(『答は藪の中』が冗長すぎたので、前編と後編に分けて掲載します。)



答は藪のなか。
黒澤明の「羅生門」とはそれをよく表わした映画だと思う。
僕は高校生の時にこの映画を観て、そういった感覚を学んだ。

それをさらに突き詰めて、
強烈なポジティブバイブレーションとともに放ったのが、
ブッダ氏であろう。
僕は、仏教とは原始的にはそういうものだと認識している。

すべての存在が、
ただ其処に在る。

この事実だけは誰にも否定できない。

「だから、それをまず心の中でよどみなく受け入れなさい。」
そういうことを、ブッダ氏は言ったんだと思う。

これはもはや、一人一人の心の問題であるから、
「教える」とかそういうものじゃない。

自分で「気づかない」と意味がない。
しかも毎日。

にもかかわらず金払って教えてもらおうとする人も、
金とって教えようとする人も、いつの時代もとても多い。

教科書もお経もお布施もないから、
僕は将来曹洞宗の禅をおさめたいと思っている。

答を毎日自問自答しなさい。
とだけ教える宗教。
超セルフサービス。
そうしてその答探しそのものが「答」であることに気づくのにそんなに時間は要らない。

元来人間全員が神などと言う想像物を媒介しなくても
宇宙を感じたり真理を感じたりできるはずである。
その可能性が在る、ということがわかっているだけでも死ぬまで心強いものである。

近頃座禅を組んでいない。

今晩あたり、少し。チャクラ全開で~。






10月の番組再編前の最終週たる今日は、ぽかんと空いた休日。
天から降ってきた24時間。
しかも昨日までは「番組ある」と思っていたからなおさらである。

秋葉原にパソコンを買いに行った。
「インターネットができて音楽のデータが使える一番安いやつ」
を探して、5万円台で購入。

最初期タイプのアイマックを貰って使ってたが、
一昨日風雅(今日で0.5歳!祝。)が落としてキーボード壊れたから、
かねてからさすがに買い換えようと思っていたので、
「インターネットができて音楽のデータが扱えて一番安くて、今よりも通信速度の速そう」なやつを探す冒険に出た。

「楽器といえば御茶ノ水」
「電化といえば秋葉原」
とはいえ、そこまで頻繁に行くわけじゃない。

とはいえ、電車で40分ならこういうときはやっぱAKBである。



いやー。
3時間くらいのあいだに6店舗くらい見て。

周りに一緒に来てくれるようなパソコン君も少ないし知識ないし、メカ音痴だがなんとか上記の目的に沿いそうなものをみつけて購入。

プロバイダー契約すると2万円割引だったから
サヨウナラyahoo BB。
こんにちわ、小野伸二。



いやー、メカ音痴は秋葉原は緊張する。
筋金入りの秋葉原系の皆さんはかなりマニアックな会話を繰り広げているのに、
横で俺は「256Mって何だ?」とかなっていて。
ウッキー。
お猿さん状態。


僅か9ヶ月のサラリーマン時代には、一応エクセルなどの講習受けて使っていたが。
楽器やレコードばっかり触って、
パソコンはネット以外使っていなかったものだからてんで疎くなっていた。

組み立てキットなどを観て感動。

パソコンは次なる時代の大いなる道具であり、
大いなる障壁となるだろう。

だから、これは大いに勉強したほうがよさそうだと感じた。

ニューオリンズやテキサスで、ハリケーンから逃げ遅れて死んだ人々は
テレビやパソコンなどが生活から遠い貧乏人や年寄りが多かったと報道されている。

情報格差がそのまま生き死にに直結する「平等」な社会。
日本も似てる。
世界はその国をがんがん真似している。

一石投じるにも、パソコンくらいは使えないといけない。

ペンは剣より強し。

答は今日も、藪の中。

写真:風雅、今日で生誕6ヶ月。ひたすら「無心」の境地でエアロビクス中。ここから一回迷って、また戻れるのは何時の日になるのだらうね。



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此処一年あまり、火曜日といえば「テレビの日」だ。
我が家では「テレビの日」か「すぺしゃ行く日」という。

