思考の踏み込み

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ことば2

2013-11-18 12:10:35 | 日記
しかし、それはコミュニケーションの段階の話である。
ここで問題にしていることは本質に迫る手段としての言葉である。

言語というものが常に不正確であるということを忘れ、既存の言語だけで物事を表現してわかったような気になっていることが世の中には実に多い。

このこのは実は思考の停止を意味している。
より物事の本質に迫ろうと鋭く踏み込むには、新しい表現というものはいくらでも生まれてくるべきはずではないだろうか。
「科学」がある種の限界を常に内包しているのはそこで使用される言語が"数字"だからである。
"数字"は極めて正確なようでいて実際のところは余分な所を全て削ぎ落としてしまった荒いモノであるということになかなか気づきにくい。

言語とその対象となる事象の関連性ということも大きな問題のひとつであろう。
ある種の普遍的な名詞が世界各地で似たような音(sio,saltなど)を持っていたりすることからそこには"音"や"響き"の問題も見出せる。

言語の発生の母体には音楽ー歌があったという説もうなずける。

進化の過程で(進化論を是とするなら)いくつか生まれたとされる類人猿の中で生き残ったのは声帯を発達させたホモ サピエンスだけだったという。
複雑な発声を可能にさせた声帯の獲得は複雑な思考を可能にし、より脳も発達させたのであろう。言語学というものの役割りはここまで立ち戻ってこそ見えてくる。

ことば

2013-11-18 11:49:13 | 日記
"今"という言葉ほど不正確なものはない。
口に出したその瞬間から"今"は過ぎ去り過去となる。

或る哲学者はこう言って世の無常観を語り、或る数学者はそこから時間という問題のパラドクスを引き出そうとする。

しかし、ここで対象となるべきは実は言語学ではないか?
"今"という言葉が不正確であるならば、より正確な表現を生み出すべきなのである。
世に言葉というモノは溢れているようでいて実際の所は不完全なモノが多い。
言葉にならないことなどいくらでもあるから当然のことではあるが、それが言語の限界といってしまうのはいかがなものだろうか。

なぜなら思考の基本となるものは言語だからである。
従って言語、文法が異なれば思考のプロセスも変わってくるであろう。
民族性の違いなどもそこから発生してくるのではないだろうか。

"矛盾する"という言葉は、その故事によってその表現が生まれるまで誰もが感じることは有りながら、表現することはできなかったであろう。

人間は言語以前に感応し合えるから、言語上の不備はいくらでも補ってこれた。むしろ言葉で表現できることなど日常にあっては極めてごく一部であり、いくら多くの言葉を知っていてもあまり意味はない。

2013-11-18 09:19:44 | 
人間が物事を理解するとき、思っている以上にその実際は大まかで雑なものです。

わかったつもりになっているものでも、もう一歩踏み込んで考えてみると、真実のより近くに近づける。
しかし多くの場合そのはるか手前でやめてしまう。

なぜでしょう?

真理に近づかなくても、日常の暮らしには困らないからです。
というより、日々の暮らしは繁雑でそんな暇はなかなか与えてくれない。
そこを押して一歩踏み込んでみる。
そうすると新しい景色が見えることがあります。

これは暇人の遊びでしょうか?

しかし、真理や真実に近づこうとすることはけして無駄なことではない。
ここではそんな作業をランダムなテーマで行ってみたい。
願わくば好事の君子共に其の心を取れ焉。





ただ、合気道開祖植芝盛平翁が曰く、踏込みは一歩踏み込めば断絶。
半歩こそが正しいー
至言と言うべきでしょう。