志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいても世界とつながる21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

『染屋の恋歌』さすが吉田妙子さんの演出は一味違う。若い頃何回も演じたゆえか、所作にも違いが~!

2023-02-16 22:50:20 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
国立劇場おきなわでリハを観るのは久しぶり。幸喜良秀さんが芸術監督の頃はゲネも観るのも興味深かったが~。昨今は氏が育てた30代から40代の実演家が中心になり頑張っている様子。演劇は本番もいいけれど、実際はゲネがとても面白い。舞台を仕上げていく生き詰まるような緊張感がいい。舞台上の役者と演出と音響、ライト、舞台監督、小道具係などが緊張した思いで、作品を完成させていくその高揚感は何とも言えない。

演出はゲネで役目を終わるような所がある。後は本番を見守ることになる。賽は投げられた。後は役者やスタッフがどのように舞台に真剣に取り組むかのパッションが試される。

指揮者が舞台に立つオケストラとは異なるゆえに~、毎回舞台には変化が現れる。もちろんオーケストラも差異が起こる。何しろ生身の人間が作り出す作品ゆえだ。感情の起伏や緊張関係、身体のリズムに差異が出てくるだろう。万全の体制で表出することは、繰り返されるリハで鍛えられていく。それも、天性の実演家の感性も試されるのだろう。

昨今の実演家は、あれもこれもと多くの公演を兼ねている。ゆえに稽古が夜中の9時から深夜にかけてということもままある様子。一つの本番が終わったら1週間後には次の本番というように、次から次へとこなしていく。

プロデュースの巧みな集団は次々、公演を重ねていく。沖縄は芸能の島だ。観客のキャパは少ないが、公演は盛りだくさん。あれもこれもとパフォーマンスを観ることも限られてくるが、実演家はあれもこれもと、舞台公演に突き進んでいる。舞台に出る回数が多いほど、芸が鍛えられていくということは確かだろうか。舞台慣れと共に、舞台度胸がつき、芸がおのずと磨かれていくだろうか。そのための心身の鍛錬が必要なのだ。実演を繰り返す中で鍛えられる力量もあるが、基本的な声の鍛錬や技の鍛錬も必要なのかもしれない。基礎にある琉球舞踊や歌三線などの鍛錬は日々重要な要素に違いない。
 二枚目でモテモテでキラキラ★の役者が、やはりある程度の技量は見せても其れ以上の魅力を出せないままということもある。なぜか見栄えがよくてキャスティングされる実演家が実は声音が弱く、唱えも歌も普通レベルということもあって、時に興ざめすることがある。

舞台も聞き慣れ、見慣れている観客ほど、その耳目は敏感になっている。ゆえに真に魅力ある唱えや歌が聞きたい。また心をゆさぶるほどの演技が見たいと思う。
 声は大事だ。

 今日観たリハで小嶺和佳子さんの歌の高音の魅力にハットした。彼女は精進していると感じた。以前、歌に不満があったゆえでもある。しかし、今日の彼女の歌は澄んで美しいと感じた。明日の本番が楽しみだ。

また高宮城実人の声や歌は深さがあり、のびがある。声音にこちらまできつい思いをさせる実演家もいる。染屋の職人伊芸武士と砂川博仁は安定した歌唱と息のあった演技で楽しませてくれた。組踊の伝承者でもあるお二人の今後は期待できる。主役の浦太、上原崇弘は新作組踊でも歌劇でも主役を演じる頻度が高い。昨今、声に伸びがないことが気になっている。声の伸びやかさはとても重要だ。どうしたら多くの観客の感性を魅了することができるのか、今一度基本にたちもどってほしい。

ある程度うまくできればいい、では耳目の長けた(多くの舞台を見慣れた)観客を納得させることはできないだろう。魂が震えるような西洋オペラを聴き、能舞台も歌舞伎も視聴する観客の耳目に訴えることのできる琉球歌劇であり、組踊でなければならないはずで、容易でありそうで、そうでもない舞台の厳しさがありそうだ。

以前狂言と組踊の競演があった時、狂言役者に比べて沖縄の組踊役者の声の貧困さにとても驚いたことがある。その時の落差が忘れられない。沖縄伝統芸能の役者の芸はかなりよくなったのだろうか。

東京で舞台を演じることによって、異なる眼差しを浴びて芸が精進することもその通りだろう。芸を晒して晒して鍛えられることも確かに違いない。厳しい批評にさらされることも芸の肥やしに違いない。全身全霊で表現する実演家の道は容易ではないに違いない。テーゲーでいいわけはない。表現するとは芸術なんだ。芸術とは何だろう。普遍的な美であり、夢であり、リアルであり、覚醒するものであり、絶えず求めざるを得ない悠久の実体であり、つかみにくいものかもしれない。生きる力、感動を与えるものであり、人生の世界のエキスでもある。世界の象徴、人生の象徴、結晶、真実、何より悪も善も、悪魔的なもの究極の良心もメタファーとして表現されたものである。


+つぶやき:
以前共同研究した京都の大学の演劇研究者、鈴木先生もご一緒した。大嶺可代さんも15日の講演と鼎談のお疲れもあったかと思うが、ひさしぶりに劇場のラウンジでゆんたくできたのは良かった。
 大嶺さんのウチナーグチでもなく、沖縄方言の表示には違和感が起こったままである。矢野輝雄さんは決して沖縄方言と組踊関連著書に表記していない。琉球語である。氏のスタンスを支持したい。(ただ矢野さんも『沖縄芸能史話』の中で方言芝居として沖縄芝居について書いている。大城立裕さんが沖縄芝居台本に沖縄方言と書いている。氏のコンセプトが変化したかどうか?)。沖縄出身の研究者は沖縄方言である。その指導を受けた芸大の教員や、国立劇場のブレインは沖縄方言で意気揚々としている。最も昨今の芸大のスタンスは、琉球諸語や琉球語表記へと変化があるようだが、実際どうだろうか。ユネスコの組踊の定義をあえてこのブログで紹介した。古語である。古語は首里方言だろうか?やれやれ!

2009年のユネスコの琉球諸語なり沖縄諸語の提言はどうなったのだろうか。国立劇場おきなわ、は方言表記で推進のようで、残念でならない。ウチナーンチュと二回もスライドで表現しているがウチナーグチとは表示しない。県立芸大と国立劇場おきなわはタイアップしているので、どうもコンセプトが同じなようだ。しまくとぅばのネーミングも違和感を持ったままだ。独自性を打ち出せない沖縄の言語文化環境なのかもしれない。紐付き文化運動の推進か。沖縄は日本の中の軍事植民地とはよく言われるが、文化まで植民地的なメンタリティーで推進なのかもしれないね。やれやれ!


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