前回は、感情をきちんと伝える難しさとその弊害をおさらいしました。
今回は、感情をきちんと伝えるために必要な、「互いに学びあう会話」を実現するために必要な考え方を見ていきます。
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感情をうまく伝えられず、しこりの残る会話をしてしまう。
結果として相手の言うなりになってしまっている。
そんな場合のつまずきのポイントは、大きく3つにまとめられます。
一つずつ順に見ていきましょう。
ポイント1:事実認識
(1)一番広く見られる過ちが、「私は必要な情報を全て持っていて、状況を全て分かっている」という互いの過信です。
必要なことが自分の側で全部分っており、物事の背景や原因も正確に認識しているという前提に立って、物事を考えるわけです。
そうなれば当然、正しい情報に基づく自分の判断こそ正当である、ということを相手に説得し分らせる目的で会話を進めることになります。
「正しいこと」を互いに押し付け合う会話となると、当然感情的なヒートアップが避けられません。
「何でこんな当たり前の真理が分らないのか」とフラストレーションがたまる一方、相手は相手で「間違った」主張を押し付けてくるからです。
またそうした言い争いでは、声の大きさや図々しさ、さらには物理的な力で論争の勝負がついてしまうことが多々あるでしょう。
しかしながら多くの場合、必要な情報を完全に把握することは困難です。
相手の側には向こうにしか知りえない背景事情があるものですし、同じ事実を見てもそれをどう判断するかは人によって認識がばらつくことがあって当然だからです。
例えば前回出した事例で言えば、こんな認識のズレがあるかもしれません。
(Bさんの事実認識)
Aさんは遊びにいくために授業をサボって私にノートの代書を頼んだ。
その上今も自分だけ週末を楽しもうとノートの清書を押し付けてこの場を去ろうとしている。
(Aさんの事実認識)
世話になっている下宿の大家さんが病気で倒れたので看病のためやむを得ず授業を休み、Bさんにノートの代書を頼んだ。
今日も薬局に依頼していた薬を大家さんの代わりに取りに行くので、あとはBさんに任せて早くこの場は切り上げたい。
こうした背景を共有できていれば、Bさんの感情や対応もまた違ったものになっていたかもしれませんし、Aさんからしてももっと容易にノートを頼むことができたでしょう。
(2)また上記から派生する誤った前提として、相手の意図の理解には特に注意すべきです。
要は、「私は相手がどういうつもりでこう言ったか、その意図も分っている」という過信です。
相手の意図が分っているという前提に立つと、「相手の意図や行動が適切でないことを思い知らせる」ことが会話の目的になってしまいます。
例えば前回の事例で言えば、こんなすれ違いがあるかもしれません。
(Aさんの意図に対するBさんの推測)
Aは帰国子女だから英語の授業のノートもすらすら取れるかもしれないが、こっちは初めての海外留学で、ノート一つ取るのにも苦労している。
そんな苦労も知らず、「ノートがきちんと取れていない」と言って、自分の優越感を示そうとしている。
(Aさんの意図)
Bさんはまだ語学力が低いから、ノートもこんなものだろう。
でもあえて厳しく扱ってもっと上にチャレンジしてもらうことで、早く上達してもらいたい。
ノートの清書も英語を分りやすく書く良い練習になるだろう。
人間誰しも、自分がどんな意図で行動しているか、相手の行動が自分の目にどう映ったか、は把握することが出来ます。
しかし、相手がどういうつもりでそう発言したのか、またこちらが言ったことに対して相手がどう思ったかは、分ったつもりでも正確に把握することは困難です。
また間違った理解を前提に話を進めると、さらに誤解が増していくのも厄介な問題です。
(3)さらに感情がヒートアップしてくると、もう一つの大きなチャレンジが訪れます。
すなわち、「この問題については全部相手が悪い」という前提で考えてしまうことです。
前回の事例で言えば、Bさんは「全てAさんが身勝手だから悪い」と腹の中で考えているようです。
こうしたゼロかイチかという考え方はすっきりしていて、確かにその場の苛立ちを抑えるのには役立ちます。
しかし互いの間で問題を解決する上では、対立をあおるだけで生産的とは言えないでしょう。
満足のいかない状況に対して、「互いにいくばくかずつは責任があるはずだ」という考え方で解決を探る必要があるでしょう。
事実認識の誤解に対して注意すべき点をまとめると、
(1) 互いの持っている背景情報を共有する。どう状況を理解したか、その理由も含めて。
(2) 自分の意図、相手の行動が自分にどんなインパクトを与えたか伝える。同時に、相手の意図、自分の行動が相手に与えたインパクトも教えてもらう
(3) 互いのどの行動がどう状況の悪化に寄与したか共有する。一方だけの行動でなく必ず両者の行動を含めて。
といった点が挙げられるでしょう。
「互いに学びあう会話」とは、このようにお互いのストーリーを批評抜きにまずテーブルの上に出すことから始まります。
ここまで進めて初めて、「何が起こっていたのか」について共通理解が生まれると言えるでしょう。
より広く言えば、事実認識に関して必要なのは、「どちらの側が考えているよりも、状況はもっと複雑で微妙である」ことを前提として受け入れることかもしれません。