かよが「あれ?洋平明日すぺしゃ行くだよ!」といわれて初めて「今日が月曜日」と認識していたくらいだが、近頃では身体が火曜日を覚えた。

曜日とか時間の概念を一度無意味に捉えてしまった経験があると、集団行動が苦手になる。
ゆったり落ち着いて生きたいが、最低限協調性がないと話にならんわけで、
スペシャのVJやるようになってから、少なくとも「火曜日」は覚えた。

ライブがよくある曜日だから、
なんとなく「金曜日」と「土曜日」はイメージとしてある。
「火曜日」はそのアンニュイな存在感とともに、
最近の僕にとっては欠かせない曜日になっている。






今年の四月からSTUDIO GROWNは「1時間」に拡張されたから、
それまでよりも影響力が増してきて、
なんだか一回一回の生放送でとてもエネルギーを消費するようになった。

確かに、ブラウン管の向こうからは「ゆるい」番組にしか見えないかもしれないが。

自然体でいるにしても、何万人が観てる前で台本無しにしゃべり続けて1年。
よくぞ無事だったと思う。

それなりに気を使うのである。

テレビには、差別用語などなど、言ってはならない用語がある。
法律はないが、業界的な自主規制がある。
といって、それを文書化すること事態が差別行為だから、マニュアルがない。

だから「放送禁止用語」ってやつは、実にやっかいである。

言っておくが、僕はこの世のあらゆる価値観と存在を等しく感じられる自分を信じている。

差別用語という概念自体が忌まわしい。
幸運にも外国に生まれて、差別された経験もガッツリある。
さらに日本へ帰ってからのほうが差別されたと感じているから、
それがどれだけ傷つくものかは理解しているつもりだ。

前に生放送中に「マイルスが一番キチガイだったころ」
ってほめ言葉のつもりで言って、後でそれがNGワードだったことを知った。

芸術家にとっては、「キチガイ」など褒め言葉の最上級のひとつである。

別に苦情は入らなかったが、
スタジオの空気が凍り付いた感じが忘れられない。

「あ。俺なんか言ったんだな。」
って感じで。

文脈でニュアンスを判断してほしいところだが、
そういう融通の利かないところが「決め事」なのである。

毎回がライブな点では、まさに犬式のライブと同じようなものである。
ライブには禁止用語がないから、気楽でいい。

なんでも「初めて」が一番刺激的だから、台本は要らない。
別に「テレビの人」じゃないから。

再放送ではNGワードに「ピー」音が入るから、
ネット上で「三宅は何を言ったんだ?」って騒ぎ立てるのは人の性だろうけど、
自分が当の本人だと「別にたいしたことは言ってないよ」って感じで。
憶測で話が進んでいるのを観て、
話がぜんぜん違うほうへ行ったりしてるのを眺めながら、
デマに踊らされるこうした社会性を旨く利用する音楽業界や広告業界、
戦争国家や選挙の在り方などを考えることしばしば。

1ヶ月テレ朝観続けた人と、
1ヶ月TBS観続けた人とで、
どれだけ考え方が変わるか。

人間。かくも信じやすきもの。

そのわりに街に溢れてるのは不信感ばかりだ。

真実などというのは人格が60億通りあったら、
60億通りしかないのに、
ひとつを求めて人々は何かに群がろうとする。

自分の見つけたものや感じたものを、
もっと疑い、彫り、見えなくなるまで見つめて自問自答した後に
それらの燃えかすをみつめながら宇宙の中にぽつんと居る自分と
現在もほぼ光の速さで膨張している宇宙の縁を対比して感じて、
同一化して感じて、云々、
そういう果てにみつけるのが真実の出発点だと思う。
(そこにクリエイション、創造的なエネルギーが介在すると「表現」になる。)

答は藪の中。
人の数だけ、真実は存在する。


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