志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

泉&やよいの「島口説」はこれから全国を駆け巡り、沖縄をアピールする物理的な演劇力を発揮するだろう!

2018-07-02 14:37:41 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

お笑い役者の泉&やよいを抜擢したプロデューサーの手腕は、沖縄アピールに商魂も入れ込んだ才覚である!拍手喝采!途中で中だるみで、やはり一人芝居の焦点のエキス(詩)がそがれた凡庸さがあった。そこをお笑い芸でまるくまとめた。中味は実はとてもシリアスである。ペーソスが流れる。そこを巧みな話芸で笑いをはじかせる演出!最後は一緒にカチャーシーを踊ってお開きになる。戦闘機の爆音が響く中、カチャーシーはそれを跳ね返せるか?

  艦砲の喰えぬくしゃ 作詞作曲:比嘉恒敏がいいね。最初と最後に流れる歌だ。そして平安座島の島唄(口説)が流れる。

スミ子の店(小さな居酒屋)の主の人生物語の筋書きである。北島角子一人が泉とやよいの二人になってしまった。年代は1879年、明治12年(1879年)から100年後の沖縄の、とある居酒屋の主の一人語りのはずの脚本!店に菊之露が並ぶ。(スポンサーになった菊之露さんは聡明だね)

Ⅰ部、スミ子の結婚と夫の長英との物語(豚小屋の前での初対面の場面など笑いがはじける)、友達のとし子の話。戦後の沖縄の貧しさの中で多くの民衆が潜り抜けたであろう生活、島の生活。サバニ大工が基地労働者として駆り立てられていった物語、離島ゆえの悲劇、一人息子の赤子を失う夫婦の哀しみ。米兵に襲われる女性たち家族の悲哀。島に道ができ石油タンク基地になっていった現代沖縄史の矛盾(痛み)、ガジュマルの木で自殺する長英。(名前の漢字があっているかどうか、以前プリントした脚本を見る必要がある)。天皇のご真影、フレームからスミ子の顔!痛烈な風刺がこめられている。『人類館』に類似するメンタリティーがある。

Ⅱ部、スミ子の父親の物語が中心で、コザ暴動までの歴史が語られる。沖縄の政治ヒーロー瀬長亀次郎の写真が柱に掛けられる。日本復帰運動が60年に始まる。瀬長に同志としてついていったスミ子の父は刑務所に収容された時も一緒だった。そして、黒人街と白人街の抗争、その中にまぎれたスミ子がいた。黒人街に身を落とした友達のとし子がいた。コザ暴動がクライマックスだ。

 劇の筋書き(物語)は沖縄の戦後史を縦軸に澄子の家族と身近な者たちの物語を横軸に編んでいる。ある面きわめて政治的なメッセージが強い。台風銀座の沖縄で今年は二度目の台風が襲ってきた7月1日の午後の公演は満席!衆院議員の赤嶺さんや組踊保持者の方、新聞社の関係者、他舞踊家、政治運動家など、顔ぶれは米軍基地に拳を振り上げる人々が多い雰囲気。

泉&やよいコンビの語り口の面白さの反面、独り語りが影のように投影される物語を相棒が補足するので分かりいいが、焦点がぼけた気がした。二人とも民謡歌手でも舞踊家でもないので、歌もとても『お上手』ではなく、踊りも『お上手』ではない。二人の掛け合いのユンタクとなると勢いがいい。早口でまくしたてる。

何気なく呉屋かなめさんをイメージした。彼女なら一人でこのスミ子の店をうまく切り盛りしたのではないかとー。今年3月、フィリピン大学の劇場で、タガログ語で2時間の舞台を一人で演じた女優を思い出した。

二人で分散された劇が全国で巡演されていくことになると思うが、泉&やよいは北島角子にはなれない。

興味深いのは瀬長亀次郎の写真が店の柱にⅡ部からずっと掛っていることだ!←亀さんは、戦後沖縄の闘いの象徴でありつづける!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E9%95%B7%E4%BA%80%E6%AC%A1%E9%83%8E

瀬長 亀次郎(せなが かめじろう、1907年明治40年)6月10日 - 2001年平成13年)10月5日)は、日本政治家ジャーナリスト沖縄人民党幹部。復帰前に、那覇市長(1期)、立法院議員(3期)、沖縄人民党委員長、国政参加選挙で衆議院議員1期。本土復帰後、衆議院議員としては人民党で1期、日本共産党として連続5期。1973年以降共産党幹部会副委員長をつとめた。また、1946年 - 1949年、米軍機関紙「うるま新報」(後の琉球新報)社長を務めた。

 http://www.performingarts.jp/j/data_drama/theater/d-00040.html  ←より以下転載です!謝!あらすじがよくわかります!

