思考の踏み込み

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線の美5

2013-11-23 20:32:40 | 
動くモノは過ぎ去るー

本来とらえ難き、滅びゆくモノを形としてとらえ、永遠たらしむる。

線の表現こそ、芸術の根元にして本質である。

ホタルの光軌


線がこうしてもともと儚きモノの表現であるならば、その儚さ故、多くの場合、女性的な印象を抱かせるのもある意味自然なことといえる。

だからといって線の本質は性エネルギーが単純に昇華した様なものでは決してない。

それは例えば王羲之の書の如くに ー

だがしかし、王羲之の書の持つ人智を超えた美しい姿、一線一画の凝縮感、淀むことのない力強いリズム、、
これらはどんなに言葉をつらねても表現しうるものではない。



人の手による線描において、彼の書より美しいものを自分は知らない ー






線の美4

2013-11-23 20:13:14 | 
以上のことはしかし、ここでの本題とは質において異なる。
あくまで閑話としての話で、美術と輪郭線の関係は人間の視覚と認識との構造の問題に重点を置くべきといえる。

この宇宙における形あるものの本質というテーマまで広げれば輪郭線とここでの線の主題と繋がるが、それは今はいい。
ここでの主題は線の持つ美しさの本質である。

さて、線の美しさは自然界や形の無いモノにも見出せる。


山の丘陵、水の流れ、雲の形、あるいはホタルの光の移ろい、スケート選手が描く氷上の軌道、武道の達人たちの美しくムダの無い動きの線、、、。






形の無いモノといったが、そうしたモノ達もある点が移動し、線になっているという意味でやはり、一種の線の表現といえる。

となると、線とは"動いたモノである"と明確に定義してもいいかもしれない。
つまり、線の美しさとは動きの美しさの事であり、比率の問題さえ、その空間内における移動すべき最良の位置の追求であることがわかる。

従ってそこに機能性が要求されるのは当然であるし、直線よりしなやかな曲線の方が美しいのも当然のことといえよう。

こうして考えると、動きの美を追求した茶道の世界がモノや人の位置をミリ単位でやかましくいう理由がよく理解できる。



線の美3

2013-11-23 19:19:07 | 
線が長さを有する以上、その周辺との比率の問題が当然うまれる。
これは重力の影響下で生存してきた我々が現重力下において永い年月をかけて身につけた生存のための感覚である。
いわゆる"黄金比" や "白銀比" が世界の主要な建築物で用いられていたり、自然界の構造から見出せるのはそのためである。



ただ、媒体 ー 映画や写真といった、ある枠内での構図観を刷り込まれた現代人とそれ以前の人々ではその比率感覚は多少異なる、ということは中々気づきにくい。

時代ごとに美人の定義や求められる身体美が変わるのはこの故であろう。
少なくとも以前の人々は現代人ほど、顔の作りのわずかな違いや身体の差でコンプレックスを抱えたりするような愚かなことは少なかっただろう。これは余談。





さて、岡倉天心という明治期の人物がいる。
彼は時代の狭間にあって、日本人としての新しい美を模索した人物だが、あくまで伝統美の上に立ち新しいモノを創り出そうと闘った。



それは現代アートと呼ばれるモノに携わる者達が、はなから伝統から逃げている事とはまったく違い(本来、永く重すぎるきらいのあるこの国の伝統だが、そこから逃げては真の美はうまれないだろう)真正面から取り組んだという意味で、壮絶な"挑戦"であった。

その天心の試みの一つに線を描かない、というモノがある。
美術界でいわゆる朦朧体と呼ばれ、当時は"怪画"とさえいわれ、伝統世界から罵倒された。



今日では一定の評価を得ているようだが、天心の目指した完成系ではないのではないか。
岡倉天心は志半ばで孤独な死を迎えたが、その後彼の志を継ぐ、あるいは同じ場所で闘いを挑んだ美術家がどれほどいるだろうか?