昨日も今日も、日曜日のワークショップの続きのように、
いろいろ考えさせられました。
親に対する罪悪感というのは、
これまでの人生の後半で大きな影響を持った感情でしたが、
人生全体にもっと大きな影響をおよぼすのは、
小さい頃の感情でしょう。
私にとってのそういう感情は何なのか、
ワークショップの最中に自分が無意識に何度か使っていた
言葉にヒントがありそうだと感じてました。
それは、「他人」という言葉です。
「しょせん、他人」「どうせ他人」といったような
使い方をしていたと思います。
私は、そうやって自分と他の人の間に線を引いているようです。
小さい頃は、線を引くというより、他人を恐れていました。
極度の人見知りで、幼稚園でも全く口をきかず、
端っこのほうに座っていたので、いじめられました。
近くの川へお散歩にいった時、男の子に顔を殴られたらしく、
鼻血が出て仰向けに寝かされたことをまだ覚えています。
この極端な他人に対する恐怖は、
どこから来ているんだろうと思ったとき、
母のことを思い出しました。
私たちの心理分析の先生、長谷川泰三さんによれば、
私たちがずっと持ちつづけている感情の大部分が
親の気持ちのコピーだそうです。
私の母は、東京から栃木へ来て、見知らぬ土地で
3人の子育てをほとんど誰にも頼らずやっていました。
母自身もちらっとこぼしていましたが、
東京から来た人というのは田舎ではとかく注目されがちで、
「東京の人は、どぶ板も踏まない」といやみを言われたそうです。
また、母が小さかった頃、戦争中で疎開していた時、
やはり田舎の人から意地悪をされたようです。
そんな経験もあって、母は子どもたちを
なるべく近所の子とは遊ばせないようにしていたのかもしれません。
私たちがもう少し大きくなってから、
「栃木弁を覚えるのが嫌だったから、あまり近所の子とは遊ばせなかった」
とは言っていました。
姉は近所に友達がいましたが、私は姉の友達としか遊びませんでした。
なぜ姉は人見知りにならなかったのか、よく分かりませんが
もしかしたら私が母のお腹の中にいる時に母は、
とてもイヤなことを経験したのかもしれません。
今の私を知る人は、私が極度の人見知りでいじめられていたと言うと
驚かれるかもしれませんが、今でも私は人見知りです。
初対面の人と話すとき、特に自分から声をかける時は心臓がバクバクして、
心の中では「嫌がられるんじゃないか」という恐怖がうずまいてます。
多分、これは小さい頃いじめられていた後遺症もあるでしょう。
でも、そろそろこれも克服する時期に来ているのでしょう。
こんな風にブログに書いているということは。
ワークショップの時、泰三さんが
カナダの原住民の非行少年たちの矯正プログラムを紹介してくれました。
それは、高いところから両手を広げて、後ろ向きに倒れると
下で他の少年達がそれを受けとめるというワークをやることで、
他人を信頼することを学ぶものです。
最初は信頼がないので、腰がひけてしまってうまく下りられなかったのが、
だんだんそのまま後ろ向きに倒れこめるようになるようです。
きっとうまくできるようになった他の少年を見れば、
残りの少年もうまく身を預けられるようになるでしょう。
私も自分自身で、それを試す時期なのかもしれません。
いろいろ考えさせられました。
親に対する罪悪感というのは、
これまでの人生の後半で大きな影響を持った感情でしたが、
人生全体にもっと大きな影響をおよぼすのは、
小さい頃の感情でしょう。
私にとってのそういう感情は何なのか、
ワークショップの最中に自分が無意識に何度か使っていた
言葉にヒントがありそうだと感じてました。
それは、「他人」という言葉です。
「しょせん、他人」「どうせ他人」といったような
使い方をしていたと思います。
私は、そうやって自分と他の人の間に線を引いているようです。
小さい頃は、線を引くというより、他人を恐れていました。
極度の人見知りで、幼稚園でも全く口をきかず、
端っこのほうに座っていたので、いじめられました。
近くの川へお散歩にいった時、男の子に顔を殴られたらしく、
鼻血が出て仰向けに寝かされたことをまだ覚えています。
この極端な他人に対する恐怖は、
どこから来ているんだろうと思ったとき、
母のことを思い出しました。
私たちの心理分析の先生、長谷川泰三さんによれば、
私たちがずっと持ちつづけている感情の大部分が
親の気持ちのコピーだそうです。
私の母は、東京から栃木へ来て、見知らぬ土地で
3人の子育てをほとんど誰にも頼らずやっていました。
母自身もちらっとこぼしていましたが、
東京から来た人というのは田舎ではとかく注目されがちで、
「東京の人は、どぶ板も踏まない」といやみを言われたそうです。
また、母が小さかった頃、戦争中で疎開していた時、
やはり田舎の人から意地悪をされたようです。
そんな経験もあって、母は子どもたちを
なるべく近所の子とは遊ばせないようにしていたのかもしれません。
私たちがもう少し大きくなってから、
「栃木弁を覚えるのが嫌だったから、あまり近所の子とは遊ばせなかった」
とは言っていました。
姉は近所に友達がいましたが、私は姉の友達としか遊びませんでした。
なぜ姉は人見知りにならなかったのか、よく分かりませんが
もしかしたら私が母のお腹の中にいる時に母は、
とてもイヤなことを経験したのかもしれません。
今の私を知る人は、私が極度の人見知りでいじめられていたと言うと
驚かれるかもしれませんが、今でも私は人見知りです。
初対面の人と話すとき、特に自分から声をかける時は心臓がバクバクして、
心の中では「嫌がられるんじゃないか」という恐怖がうずまいてます。
多分、これは小さい頃いじめられていた後遺症もあるでしょう。
でも、そろそろこれも克服する時期に来ているのでしょう。
こんな風にブログに書いているということは。
ワークショップの時、泰三さんが
カナダの原住民の非行少年たちの矯正プログラムを紹介してくれました。
それは、高いところから両手を広げて、後ろ向きに倒れると
下で他の少年達がそれを受けとめるというワークをやることで、
他人を信頼することを学ぶものです。
最初は信頼がないので、腰がひけてしまってうまく下りられなかったのが、
だんだんそのまま後ろ向きに倒れこめるようになるようです。
きっとうまくできるようになった他の少年を見れば、
残りの少年もうまく身を預けられるようになるでしょう。
私も自分自身で、それを試す時期なのかもしれません。