五分咲きといったところでした。来週くらい満開かも・・・。



さて次に訪れたのは『あぶくま鍾乳洞』です。入り口から少し階段を下ります。


中は幻想的です。


奥へ入ると少し広くなっているところがあって、皆さん立ち止まって眺めていました。
光の演出が見事な所があったので動画で紹介させて頂きます。
      





水族館風レストラン「メヒコ」昼食です。まあ確かに珍しいかもしれません。


巨大な淡水魚が泳いでいました。「ピラニア」だ、と言う人がいましたが、僕には判りません。

この後美術館にも寄りましたが、撮影禁止の為画像がありません。ついでですから記事を書くのもやめました。まあ会社の旅行の話はこれくらいにします。個人的には今年この後もあちこち行くかもしれません。そのときはまたこのブログでお伝えします。
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野外で鍋パーティ

2008年11月10日 00時21分15秒 | 旅の思い出


 うわー!なんだか楽しそうだね!プレ爺、この人達は何やってるの?

 うむ。この人達はじゃな、家の外で鍋パーティーをやっておるのじゃ。

 家の外でって、寒くないのかなぁ。もうすぐ冬だよ。

 うむ。そりゃあ寒いじゃろう。立冬も過ぎておるからのぉ。チョーカッコイイNFWさんの情報じゃと、関越道の辺りで-1℃だったそうじゃ。

 爺、ウソは良くないよ。NFWがチョーカッコイイなんて。

 喝~っ!!余計な事は言わんでよい!ところで外といってもただの庭先じゃないぞ。何処だと思う!

 知らないよ。さっき関越道って言ってたということは、新潟あたり?

 うむ。少し違うの。群馬県じゃ。赤城山の中の小沼と言うところの沼畔でやったそうじゃ。写真があるそうじゃ、見てみい。


<</MARQUEE>>


 うわーっ!寒そうだね。でもさっきの動画では楽しそうだったよ。

 うむっ。そうなんじゃ。鍋は暖かい部屋でやるのもいいんじゃが、このように寒い屋外でやるのも、また格別なんじゃのお。



 どうじゃ。このような大自然の中での鍋パーティもいいもんじゃろ。ちなみに材料は下記のとおりじゃ。

材 料
すいとん小麦粉をお酒と調味料で練ったもの。
野  菜白菜を中心にたっぷりと。
鶏  肉適当な大きさに切ったもの。もも肉がベター。
練り製品何でもテキトーに!
鍋のタレ市販でお好みの製品。



 うわーっ!いいなあ!ねえ爺、今度僕達もやろうよ!

 うむ。やろうのう。楽しみじゃ!


 
 このブログ記事は、プレスブログの『我こそスターブログ』に参加しています。
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「この夏の思い出、教えてください」

2008年09月07日 20時23分48秒 | 旅の思い出

 今週のgooブログトラックバック練習版のお題は「この夏の思い出、教えてください」です。この夏の思い出といえば僕にとっては『滋賀県旅行』になるのでしょうが、そのなかで最も印象深かった事をお話します。


 以前このブログにも書いた事があると思いますが、僕が子どもの頃滋賀県愛知郡愛知川町(現:愛荘町)という所で暮らしていました。今回の旅行で泊まった宿がこの町の小学校のすぐ傍で、立地的にも思い出深い場所でした。一日の観光を終え宿で一風呂浴びた後、この宿のすぐ傍の『F』という居酒屋で飲んでいた時の事です。客は僕一人で店はご主人と奥さんできりもみしていました。

 「この鳥鍋かなりいけますねぇ。」などとおだてつつご主人と話をしていると、通っていた小学校が僕と一緒だったようです。「へぇ~、それじゃM先生のこと覚えてます?やたら児童を引っ叩いた先生。」するとご主人「ええ、覚えてます。いかついた、怖い顔をしてました。いま、町で議員やってます。」「なんと!出世しましたねぇ(何のこっちゃ)。引っ叩いたあと児童の流す涙を見て『真珠のような涙が・・・』が口癖だったあの先生がねぇ。」当時は先生が児童を叩いたからと言っても何ら問題にはなりませんでした。悪い事をするから叩かれるのであって、僕のような良い子は叩かれた事はありません。いえ本当に・・・・。

 面白い情報を得たということで宿に帰って早速ネットで町のHPを検索、ありました議員のなかにM先生の名前が。それにしてもこの町のHPは立派です。僕がいつも僕の町で議員に立候補する人に要望しているけど完全に無視されている「全ての議案について、誰が賛成し誰が反対し誰が棄権したか、個人名を挙げて公表して欲しい。」ということについて、議会をライブまたはオンデマンドで配信することで実現していることです。M先生の講演(授業?)も、ん十年ぶりに聞けました。元教師らしいリテラシーについての主張は全く同感で、さすがは僕の元担任です。 ビデオを見たい方はこちらから→愛荘町議会動画配信HP

 閑話休題。居酒屋のご主人とはいろいろとお話をさせて頂きました。小学校が木造だった頃、戦前に建築された校舎が残っていたとか、体育館代わりの講堂があって正面には奉安所(天皇皇后両陛下の御真影を格納する所。扉があって特別な時にしか御真影は拝めない。)らしいのがあったとか、子どもの頃の思い出です。話す言葉はもちろんこの地域の方言で、それがまた僕の心に気持ち良く溶け込んでいきました。


 

ふるさとの訛(なまり)なつかし

停車場(ていしやば)の人ごみの中に

そを聴(き)きにゆく


         石川啄木
          『一握の砂』より
  

 学生のころは「うぜぇぇ!」と思っていた詩も、この歳になると何故か心に染みます。
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下天の夢と幻と・・・ 『安土城跡』です。

2008年08月17日 07時08分10秒 | 旅の思い出

 織田信長が三年の歳月をかけて築城した安土城。その賢覧豪華な様は当時ヨーロッパまで伝えられました。



 安土城は五層地下一階地上六階・高さ46mだったらしい。この模型はJR琵琶湖線「安土」駅近くの「安土町城郭資料館」のものです。





 カメラの動画機能を使って、安土城の模型の周りを回ってみました。




 この模型は2分割される構造になっていて、中の構造も見ることが出来ます。上で覘いているのは信長様?





