思考の踏み込み

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

龍3

2013-11-27 09:04:56 | 
龍と水の関係性というより、龍の正体は水そのものなのではないか?

およそ水より強いものはない、とはるか昔に老子は看破している。

例えば荒れ狂い、蛇行する大河などは龍そのもののように見えたであろう。



そして上昇気流によって (というより上昇気流自体水が作る) 上空へと舞い上がる。
その上で生じる先の雷さえ、水が雲を作ることで結局は生まれるわけだ。



人間に限らず、あらゆる生物にとって、水が生命の源である以上、何故か我々が龍に圧倒的な生命力を感じてしまうのもうなずける。

その姿が力強く、ときに恐ろしく、生命力に満ちているように描かれ続けてきたのも、また一方でその鋭いまなざしがどこかやさしげに見えるのも、龍の正体が "水" だからではないだろうか?


(少なくとも、世界各地の龍信仰の根拠をレプティリアンというSF説にもとめるよりは、こちらの方が腑に落ちやすいと思う。)


だとすれば "架空の" 生物の中でも別格なこともわかる気がする。

いや、そうなるとすでに架空のモノではない。
"龍" とは実在のモノ、あるいは現象なのだ。自然界から生物を見守ってくれている一種の化身のようなものだろうか。

その姿はあくまでも力強く、優しく、神々しく、美しい ー 。





陳容 九龍図


龍2

2013-11-27 08:41:14 | 
まず思うことは龍の蛇に似ていることであろう。

古代文明の多くにおいて蛇はその蠕動運動の力強さから、神聖な生物とされた。



海に千年、山に千年生きた蛇が龍になるともいわれる。
龍の原型は蛇なのだろうか?

だとすれば何故に天空を飛翔するのか?
原型が蛇ならばヤマタノオロチのように蛇のままでよかったのではないだろうか。




一方では稲妻の姿をかたちどったモノともいわれる。
この恐るべき自然現象は古代から今なお、人間にとっては畏れと同時に神々しいまでの美しさを抱かせる。

多くの人々が龍に抱くイメージを十分に満たす要素があり、龍の原型としてはありそうな話に思える。



もう一つ、龍が龍であるべき条件として重要なのが水である。
龍の生息地のことをいったが、我々のイメージの中で常に龍のいるべき場所は雲の中であったり霞の中だったり大きな滝の飛沫の中だったりする。

これは多湿なアジア人の感覚にすぎないのだろうか?
「水神、龍神」とくくられるほど龍は水と不可分な存在に思える。
たとえ、砂漠の民であっても人間自体が水なしで生きられない以上、龍と水の関係性は変わらないのではないだろうか。



2013-11-27 08:26:44 | 
架空の生物とされるものは世界各地に、様々にみうけられる。

人間が太陽と共に暮らし、暗闇に怯えながら生きていた時代 (ほんの最近までそうだったが) 人々は自然に対してあまりに無力であり、その中にあって畏れや不安、救いを求める心、そうしたものは想像力を刺激し、架空の生物を生み出した。

ここでいうそれらのモノ達は、霊や物の怪、妖怪なども含まれる。
またそれらの区分は明確にできるものではないが、棲み分けの違いはみてとれる。



ただ、多くのものはその姿の意匠 ー ここではあくまで意匠によって生み出されたとしてみると ー 多くは我々の理解の範疇を逸脱はしていない。

つまり現実の生物の合成であったり、変形であったり、誇張された伝承や文献を図案化したものであったりする。

だが、これら異形のモノ達の中にあって明らかに別格の存在がいる ー


"龍"である。




西洋にあってはドラゴンと称されるこの存在は、仮に生息域を世界地図上で作るとしたら、かなり広範囲に分布しているのではないだろうか?

洋の東西を問わず、人間はこの龍に対して特別な印象を得るようである。


謙信3

2013-11-26 08:35:25 | 
謙信個人にもう少し迫ってみるとどうであろうか。

何故かれは生涯不犯をかけてまで、毘沙門天に戦勝を誓い、そして実際いかにして勝利を掴みつづけたのか。



司馬遼太郎は謙信は戦を芸術のように捉えていた、といっている。
たしかに謙信は一武将としてみるより、芸術家としてみた方がしっくりくる部分もある。

だが澄んだ世界観を持つ芸術家にありがちな世間性の無さというものはない。むしろ強い経済力を持ち(交易とそのルートの確保)、戦のときには同盟などの下準備を十分におこなっている。

それでいて例えば武田信玄のような俗っぽさは微塵も感じさせないのだから、いよいよ不可解な存在である。

もし謙信がせめて女好きであったとか、酒が弱いとか、あの武将にだけは勝てなかったとかいった話が一つでもあればまだ近づくことができるのだが…むしろいっそ、俗説の一つにあるように謙信が女性であったなら、ジャンヌダルクのように神懸かった存在として理解しやすいかもしれない。



いずれにしても謙信個人の成立に関しては当時の過酷な謙信を取り巻く環境があったことは間違いない。それは資料を徹底して調べればある程度までは近づけるだろう。

となると、残るのは芸術の題材としての謙信である。
いうならば、駿河湾から見る富士山のように、定型化されつくし、のび切った美というか、よほどなにかきらめく一点を与えなければ難しいだろう。

といって芸術の対象にはなり得ないかというとそんなことはなく、謙信の一歩、一挙手が即芸術のような所があるといっても過言ではない。
世の芸術家の方々に期待したい。


謙信2

2013-11-25 08:49:35 | 
だが今ひとつ、納得できないものがある。何故だろうか?

とにかく謙信は全てにおいて完璧である。"戦が強い"といっても、ただ強いのではなく、神懸かり的に強いのである。

それは長篠で武田軍を壊滅させた、織田の鉄砲軍団を武装の上では明らかに劣る槍と馬で一蹴、圧倒していることでも明らかである。

そして小説の主人公でもこうはいかないというほどに義に厚く、助けを求められれば快諾し、敵に塩を送るという言葉の元になるほど正々堂々と戦い、正義を貫く。

その上酒豪で詩も一級、とくれば、三流小説家でもここまでのヒーローは生み出せないだろう。

謙信に感じる一点の不快感というか、どこか消化しきれない感覚はこの全て出来すぎているというところにあるのかもしれない。

実際、謙信を描いた映画や小説、絵画の類は極めて多いがやはりどこか締まらない。
描ききれていない、というよりむしろ描き過ぎなのであろう。

まるで寿司の上に、デミグラスソースをかけ、そのうえからトリュフを散らすようなものだ。

数少ない成功例は頼山陽が漢詩で描いた "不識庵 機山を撃つの図に題す" だろうか。

"鞭聲粛々夜河を過る
暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨十年一剣を磨き
流星光底長蛇を逸すー "


他にはあまり思い浮かばない。
あるいは芭蕉なら…芭蕉ならば謙信の鋭く澄んだ美しさを描ききれたのではないかと思ったりもする。
(残念ながら芭蕉における"兵ーツワモノ"とは全て源平時代の武将である)