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摂氏911

自然な生き方をめざす女性が、日々のできごと、感じたことなどをつづります。

ワークショップの続き

2008-11-12 00:25:33 | 気づき
昨日も今日も、日曜日のワークショップの続きのように、
いろいろ考えさせられました。
親に対する罪悪感というのは、
これまでの人生の後半で大きな影響を持った感情でしたが、
人生全体にもっと大きな影響をおよぼすのは、
小さい頃の感情でしょう。

私にとってのそういう感情は何なのか、
ワークショップの最中に自分が無意識に何度か使っていた
言葉にヒントがありそうだと感じてました。
それは、「他人」という言葉です。
「しょせん、他人」「どうせ他人」といったような
使い方をしていたと思います。
私は、そうやって自分と他の人の間に線を引いているようです。

小さい頃は、線を引くというより、他人を恐れていました。
極度の人見知りで、幼稚園でも全く口をきかず、
端っこのほうに座っていたので、いじめられました。
近くの川へお散歩にいった時、男の子に顔を殴られたらしく、
鼻血が出て仰向けに寝かされたことをまだ覚えています。

この極端な他人に対する恐怖は、
どこから来ているんだろうと思ったとき、
母のことを思い出しました。
私たちの心理分析の先生、長谷川泰三さんによれば、
私たちがずっと持ちつづけている感情の大部分が
親の気持ちのコピーだそうです。
私の母は、東京から栃木へ来て、見知らぬ土地で
3人の子育てをほとんど誰にも頼らずやっていました。
母自身もちらっとこぼしていましたが、
東京から来た人というのは田舎ではとかく注目されがちで、
「東京の人は、どぶ板も踏まない」といやみを言われたそうです。
また、母が小さかった頃、戦争中で疎開していた時、
やはり田舎の人から意地悪をされたようです。

そんな経験もあって、母は子どもたちを
なるべく近所の子とは遊ばせないようにしていたのかもしれません。
私たちがもう少し大きくなってから、
「栃木弁を覚えるのが嫌だったから、あまり近所の子とは遊ばせなかった」
とは言っていました。
姉は近所に友達がいましたが、私は姉の友達としか遊びませんでした。
なぜ姉は人見知りにならなかったのか、よく分かりませんが
もしかしたら私が母のお腹の中にいる時に母は、
とてもイヤなことを経験したのかもしれません。


今の私を知る人は、私が極度の人見知りでいじめられていたと言うと
驚かれるかもしれませんが、今でも私は人見知りです。
初対面の人と話すとき、特に自分から声をかける時は心臓がバクバクして、
心の中では「嫌がられるんじゃないか」という恐怖がうずまいてます。
多分、これは小さい頃いじめられていた後遺症もあるでしょう。
でも、そろそろこれも克服する時期に来ているのでしょう。
こんな風にブログに書いているということは。

ワークショップの時、泰三さんが
カナダの原住民の非行少年たちの矯正プログラムを紹介してくれました。
それは、高いところから両手を広げて、後ろ向きに倒れると
下で他の少年達がそれを受けとめるというワークをやることで、
他人を信頼することを学ぶものです。
最初は信頼がないので、腰がひけてしまってうまく下りられなかったのが、
だんだんそのまま後ろ向きに倒れこめるようになるようです。
きっとうまくできるようになった他の少年を見れば、
残りの少年もうまく身を預けられるようになるでしょう。
私も自分自身で、それを試す時期なのかもしれません。


街の小売店ならではの個別化サービス

2008-11-08 22:30:08 | 気づき
心理学講座の仲間で、いつも素敵なコーディネートで
服を着ているなと感じていた人がいました。
彼女は、いつも特定のお店で買物をして、
そこのスタイリングにお任せしているということでした。

昨日の夜、こんなものがあったらいいのに
と思うことについてブログを書こうと思っていて、
その1つが服やヘアスタイル、アクセサリーなどの
ファッションだけでなく、
名刺などのビジネスツールなども含めた
トータルな個人のプロデュースサービスでした。
でも、以前から服飾の小売店などは、
顧客のニーズに合わせてスタイリングをしてたんですよね。

街の小売店が、大量廉価販売の大型店に対抗できるとしたら、
いかにこういうサービスで特定の顧客のニーズに
応えていくかなのでしょう。
私が注目している「おいしいお店ドットコム」というサイトは、
金沢の近江町市場にある、もともと料亭などに向けた卸売り店ですが、
メーカーの代理ではなく、料亭の仕入れ代行と自社を位置づける
ということが書いてあります。

私も自分の価値観やライフスタイルを分かってもらった上で、
私の代わりに商品を選んでくれるお店を探してみようかな。
なければ、自分のニーズを満たす店をプロデュースする機会なのかも。



「ありがとう」からはじめよう

2008-11-07 14:42:33 | 気づき
足半(あしなか)という
足長の半分くらいしか長さがない布ぞうりをはき始めて約1ヶ月。
なんとなく、足の指が開いてきている感じはします。
でも、外反母趾はあまりひどくないためか、
あんまり治ってないなぁと思いながら、
夕べお風呂の中で足を見ていました。

そして、はっとしました。
「あ、私ってまた文句言ってるなぁ。
でも、本当に文句を言いたいのは、足の方だよね。
こんな格好になるまで、きついところに押し込められても
何も声を上げられなかったんだから。
だから、本当は『ごめんなさい。許してください。
ありがとう。愛しています』とホ・オポノポノの言葉を
言ってあげるほうがふさわしいよね」

そして、またはっとしました。
私は、同じことを夫に対してもやってるなって。
いて当たり前、やってくれて当たり前みたいになっていて、
「ありがとう」もあまり心がこもっていない気がします。

今朝起きたら、黄色い痰が出ました。
急性副鼻腔炎になると、色のついた痰が出るので
「えっ、また~?病院行こうかな?」と思いました。
そこで、また気づきました。
黄色くなっているのは、体の中で白血球とかが
ばいきんと闘って果てた残骸なんだって。
「やだ~」じゃなくて、ここでも「ありがとう」が
ふさわしい言葉だな。

しばらくして、皿洗いをしながら、断捨離セミナーで
風水では食器を重視すると言われたのを思い出しました。
なりたい自分が使うのにふさわしい食器を使おうとも
言われました。
でも、なんか「あんたたちは、これからの私には
ふさわしくないのよ!」と言ってポイするのも、
切ないなぁと思いました。
そうだ、こういう時もまず「今まで、ありがとう」だな。

よく心理学の講座で、自分がずっと抱えてきた
「・・・すべきだ」とか「・・・すべきでない」という
強い思い込み=観念に対して、同じようなことを言います。
今までは自分を守るために必要だった観念だけど、
そのために今不自由になっているなら、もう必要ないのだから、
「ありがとう、さようなら」って言って、
手放しましょうと言われるのです。


「ありがとう」は波動の高い言葉だとか言われますけど、
どんな場面でもまず使ってみたい万能薬みたいです。
そのためには、現状を肯定的に見る必要がありますが、
私が断捨離セミナーを受けはじめてから、
「何をすべきか」ではなく、
「何ができたか」を数えるように変わったのは、
「ありがとう」を常用できる地ならしのようなものになりました。
ありがとう、断捨離さん。