 安土山に登ってみました。一応拝観料というのがあって大人500円・小人(小・中学生)100円・幼児無料となっています。開山時間は午前9時から午後5時までです。



大手道を登り始めてすぐ左手に、豊臣秀吉邸跡があります。





秀吉邸跡の向かい大手道から右側には伝前田利家邸の跡があるのですが、なんと当時の上下水道の跡が見つかっていました。両側を石垣で挟まれ水路にはめられたこの施設は、上下二段からなるもので、上段の箱樋で水をいったん拾い、さらに下段の一本造りの樋を通して水を屋外に排水する構造であったそうな。



 石仏が大手道の石材として使われていました。普通、城普請に使用する石材は、近郊の山々から採取するものですが、ここでは石仏や墓石等も含まれていたそうです。





 うっそうとした石階段を登っていきます。階段は頂上の天主閣跡まで全部で405段あるそうな。まあ階段になってるだけ「岳人」にしてみれば楽で、おかげさまで息を切らすことはなかったです。





 夏の安土山大手道の雰囲気をお楽しみください。




「黒金門」跡
 何だか周りの石垣の造りがここだけ異なっているようです。かなり大きめの石が使われています。この画像右手には広い階段があり、撮影場所では狭くなっています。是より先は城内の中核部である本丸,伝二の丸,伝名坂邸(伝三の丸)への西側から入る要所です。ここはいわゆる折れ虎口の構造で、全体として2段構えでした。※現地説明書きを要約。




「仏足石」(室町時代中期)
 この仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に、築城当時単なる石材として集められ石垣に使われていたようで、昭和の初期登山道整備のときこの付近の崩れた石垣の中から発見されました。
 仏足石はお釈迦さまの足跡を表現したもので、古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされて居ました。
 我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代・国宝)のもとして有名ですが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。
                  ※現地説明書きをそのままコピー




 織田信長公の廟です。重臣羽柴秀吉は天正十一年一月三法師に年賀を表すべく登城し、翌二月信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬してここを本廟としたそうです。




 天主閣へと続く階段です。




 背丈ほどの高さの石垣に囲まれた東西・南北それぞれ約28mの台地。今は基礎石が1.2mおきに整然と並ぶだけであるが、この部分は天主の穴蔵(地階の部分)にあたり、その上にさらに大きな天主がそびえていた。五層七階(地上6階地下1階)の天主はイエズス会の宣教師ルイス・フォロイスによればヨーロッパにもあるとは思えないほどの壮大さであったといい、高さ33mの木造高層建築は当時、当時我が国で初めてのものであった。
                 ※見寺パンフレットよりそのままコピー




 天主閣跡から琵琶湖を眺めます。明治頃まではこの山直下まで湖であったようで、それが埋め立てられ農地となりました。個人的には残念です。




 天主の石垣にこのような物が・・・。ひょっとして墓石?今更驚きませんけど。




 安土城の石垣は、全体的には随分と荒っぽい積み方だなあ、という印象でした。




 「三重塔」です。
山の中腹に見える三重塔は三間三重の塔で屋根は本瓦葺き。室町時代の建物で棟柱に、享徳三年(1454)建立、天文二十四年(1555)修理の墨書きがある。天正三年~四年に信長が甲賀の長寿寺(甲賀市石部町)から移建したものとされている。
               ※見寺パンフレットよりそのままコピー




 塔の近くの木の根の張り方が見事だったので、写真に撮りました。




「二王門(桜門)」です。
棟木に「元亀二年(1571)七月甲賀武士山中俊好建立」とある。屋根は入母屋造り、本瓦葺き。門内に安置されている金剛力士像も門同様国指定重要文化財で頭部の内側に応仁元年(1467)因幡院朝作の造像名が残っており、信長が天正年間に甲賀から移した。
                 ※見寺パンフレットよりそのままコピー




 壮大な城であったことを想像させる石垣群です。焼失してしまったのは返す返すも残念。現存していれば世界遺産クラスの建造物であったはずです。




 説明書きによると信長に一番似ている「絵」だそうな。                       











 
思へばこの世は常の住み家にあらず。
         
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
     
きんこくに花を詠じ、栄花は先つて無常の風に誘はるる。

南楼の月を弄ぶ輩も月に先つて有為の雲にかくれり。
  
人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
  
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
       
                            『敦盛』


おわりに・・・
織田信長が天下統一を目標に天正四年(1576)一月十七日、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据え、標高199mの安土山に築城させた平山城。
岐阜城よりも京に近い利便性があり、北陸・東海の要所でした。
現在は四方とも干拓により陸地ですが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ南方のみが開けた地形でした。
そのわずか三年後天正七年五月、我が国で初めて天守閣(天主閣)をもつ安土城が一応の完成をみせました。
ところが天主完成から三年目の天正十年(1582)六月二日未明、中国毛利へ出陣途中の明智光秀の謀反により信長は京都・本能寺で自刃(四十九歳)。混乱の中六月十五日、天主などを焼失、一夜のうちに落城しました。
原因は織田信雄が誤って焼き払ったという説や敗走する明智光秀軍による放火という説があります。

       ◎「近江の旅」シリーズまだネタは有るけど一応終わります。
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