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もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

天気予報の中毒症状

2009年09月22日 | バリ
 バリの雨は、いったい降り始めるといつ止むのだろうか――もしかすると私がバリを離れるまでずっとこんな天気が続くのではないだろうかと――という不安な気持ちにさせる。その理由はわかりきっている。この雨が天気予報に支配されていない「雨」だからだ。今の私の生活は放送メディアから完璧に切り離されている。部屋にはテレビもラジオもない(ついでにCDも携帯用の音楽プレーヤーも持っていない)。部屋にいると遠くで吠える犬の声だとか、バイクの爆音とか、一日数回、規則的に風にのってやってくるモスクのから流れるアザーンとか、葬式に演奏されるガムランの音色とか、そんな種類の音しか身辺には存在しない。
 こういう生活をしていると、ぼくは天気予報のおねえさんやおにいさん――例外的であるが、弟にそっくりな紳士もテレビのスクリーンに登場する――が作り出した天気に完全に支配されて、踊らされ、振りまわされていることに気づく。「明日は雨」といわれれば、そうであると信じ、雨が降らなければ「天気予報がはずれた」と考えればいいだけだ。自らの思考はそこにはもはや存在しない。彼ら、彼女らの語りが、あらゆる天気に関する不安を一時的に麻痺させてくれる。今日、雨が降っていても「明日には止む」という言葉を固く信じて雨を見つめる。
 天気予報をあえて聞かなくても見なくても、ぼくは天気予報を、毎日1リットル以上は飲むであろう透明な水のように、知らぬ間に体のどこかにとりこんでいるわけだ。そして今の状況のように天気予報という「水分」の補給ができなくなったとき、それは「不安」という中毒症状となって表出される。そうだ、ぼくは知らないうちに天気予報中毒になって、知らぬ間にそれなしでは生きていけない体になってしまっているのだ。(8月31日、タバナンで記す)


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