北廓は明治32年8月、栄町および松ヶ枝町から石坂へと移転してきた。
移転により、位置的にはもはや「北」とはいえなくなったが、そのまま「北廓」の名を使用。
一方、石坂の来歴ははっきりとしない。
最初は、移転してきた北廓が、石坂という別称で呼ばれた場合もあったのかと考えた。
ところが、北廓と石坂を明確に区別している記録を見つけ、別の廓であることが判明。
残念ながら、いまのところ石坂と北廓の区分はわかっていない。
そこで、当面は、石坂と北廓を一括して取り上げることにした。
本項(~次々項まで)の写真は、一部を除き、石坂と北廓のどちらに属するか不明である。
このあたりが北廓であったことは、大正12年の地図から明らかになっている。
あるていど広い道路で形成されている地域が北廓なのだろうか。
上記の道路沿いに残る和風建築。二階ガラス窓の向こう側に雰囲気がある。
二つの入口を持つ、かなりの大店だったと思われる建物。タイルの模様が美しい。
非常に狭い路地に面しており、撮影時はアングルに苦労した。
「広い道路が北廓」という思いつきが正しければ、こちらは石坂ということになるだろう。
同じ物件。一軒の中にさまざまな趣向が見られ、この建物だけで一項目作れそうだ。
右側の窓は、猫の顔にも歌舞伎の隈取にも見えるユニークな造り。
存在感のある和風建築。一階は相当改築されているが、二階には重厚な羽目板が健在。
県道25号線の北側にあるラブホテル。手前が県道25号線。
この県道は売春防止法施行後、旧北廓の東西を貫くかたちで開通した。
つまり、北廓跡は県道の南北に存在する。写真のホテルは転業後の姿かもしれない。
県道を基準に見ると遊廓の大部分は南側になるものの、北側にもわずかに面影が残る。
写真は北側に残る二軒。どちらも窓に特徴のある和風建築だ。
移転により、位置的にはもはや「北」とはいえなくなったが、そのまま「北廓」の名を使用。
一方、石坂の来歴ははっきりとしない。
最初は、移転してきた北廓が、石坂という別称で呼ばれた場合もあったのかと考えた。
ところが、北廓と石坂を明確に区別している記録を見つけ、別の廓であることが判明。
残念ながら、いまのところ石坂と北廓の区分はわかっていない。
そこで、当面は、石坂と北廓を一括して取り上げることにした。
本項(~次々項まで)の写真は、一部を除き、石坂と北廓のどちらに属するか不明である。
このあたりが北廓であったことは、大正12年の地図から明らかになっている。
あるていど広い道路で形成されている地域が北廓なのだろうか。
上記の道路沿いに残る和風建築。二階ガラス窓の向こう側に雰囲気がある。
二つの入口を持つ、かなりの大店だったと思われる建物。タイルの模様が美しい。
非常に狭い路地に面しており、撮影時はアングルに苦労した。
「広い道路が北廓」という思いつきが正しければ、こちらは石坂ということになるだろう。
同じ物件。一軒の中にさまざまな趣向が見られ、この建物だけで一項目作れそうだ。
右側の窓は、猫の顔にも歌舞伎の隈取にも見えるユニークな造り。
存在感のある和風建築。一階は相当改築されているが、二階には重厚な羽目板が健在。
県道25号線の北側にあるラブホテル。手前が県道25号線。
この県道は売春防止法施行後、旧北廓の東西を貫くかたちで開通した。
つまり、北廓跡は県道の南北に存在する。写真のホテルは転業後の姿かもしれない。
県道を基準に見ると遊廓の大部分は南側になるものの、北側にもわずかに面影が残る。
写真は北側に残る二軒。どちらも窓に特徴のある和風建築だ。
コメントありがとうございます。
さっそく航空写真を確認してみました。
真四角のいかにも廓らしい区画がはっきり写っていますね。
これが北廓……ですよね。
対して石坂はいまひとつ判然としません。
北廓に寄り添うような格好で形成された遊里なのでしょうか。
また何かありましたらご教示いただけれるとうれしいです。