昭和5年ごろ、業者数32、娼妓数120

文治という地名はもはや存在しないものの、公民館や電柱にはその名が残っている。
公民館には神社が接しており、何かないかと探したが、遊里との関係を示すものは特になし。

下見板の落ち着いた色と漆喰の純白が対照的な旅館。玄関を傾かせた造りも特徴的だ。
視線を奥へ移すと、右隣の建物とつながっている様子が見て取れる。

謎の物件。料亭のように見えるし、少し手の込んだ一般家屋のようにも見える。

黒壁と赤壁の混在する旅館。旅館というとまっさきに転業旅館を想像してしまうが、はたして。
入口の角度がななめに振られている構えは、先ほどの旅館と共通している。

一見普通の住宅のようでいて、植木に隠れた窓をのぞくと、少し変わった組子細工が現れる。
そのほか、玄関に風流な装飾が施されていたりと、気になる意匠がいくつか見受けられた。

三台分の駐車スペースに三か所の入口。昔は旅館だったのではないかと思えるたたずまい。
しかし、外まわりが修繕されすぎていて、実際にどうだったのかはわからない。

年代物件であることは間違いないながら、遺構かと問われると違うように思えてしまう。
遺構かどうかは別として、下見板や明かり取りといった部位に惹かれてカメラを向けた。


文治という地名はもはや存在しないものの、公民館や電柱にはその名が残っている。
公民館には神社が接しており、何かないかと探したが、遊里との関係を示すものは特になし。

下見板の落ち着いた色と漆喰の純白が対照的な旅館。玄関を傾かせた造りも特徴的だ。
視線を奥へ移すと、右隣の建物とつながっている様子が見て取れる。

謎の物件。料亭のように見えるし、少し手の込んだ一般家屋のようにも見える。

黒壁と赤壁の混在する旅館。旅館というとまっさきに転業旅館を想像してしまうが、はたして。
入口の角度がななめに振られている構えは、先ほどの旅館と共通している。


一見普通の住宅のようでいて、植木に隠れた窓をのぞくと、少し変わった組子細工が現れる。
そのほか、玄関に風流な装飾が施されていたりと、気になる意匠がいくつか見受けられた。

三台分の駐車スペースに三か所の入口。昔は旅館だったのではないかと思えるたたずまい。
しかし、外まわりが修繕されすぎていて、実際にどうだったのかはわからない。

年代物件であることは間違いないながら、遺構かと問われると違うように思えてしまう。
遺構かどうかは別として、下見板や明かり取りといった部位に惹かれてカメラを向けた。
遊廓→赤線
明治40年、新柳町の大火によりこの地へ移転。
昭和4年、業者数21、従業婦数159
昭和21年、業者数13、従業婦数57
以降、売春防止法施行まで存続した。

遊廓はこの近辺にあったという。奥は「日」の字のような整然とした区画になっているが、
遺構らしい遺構はまったくなく、それらしい建物が見られるのはむしろ後方。

入口が三つあるカフェー風の建物。中央の縦長の小窓がおもしろい。

外装はシンプルだが、カフェーの鑑札が残っていた。板で覆われた二階部分が気になる。

上記の右隣の物件。和風建築を改装したような造り。こちらにもカフェーの鑑札が。

気になった建物。相当リフォームされているが、丸窓や扇窓などが残っている。

不思議な外観。よく見ると丸窓も目につく。間取りはどうなっているのだろう。

大胆な石材の使い方に驚いたが、雰囲気から察すると単なる一般住宅かもしれない。
明治40年、新柳町の大火によりこの地へ移転。
昭和4年、業者数21、従業婦数159
昭和21年、業者数13、従業婦数57
以降、売春防止法施行まで存続した。

