京都の四条通りを八坂神社に向かって歩いていくと、鴨川の手前に高瀬川が流れている。といっても、四条通りから見える高瀬川は、夜になれば歓楽街のネオンに埋没してしまう。昔は大阪から京都の町にこの運河をとおってたくさんの船が出入りしていたなんて全く想像もつかない。
中学三年のとき、幕末史の興味を持ち、このあたりを歩いたのが人生初めての高瀬川との出会いだった。四条から二条まで木屋町通りを高瀬川沿いに歩くと、幕末史と関わる実に多くの石碑が立っている。佐久間象山、大村益次郎が刺客に襲われた場所とか吉村寅太郎の寓居跡だとか、とにかくお店の脇や、高瀬川沿いに大小の石碑がひっそりとたたづんでいるが、ほとんどの人はそんなものに気がつかない。
15歳のときから、すでに数十回この道を歩いていたが、まったく気づかなかったことが一つ。実は一つ目の舟入が残っているということである。坂本龍馬は木材商酢屋の二階を海援隊の京都本部として使い、そこから「五の舟入」を眺めていたというが、酢屋のそばにあった舟入はとっくに埋め立てられて存在しない。私は舟入はもうすべてなくなったものと思い込んでいたのだ。
実は注意深く歩かないと「一の舟入」が現存していることには気がつかない。なぜなら日本銀行の建物が邪魔をしてよく見えないのである。日本銀行の敷地内、あるいは銀行のビルの上からならよくわかるのだろうが、さすがに日本銀行の敷地には入れない。今回、高瀬川側から「一の舟入」を初めてのぞいてみた。たくさんの船が幻のように目の前を通り過ぎていく。高瀬川の水音がこころなしか大きく聞こえるようだ……。
中学三年のとき、幕末史の興味を持ち、このあたりを歩いたのが人生初めての高瀬川との出会いだった。四条から二条まで木屋町通りを高瀬川沿いに歩くと、幕末史と関わる実に多くの石碑が立っている。佐久間象山、大村益次郎が刺客に襲われた場所とか吉村寅太郎の寓居跡だとか、とにかくお店の脇や、高瀬川沿いに大小の石碑がひっそりとたたづんでいるが、ほとんどの人はそんなものに気がつかない。
15歳のときから、すでに数十回この道を歩いていたが、まったく気づかなかったことが一つ。実は一つ目の舟入が残っているということである。坂本龍馬は木材商酢屋の二階を海援隊の京都本部として使い、そこから「五の舟入」を眺めていたというが、酢屋のそばにあった舟入はとっくに埋め立てられて存在しない。私は舟入はもうすべてなくなったものと思い込んでいたのだ。
実は注意深く歩かないと「一の舟入」が現存していることには気がつかない。なぜなら日本銀行の建物が邪魔をしてよく見えないのである。日本銀行の敷地内、あるいは銀行のビルの上からならよくわかるのだろうが、さすがに日本銀行の敷地には入れない。今回、高瀬川側から「一の舟入」を初めてのぞいてみた。たくさんの船が幻のように目の前を通り過ぎていく。高瀬川の水音がこころなしか大きく聞こえるようだ……。