(第25回続く)
今回は、感情をきちんと伝えるために必要な、「互いに学びあう会話」を実現するために必要な考え方を見ていきます。
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感情をうまく伝えられず、しこりの残る会話をしてしまう。
結果として相手の言うなりになってしまっている。
そんな場合のつまずきのポイントは、大きく3つにまとめられます。
一つずつ順に見ていきましょう。
ポイント1:事実認識
(1)一番広く見られる過ちが、「私は必要な情報を全て持っていて、状況を全て分かっている」という互いの過信です。
必要なことが自分の側で全部分っており、物事の背景や原因も正確に認識しているという前提に立って、物事を考えるわけです。
そうなれば当然、正しい情報に基づく自分の判断こそ正当である、ということを相手に説得し分らせる目的で会話を進めることになります。
「正しいこと」を互いに押し付け合う会話となると、当然感情的なヒートアップが避けられません。
「何でこんな当たり前の真理が分らないのか」とフラストレーションがたまる一方、相手は相手で「間違った」主張を押し付けてくるからです。
またそうした言い争いでは、声の大きさや図々しさ、さらには物理的な力で論争の勝負がついてしまうことが多々あるでしょう。
しかしながら多くの場合、必要な情報を完全に把握することは困難です。
相手の側には向こうにしか知りえない背景事情があるものですし、同じ事実を見てもそれをどう判断するかは人によって認識がばらつくことがあって当然だからです。
例えば前回出した事例で言えば、こんな認識のズレがあるかもしれません。
(Bさんの事実認識)
Aさんは遊びにいくために授業をサボって私にノートの代書を頼んだ。
その上今も自分だけ週末を楽しもうとノートの清書を押し付けてこの場を去ろうとしている。
(Aさんの事実認識)
世話になっている下宿の大家さんが病気で倒れたので看病のためやむを得ず授業を休み、Bさんにノートの代書を頼んだ。
今日も薬局に依頼していた薬を大家さんの代わりに取りに行くので、あとはBさんに任せて早くこの場は切り上げたい。
こうした背景を共有できていれば、Bさんの感情や対応もまた違ったものになっていたかもしれませんし、Aさんからしてももっと容易にノートを頼むことができたでしょう。
(2)また上記から派生する誤った前提として、相手の意図の理解には特に注意すべきです。
要は、「私は相手がどういうつもりでこう言ったか、その意図も分っている」という過信です。
相手の意図が分っているという前提に立つと、「相手の意図や行動が適切でないことを思い知らせる」ことが会話の目的になってしまいます。
例えば前回の事例で言えば、こんなすれ違いがあるかもしれません。
(Aさんの意図に対するBさんの推測)
Aは帰国子女だから英語の授業のノートもすらすら取れるかもしれないが、こっちは初めての海外留学で、ノート一つ取るのにも苦労している。
そんな苦労も知らず、「ノートがきちんと取れていない」と言って、自分の優越感を示そうとしている。
(Aさんの意図)
Bさんはまだ語学力が低いから、ノートもこんなものだろう。
でもあえて厳しく扱ってもっと上にチャレンジしてもらうことで、早く上達してもらいたい。
ノートの清書も英語を分りやすく書く良い練習になるだろう。
人間誰しも、自分がどんな意図で行動しているか、相手の行動が自分の目にどう映ったか、は把握することが出来ます。
しかし、相手がどういうつもりでそう発言したのか、またこちらが言ったことに対して相手がどう思ったかは、分ったつもりでも正確に把握することは困難です。
また間違った理解を前提に話を進めると、さらに誤解が増していくのも厄介な問題です。
(3)さらに感情がヒートアップしてくると、もう一つの大きなチャレンジが訪れます。
すなわち、「この問題については全部相手が悪い」という前提で考えてしまうことです。
前回の事例で言えば、Bさんは「全てAさんが身勝手だから悪い」と腹の中で考えているようです。
こうしたゼロかイチかという考え方はすっきりしていて、確かにその場の苛立ちを抑えるのには役立ちます。
しかし互いの間で問題を解決する上では、対立をあおるだけで生産的とは言えないでしょう。
満足のいかない状況に対して、「互いにいくばくかずつは責任があるはずだ」という考え方で解決を探る必要があるでしょう。
事実認識の誤解に対して注意すべき点をまとめると、
(1) 互いの持っている背景情報を共有する。どう状況を理解したか、その理由も含めて。
(2) 自分の意図、相手の行動が自分にどんなインパクトを与えたか伝える。同時に、相手の意図、自分の行動が相手に与えたインパクトも教えてもらう
(3) 互いのどの行動がどう状況の悪化に寄与したか共有する。一方だけの行動でなく必ず両者の行動を含めて。
といった点が挙げられるでしょう。
「互いに学びあう会話」とは、このようにお互いのストーリーを批評抜きにまずテーブルの上に出すことから始まります。
ここまで進めて初めて、「何が起こっていたのか」について共通理解が生まれると言えるでしょう。
より広く言えば、事実認識に関して必要なのは、「どちらの側が考えているよりも、状況はもっと複雑で微妙である」ことを前提として受け入れることかもしれません。
(第25回続く)