思考の踏み込み

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新しさ3

2013-11-28 19:32:02 | 
もはや芸術家の役割は何が芸術かを提示するだけだ、ともっともらしい事をいって平気で便器を展覧会に出す様な輩や、既存の価値観を破壊するだけでそれが新しさだ、という輩とは到達している次元が違う。



芸術において破壊はときに勇気ある行為であるがその後に創造がなければ、新しさにはなりえない。

こうして考えてくると、芸術家の役割とは、魂が求めるところの "自由" というものをいかに満たさせるか、という点にあるといえるのではないだろうか。

そこには当然、天才的なひらめきや、或いは長い自己鍛錬や苦しみの先に突き抜けた感覚が必要になってくる。

または子供はみな芸術家だというのも理解できる。
即ち、無垢なるものの力がそこにはあり、それははじめから既存の価値観の殻などなく、魂の欲求を満たす要素を内包しているからである。

少しだけ、芸術というものの本質がわかってきた気がする。

かつて千利休という人物は、こうした事を分かった上で意識的に "新しさ" を生み出そうとした日本では数少ない一人ではないだろうか。



茶道といえば古いもの、形式的なもの、とこんにちでは考えられ、 "新しさ" や "自由" とは真逆のもののように思われているが、利休がその生を全うさせていたら、もっと違う伝わり方をしたのではないだろうか?

我が国には優れた表現者としての芸術家は多い。
だが真に、明確な意識をもって新しさを生み出そうと戦い、かつ勝ち取った存在は芸術の世界では利休、芭蕉、あとは観阿弥世阿弥くらいではないだろうか ー 。

新しさ2

2013-11-28 16:12:38 | 
世の中には保守的な人間というものがいるが、これも丁寧にみれば未知のモノに対する警戒心の強さの表現というだけで、新しいモノに対する感受性と反応という点では、本質的に変わりはない。

この新しさに対する感覚は、極めて本能的なもののように思える。
それも肉体的なものより、魂の発する本能なのではないか?

動物の世界では新しいものなどは必要がない。
むしろそれは危険をはらんでいる可能性が強く、遠ざけるべきものであろう。



ではなぜ、人間だけがそれを求めるのか?
それはやはり前途した様に無意識レベルで縛られているものから自由になりたい、という本能 ー 魂の欲求だろう。

"自由" ー なんていい言葉だろうか。

これは前近代において民衆が勝ち取ったもの、あるいは勝ち取ったと勘違いするよう洗脳されているものを指しているのではない。

アメリカがお題目の様に掲げて乱用している"自由"とも違う。

戦後日本人が認識している無責任と混同された"自由"でももちろんない。

"新しさ"がもたらしてくれる "自由" のことである。
それは芸術の本質でさえある。

例えば芭蕉の句。

なかでも絶唱とされるものは、三百年の時を経てなお、新しさと鋭さをもって我々を概念の檻から自由にしてくれる。

立石寺



あるいはモーツァルト幻想曲ニ短調。

この曲にこそモーツァルトが天才である証明を感じる。強烈な休符はどんな美しい和音よりも強く響く。


新しさ

2013-11-28 15:34:51 | 
人は何故、新しいモノを求めるのだろうか?
様々な分野で様々な方向の新しいものが生まれては消えて行く。

特に東京という街に暮らしているとそれはより強く感じられる。



例えば新しい商品、新しい言葉、新しい価値観、新しい思想、新しい音楽、、

これは例えば電通の戦略十訓にみえる
"使わせろ、捨てさせろ、無駄遣いさせろ"というプロバガンダに代表される大量消費社会の構造という影響もあるだろうが、もっとそれ以前の人間の本質の部分をテーマにしてみたい。

何故新しいモノを求めるのか?

それが人間のエネルギーそのものだ。
といってしまえばそれまでなのだが、それでは身も蓋もない。

新しいモノを生み出そうとする者には突き詰めると、そこに一種の自己主張の形を認められる。
これは理解できる。
人の行動原理の根本はどんなものであれ、根源的には自己主張の変形だからだ。

だが、そこで生まれた新しいモノを発見した者が感じる感覚はどう捉えたらよいだろうか?

その前に新しさとはそもそも何なのか?
形だけを変えて"新しさのために"新しさをつくろうとすればそれは、比較的難しいことではないかもしれない。

しかし、そうしたモノの寿命は短く、視覚や感覚が慣れてしまえばそれまでである。

そうではなくて、真に新しいモノとはいつまでも新しさを失わないモノである。
それはどういうことか ー

おそらく、人が新しいと感じるモノにはそれまでの概念にない要素が含まれていることが考えられる。

それに触れたとき、人は日々無意識にとらわれている概念の殻から解放され自由になった様な「快」を感じる。



人間が新しさを求める理由はこの辺りにあって単に新鮮さ、という時間的な新しさを求めているのとは違うようである。