組踊保持者でもよく台詞をとちる方がいました。それでもユネスコが認証した組踊の国の保持者なんです。年齢と共に記憶力も体力も弱っていきます。芸能者と記憶、体力の衰えは技量の衰退になります。どこが引き際なのか、身体芸術を担っている方々のたいへんさがうかがわれるのですが、それはおそらくどの領域においても人はそれぞれの老いと向き合わざるを得ません。舞台芸術を身体で表出する芸能者にとって舞台に立つという事の覚悟が問われるのでしょう。名優の方々が舞台上で死んで本望だという言葉に嘘はないと思います。それほどに身体表現(全身全霊をかけた実存)を舞台で繰り返しやってきた芸能者の凄みが感じられます。しかしそれはいい芸を観客に見せて本望ということでもあるかと~。
舞台でいい芸を見せることができないと、その限界を認識した時が身の引きどころでしょうか。もうこれ以上歩けないとか、これ以上声が出せないとか、これ以上踊れないとか、一方で肢体不自由の方々も舞台で表現しています。身体で心で感じたことを思ったことを考えたことを表出したい願望は自発的な自然性であり、誰もそれを止めることはできません。独自に見える世界を表現しています。様式のある伝統芸能の場合、その型を崩すことなく演じられなくなった時、舞台から降りざるを得ないでしょう。調和の取れた舞台全体が崩れてしまうからです。生身の作品は生身の完成品(作品、芸術)を目指さなければなりません。そこに欠陥ができた時、代理で埋め合わせるとか、予測不可能な身体の状態ゆえにダブルキャスティングをしたりします。
家元とか、OO保持者とかの肩書なりラヴェルゆえにその芸の荒みやほぐれについて全く言及しないのは、優しさや思いやりだろうか?それもFAKEとプロパガンダの類だろうか。芸能者の芸の落ち度ゆえに舞台の美がそこなわれることもあるという事実を、正確に知らせる義務はないのだろうか。それとも隠蔽し、あえて触れないことによる配慮(身内の傷のなめあい)をするのがいわゆる正統派という論理なのだろうか?
評判の新作組踊「塩売」について、沖縄タイムスは全く多く語らないことによって読者を煙に巻きました。琉球新報の芸能担当記者はさてどのように伝えるのだろうか。紙面の限界もあります。ジャーナリストなら根堀りインタビューをしたり調査をして実態を文書にして伝えることができます。紙面では限界があるゆえに、媒体を変えて舞台の事実を追及(究)する必要があるかと考えるのだが、かと言ってそのテーマに固執しているわけでもないので、ただ芸能担当記者がどう対処化するのか、興味を持っています。このブログでもまたNoteでも実際に観た舞台について簡単に所見をまとめたのだが~。実際は演出家や地謡も含めて関係者全員の生の声を聴く必要があるでしょう。伊良波賢弥さんの作品はこの間なかった設定で興趣があったゆえになおのこと~。
テーマとして浮かび上がってきたのは芸能者と老いです。どこまで芸を追及することが可能だろうか。よく芸道無限などのことばを目にします。また至芸とか、しかし至芸と評判の舞台のどこが至芸なのか気になる舞台もあります。
舞台でいい芸を見せることができないと、その限界を認識した時が身の引きどころでしょうか。もうこれ以上歩けないとか、これ以上声が出せないとか、これ以上踊れないとか、一方で肢体不自由の方々も舞台で表現しています。身体で心で感じたことを思ったことを考えたことを表出したい願望は自発的な自然性であり、誰もそれを止めることはできません。独自に見える世界を表現しています。様式のある伝統芸能の場合、その型を崩すことなく演じられなくなった時、舞台から降りざるを得ないでしょう。調和の取れた舞台全体が崩れてしまうからです。生身の作品は生身の完成品(作品、芸術)を目指さなければなりません。そこに欠陥ができた時、代理で埋め合わせるとか、予測不可能な身体の状態ゆえにダブルキャスティングをしたりします。
家元とか、OO保持者とかの肩書なりラヴェルゆえにその芸の荒みやほぐれについて全く言及しないのは、優しさや思いやりだろうか?それもFAKEとプロパガンダの類だろうか。芸能者の芸の落ち度ゆえに舞台の美がそこなわれることもあるという事実を、正確に知らせる義務はないのだろうか。それとも隠蔽し、あえて触れないことによる配慮(身内の傷のなめあい)をするのがいわゆる正統派という論理なのだろうか?
評判の新作組踊「塩売」について、沖縄タイムスは全く多く語らないことによって読者を煙に巻きました。琉球新報の芸能担当記者はさてどのように伝えるのだろうか。紙面の限界もあります。ジャーナリストなら根堀りインタビューをしたり調査をして実態を文書にして伝えることができます。紙面では限界があるゆえに、媒体を変えて舞台の事実を追及(究)する必要があるかと考えるのだが、かと言ってそのテーマに固執しているわけでもないので、ただ芸能担当記者がどう対処化するのか、興味を持っています。このブログでもまたNoteでも実際に観た舞台について簡単に所見をまとめたのだが~。実際は演出家や地謡も含めて関係者全員の生の声を聴く必要があるでしょう。伊良波賢弥さんの作品はこの間なかった設定で興趣があったゆえになおのこと~。
テーマとして浮かび上がってきたのは芸能者と老いです。どこまで芸を追及することが可能だろうか。よく芸道無限などのことばを目にします。また至芸とか、しかし至芸と評判の舞台のどこが至芸なのか気になる舞台もあります。
ぜひ、論文を読ませていただきます。
狭い沖縄、なかなか芸能関係の批評が成り立たないように思えます。右ならえの風潮もあり、そこからいいものは生まれてこないはずですね。残念ですが~。