Japanese Drama Database
 
Japanese Title: 島口説(しまくどぅち)
English Title: Island Ballad
Author: 謝名元 慶福
Author's Profile: 1942年、沖縄県出身。コザ高校卒業。東京のテレビドラマ研究所に学ぶ。琉球放送、NHK等の放送局勤務と並行し、劇作家として活動を開始。明治から復帰後までの沖縄を舞台に、天皇制や米国といった権力と向き合う民衆の姿を描いた戯曲を数多く発表する。 
1979年、東京のパモス青芸館で、処女戯曲「島口説」を上演し注目される(同年、雑誌『テアトロ』に発表)。同作は再演を重ね、主演の北島角子は1981年度文化庁芸術祭演劇部門優秀賞を受賞。 
その他の戯曲に、種田賞受賞作「朝未来(あさまだき)」(1983年)、「海の一座」(1984年)、「アンマー達のカチャーシー」(1985年)、「風のユンタ」(1987年)等がある。「ハブの子タラー」(1988年)は、劇団文化座が現在も上演を続ける児童演劇の名作。橘祐典(たちばなゆうてん)監督のドキュメンタリー映画「人間の住んでいる島」(1997年)では、企画・制作・台詞に携わる。現在はNHKを退職し、沖縄県在住。
First Performance:   1979
Performance time:    
Acts / Scenes: 2場
Cast: 1人

口説(くどぅち)とは叙事的な長編の歌のことをいう。これは、沖縄戦を生き抜いた女性の一人語りからなる芝居である。彼女の半生を通して、沖縄の戦中・戦後史が浮かび上がる。劇中、沖縄の民謡や踊りが多用され、平和を願う県民の心が胸に迫る。 

復帰から7年後の沖縄。コザ市のある民謡酒場の女主人・山城(やましろ)スミ子は、沖縄言葉をまじえて観光客に自分の半生を語り始める。敗戦直後、17歳で平安座島(へんざじま)へ嫁いだ。与勝半島(よかつうはんとう)の屋慶名(やけな)から、夫と美しい海を歩いて渡った。生活のため米兵相手に売春婦をする友達もいた。夫は山原船(やんばるせん)や捕鯨船(ほげいせん)を造る船大工だった。スミ子は男の子を産むが、台風で本島へ船を出せなかったため一歳で病死した。以来、子供はできなかった。 
やがて米軍基地の建設が開始され、船大工は本島へ駆り出された。建設が終わると、次は基地の見張りを命じられた。労組の結成に伴い、復帰運動は活性化した。夫は運動に参加し、解雇された。島に石油基地が建設され、本島へ繋がる海中道路はできたが、海は汚染された。復帰目前に、夫は生き甲斐を失い自殺した。 

スミ子の父は歌と三味線(さんしん)が得意で、母は陽気で優しい父を愛していた。一家は苦難の道を歩んだ。戦争で防衛隊にとられた父は、国民学校に安置される「ご真影(しんえい)」の護持をきつく命じられた。艦砲射撃(かんぽうしゃげき)のさなか、「ご真影」を抱えて逃げた。父にあらぬスパイ容疑をかける教官が、「ご真影」を奪い取ろうとして、誤って火の中に落とした。その罪を父が被る羽目になった。父を助けようとしたスミ子の兄は、艦砲の破片に頭を飛ばされて死んだ。 

敗戦を迎え、人々はキャンプに収容された。女たちは米兵に強姦される危険に晒(さら)された。島は射爆場に変わった。スミ子の家も軍用地問題の犠牲となった。島ぐるみ闘争も空しく、家は壊された。父は三味線を手に歌いながら他島をまわり、土地接収反対を訴え始めた。共産主義者と誤解され、逮捕されもした。 

島ぐるみ闘争を通じて、県民は次第に自分たちの力に自信を得ていった。鬱積した不満は、コザ反米騒動となって爆発した。若者たちは米人の車両に次々と放火した。あらゆる弾圧に耐えてきた沖縄の人々にとって、復帰運動は生きるための闘いだった。 

1972年、遂に日本復帰が実現した。兄を亡くした時、父は命の尊さを説き、スミ子に三味線を授けた。自らが戦争の証となることを誓い、平和への願いを込めて彼女は歌う。沖縄には今もB52のエンジン音が鳴り響いている。
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2 コメント

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Unknown (富士の山)
2018-07-07 04:15:41
たしかに呉屋かなめさんなら当たり役ですね!北島さんは、お芝居はもちろん、歌、踊りとなんでもこなせる芝居しーでした。やよいさんが琉球舞踊をされていますが、呉屋かなめのほうがピったしでしょうね、、
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そうですよね! (nasaki)
2020-06-10 12:17:56
かなめさん、踊りも最高で、ユーモアも
あります。
彼女を抜擢してほしいですね。
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