遊廓はこの近辺にあったという。奥は「日」の字のような整然とした区画になっているが、
遺構らしい遺構はまったくなく、それらしい建物が見られるのはむしろ後方。

入口が三つあるカフェー風の建物。中央の縦長の小窓がおもしろい。


外装はシンプルだが、カフェーの鑑札が残っていた。板で覆われた二階部分が気になる。


上記の右隣の物件。和風建築を改装したような造り。こちらにもカフェーの鑑札が。


気になった建物。相当リフォームされているが、丸窓や扇窓などが残っている。


不思議な外観。よく見ると丸窓も目につく。間取りはどうなっているのだろう。

大胆な石材の使い方に驚いたが、雰囲気から察すると単なる一般住宅かもしれない。
温泉街にできた遊里。
行政資料に記録がないことから、青線的な位置づけだったのではないかと思われるが、
真相は定かではない。
現地はいかにもひなびた温泉街といった風景。
こういうご時世だから、さすがに景気がよさそうには見えなかったものの、年配のグループ
や合宿とおぼしき学生たちなど、団体客がそれなりに来ているようだった。

入口のあたり。提灯が飾られている。

湯村温泉旅館協同組合。

カフェー風にも見えるが、かなり改装されており、実際はなんともいえない。

真っ赤な欄干が目を引く。奥の一軒だけのための橋にしては、その豪華さに驚かされる。
建物の淡い色彩とあいまって艶っぽいたたずまいだ。

温泉街から少し外れた住宅地に、妙に道路の広い一画がある。
ひょっとしたら昔は……と期待しつつ歩いたが、遊里の痕跡はまったくなかった。

バルコニーに特徴のあるスナック。遺構にしては新しすぎるか。

路地に入ると古い一軒家が残っていたりした。
行政資料に記録がないことから、青線的な位置づけだったのではないかと思われるが、
真相は定かではない。
現地はいかにもひなびた温泉街といった風景。
こういうご時世だから、さすがに景気がよさそうには見えなかったものの、年配のグループ
や合宿とおぼしき学生たちなど、団体客がそれなりに来ているようだった。

入口のあたり。提灯が飾られている。

湯村温泉旅館協同組合。

カフェー風にも見えるが、かなり改装されており、実際はなんともいえない。

真っ赤な欄干が目を引く。奥の一軒だけのための橋にしては、その豪華さに驚かされる。
建物の淡い色彩とあいまって艶っぽいたたずまいだ。


温泉街から少し外れた住宅地に、妙に道路の広い一画がある。
ひょっとしたら昔は……と期待しつつ歩いたが、遊里の痕跡はまったくなかった。

バルコニーに特徴のあるスナック。遺構にしては新しすぎるか。

路地に入ると古い一軒家が残っていたりした。
遊廓
明治30年2月4日、中央線敷設工事の作業員向けに遊廓許可
明治33年、業者数6、娼妓数32
明治35年、業者数6、娼妓数26
大正14年、業者数3、娼妓数16
昭和4年、業者数3、娼妓数19
以降、昭和20年の公娼制度廃止まで存続。
なお、上野原には戦後、RAA(特殊慰安施設協会)の施設ができたという。
この施設が、関山新地から移行したものなのか、別の場所に新設されたものなのか、
現時点ではわかっていない。

「関山」という地名は消滅しているが、いまもバス停や電柱にその名を見ることができる。

大鷲神社前の通り。妓楼が建っていたのはこのあたりではないかと思われる。
しかし、妓楼とおぼしき建物は、周辺を歩いても見あたらなかった。

古い平屋建築。右のポール看板には「旅館中屋 駐車場」と記されている。

「中屋」の本館。転業旅館であろうか。

気になった灯籠。関係ないとは思うが、一応掲載。
明治30年2月4日、中央線敷設工事の作業員向けに遊廓許可
明治33年、業者数6、娼妓数32
明治35年、業者数6、娼妓数26
大正14年、業者数3、娼妓数16
昭和4年、業者数3、娼妓数19
以降、昭和20年の公娼制度廃止まで存続。
なお、上野原には戦後、RAA(特殊慰安施設協会)の施設ができたという。
この施設が、関山新地から移行したものなのか、別の場所に新設されたものなのか、
現時点ではわかっていない。


「関山」という地名は消滅しているが、いまもバス停や電柱にその名を見ることができる。

大鷲神社前の通り。妓楼が建っていたのはこのあたりではないかと思われる。
しかし、妓楼とおぼしき建物は、周辺を歩いても見あたらなかった。

古い平屋建築。右のポール看板には「旅館中屋 駐車場」と記されている。

「中屋」の本館。転業旅館であろうか。

気になった灯籠。関係ないとは思うが、一応掲載。