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奥野彦六郎の『沖縄婚姻史』は興味深い!

2014-07-05 22:50:00 | 書評

多くの研究者がすでに多く言及している『沖縄婚姻史』は歌舞が目を惹いた。村単位の租税制度と共同互助機構のありようなど、婚姻に関する歌舞と自由恋愛に近い制度←間切内のありように、その習俗が明治36年頃まで続きやがて近代の教育制度や土地改革によって崩れていった過程がうかがわれた。

歌舞が目を惹いたのだが、歌舞=毛遊び(野遊び)である。←間切りで盛んになされた。首里・那覇では1672年以降前後から遊里でそれが疑似化=洗練されていった。薩摩の在番などをおむかえする場でもあった。歓待の場、性と権力の睦みあいがそこにある。

婿入り婚から嫁入婚へ

柳田「中世までの日本の支配的な婚姻形態が中世以降武家階層のもとで遠方婚が現れるに及んではじめて嫁入中心の婚姻もおこり、それが支配階層を中心に漸次盛んとなり、婿入婚が僻遠三間の地で残存することになった。」

沖縄では「歌舞をつうじての男女の自由な交遊はあくまで一般庶民の間の習俗であって、士族身分の間では若い男女の歌舞もなくたまたま私通すれば制裁されるので、その子女自ら性愛の赴くところに従って将来を契ることは想像もできない」

士族階層「父系的な親族集団、門中を構成、系図(族譜)を有する。系持(ユカッチュ)と呼ばれ家父長的原理を取り入れる。子女の婚姻配偶者の選択は親の決定。←自由意思を排除する「不自由婚」、一方で那覇の遊里に通うのは公認された。無系の庶民の娘との間に特権的な性関係を結んだ。

嫁入の式―根引―嫁入婚(士族層)⇔自由婚ー婿入婚(一般庶民)

歌舞音曲は遊里では許容され、間切りでは若者たちは歌舞音曲の中で自由に相手を選んた。内制原理の中の歌舞ー自由婚

士族層にとって恋の対象はジュリ(遊女)だった。『古今琉歌集』の中の恋の琉歌は472首だが、その恋の相手は=遊女(じゅり)で自由にならない片思いから両思い、様々な様相が見える。不自由婚=系譜(支配秩序)の維持以外に自由な性愛を享受する系持(ユカッチュ)の特権的空間が遊里だった。

近代以降その構図は徐々に変わっていく。

「沖縄婚姻史」は慣習法としての士族層以外の八重山、宮古、他離島や本島の間切りの婚姻形態とその習俗を追いかけている。歌舞、歌舞圏のことばが印象的にちりばめられている。歌舞があり、自由恋愛が成り立ち、婿入がなされていく。まず歌舞である。歌舞の魅力は生きるエネルギーの発露だったのだ。

奥野彦六郎さんは大正10年に判事として那覇に赴任し2か年半の間に見聞を深め論文も発表され、生存中に出版に至らなかったようだ。1978円に初版が発行された。国書刊行会

父母の世代がなぜ士族、系持(系譜持ち)の士族同志で婚姻をしたのか、その流れがある。戦前まで戸籍に士族XXと記されていた時代だ。廃藩置県以降に首里那覇から田舎下りしてからも、士族は士族層との婚姻を維持している。そしてそれぞれの間切りでは疎外されながら次第にその中に溶け込んでいった様子がうかがわれる。もはや門中墓を継ぐ長男も戦争で失われて、位牌や墓を正当に継ぐ者がいない状態で絶える家系もありえる。婿入婚から嫁入婚、一夫一婦制の制度へ、慣習法が次第に条文化された家制度に取り組まれていったのだろうか?それでも門中制度や意識は残り続ける沖縄の現況なのかもしれない。家父長制度は近代に入って強化されていったのだ。戦前の村々、間切りでは家父長制はそれほど強くはなかったと奥野さんの本は伝えている。明治頃まで王府時代の慣習が生きていたのである。それが近代化の波、中央政府の法的システム体系の中に包摂されることによって法整備がなされ、それに基づき行政もまた変わっていったー。歌舞、歌舞のもつ力、おおらかな感情の表出ととってもいいのかもしれない。それは現在もそうだ。


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