狩俣恵一さんが引用した箇所に注目しました。
『琉歌全集』の編著者・島袋盛敏は「首里の無学の老婦人たちがほとんどの組踊を暗誦していた」と旧制中学時代の思い出を語っていたのである。
つまり女性たちは無学ではなく、口承芸能として、組踊を記憶し、その唱えを歌・三線を楽しんできたのである。ましてユカッチュの士族層が恋の対象として心を焦がした遊里の女性たちは、さらに芸能の海で泳いでいたのである。
遊里、遊廓の女性たちは歌・三線や筝曲になじみ、踊りを嗜んでいた。それは1672年に摂政 羽地 朝秀(はねじ ちょうしゅう)(1617~1675)が公に辻に遊廓を設立して以来だから、(その前に湛水親方が仲島で歌三線に興じていた。)、1945年に辻遊廓が米軍の空襲で消滅するまで373年間も続いていたのだ。女性芸能史は侮れない。
島袋盛敏氏の『琉歌全集』をひも解くと、恋の琉歌がとにかく多い。比喩表現でジュリを暗示した歌も多い。恋愛王国の装いである。
先日Googlに「遊廓 ジュリ 芸能」とキーワードを打ち込んだらなんと大学に提出した博士論文の要旨が登場して驚いた。
沖縄芸能史を語る上でいかに遊廓やジュリの芸が大切か、それに取り組んで久しい。
続く。