山口仲美「日本語の歴史」岩波新書2006
日本語(やまとことば)
苔と登の区別が付きましたので、整理しておきます。
通常、「やまとことば」は、大和言葉と記載されていますが、日本語を漢字で「にほんご」と読んでも、訓で「やまとことば」と読んでも、同じ事です。
なぜならば、
神代紀の初めに、日本と書いて耶麻騰(やまと)と定義していました。
旧唐書日本伝は、国号を倭(やまと)から日本(にほん)あるいは(ひのもと)へ変更した。日出る処に近いからという。
この記事は「へん」ですが、日本そのものの読み方を換えたに過ぎません。
唐代の670年、倭国は、慶州新羅を介して、唐へ使者が行きます。この時、国号の倭を改め、呼称を日本(にほん)と変更します。
(経緯は、南扶余(三国史記百済)が滅び、大倭国は、唐・新羅の危機に立つ。天智天皇は、外敵を畏れ、筑紫に山城を築き、萩市見島に、見張り台を築く。
668年、高句麗が滅んだので、慶賀のため、慶州新羅を介して唐へ朝貢して、修復しています。使者は河内鯨でした。)
大和の登場
元明天皇(在位707~715)の時点で、倭と通じる和を採用し大を付けて大和と書くように定められた。(国語辞典・大辞泉)
大和の漢字の初登場です。
元明天皇・和銅5年(子年712年)9月3日
朕(元明天皇)は聞いている。古老が教えていうには、子の年は穀物の稔がよくない。それなのに、天地が助けてくれて、今年は大いに稔った。
古の賢者の言で「祥瑞がいくら良いといっても、豊年に勝るものはない」とある。
伊賀国国司の阿直敬(アチケイ)らが献じた黒狐は、祥瑞を説いた書物でも上瑞とされている。その文に云うには「王者の政治が世の中をよく治めて、平和な時にあらわれる」とある。
朕は、万民とこの喜びをともにしたいと思う。
天平勝宝9年(757)
経緯は、大倭、大日本、大養徳、大倭国そして大和国ですが、みな「おほやまと」という。正式には、天平勝宝9年(757)から大和国です。
倭と日本
ところで、景行天皇の時代、「倭と日本」は、倭建尊(古事記)、日本武尊(日本書紀)の表記でした。どちらも「やまと」と読んでいます。
おかしな国の日本。狐につままれたタヌキの顔。
どんな顔をしているのでしょうか。
唐は、倭の使者が情に通じない。つまり倭と日本の区別経緯を仔細に云わない。そして明確にしないので、唐の高宗は疑っていました。
ところが、唐代の註釈家・顔師古は、如墨委面の解釈において、前漢時代の倭国を漢音で「カコク」と明確に解いていました。(呉音では、ワコクです)
決定的な記事は、魏志の編者・陳寿(ちんじゅ)が、倭人伝において、大倭は、夏王朝の6代目少康の庶流と明紀していた。
大倭、大日本は、同じですが、具体には、大八洲(おおやしま)でした。
九州の筑紫島は、倭国と記し、大倭と区別していた。
倭国は、大倭(大八洲)の中の一洲であったのでした。
証拠は、九州倭国が隋以前まで、支那の天子へ遣使していた経緯があります。
隋以前、直接、天皇に遣使させないのです。間接的遣使でした。
南宇佐の卑弥呼が、238年、魏に使者を送ったのも、間接遣使です。
この傍証は、
景行の高屋神社での歌謡にあった。(夜摩苔と夜麻登の区別)
漢字音、夜摩苔(やばたい)・・・カナで、やばた(矢幡あるいは八幡)
景行天皇は、狗神(くじ)の狗奴と卑弥呼を褒めていた。
古事記の日本武尊の歌
漢字音、夜麻登(やまとう)・・・カナで、やまと(倭あるいは日本)
さらに、漢字音の問題がありました。
景行紀の、苔(タイ)のタ音ですが、騰(トウ)のト音と、区別されていた。
神武紀の、歌謡・愛彌詩(あびし)においても、苔は、タ音でした。
タ行の万葉仮名
タは、多。トは、止。上記の「日本語の歴史」では、片カナを作るのに、漢字の筆跡の一部を当てはめているので、これでよい。
しかし、以前からの古代歌謡は、漢字音を日本語の音に当てました。
タ行の音は、苔[タィ]をタ音、登[トゥ]をト音に当てているのです。
以下は、タ音の使用例を再携します。
景行の歌のタ音:苔
夜摩苔波、区珥能摩、倍邏摩、多々儺豆久、阿烏迦枳、
夜摩許莽例屢、夜摩苔之于屢破試。
(意訳)矢幡は、狗神の祀り場、原葉(はるば)の畳(たたな)づく青いカシに、
かげろうが籠れて、八幡はうるわし。
愛彌詩の歌のタ音:苔
愛氵彌詩烏、毘亻嚢利、毛毛那比苔、比苔破易陪廼毛、多牟伽毘毛勢儒
(意訳)安日詩、烏日鳥、桃(遠)退いた、直生え歯(鬼歯)どもは、手向かいもせず。
日本語は、「どこ」から来たのか、そして「どう」なったのか。
「どう」なったという書物は沢山あれども、
未だに、「やまと」の原義を正確に解いた学者は、居らないとみています。
「どこ」の追求をした学者は、少数です。
中国中原の西にいた胡族の内、トルコ系の連中が、漢字文法をあたかも和風漢文のように、記す。七海は、「此処」に関心があります。
「どう」なったと言うのは、上記二つの歌、そしてカタ仮名の創作でも解るのです。
鵺(ヌエ)という鳥は、トラツグミとか。化け物は、頭がどこで、尻尾がどこかわからない。そういう議論をしているのではないか。
仮名に対するは、真名(漢字)ですが、この関係は、明治の初めでも、有識者は、漢文で書いていました。
ここに、答えのひとつが見え隠れします。
あとがき
大和朝庭
応神・仁徳紀を、大和朝庭という学者がいます。
大和朝庭は、学者の造語ですが、応神・仁徳を河内大王家とも言っています。
はたして、正確な表現でしょうか。
15代応神天皇の時代は、大倭、大日本ですが、43代元明天皇の時に、初めて大和の表記ですから、完全に時代が「ズレ」ています。
したがって、このような専門造語は、一般読者を惑わすシロモノでした。
まして、歴史学者が、こういう事を書くこと自体おかしいことを、われわれ後学は、再考しなければならないのです。
また、天照大神を、はじめは、地方神であったという的外れの学者がいます。
これも、痴呆神、否、痴呆学者です。
なぜならば、記紀の神代をすっ飛ばしているからです。天照大神は、日本エリアの天を覆う神、神代紀で19代の天王です。スサノオは18代の天王でした。(宋史に登録)
2011・11・15追記
日本語を話す連中は、何処から来たかと云う前に、何処に居たかを考えねばなりません。1万年前からこの列島で話されていた。(吉田金彦)
青森県青森市の山内円山遺跡は、前5500~前4000年には、栗の大木があった。
つがる市亀が岡遺跡の遮光埴輪。八戸市の是川遺跡の和弓出土。
主語、目的語、動詞の語順は、この頃から在るのではないか。
また、日本語は、話し言葉が先にあって、言語学者は、文法上、アルタイ語の類と看做された。
諸説あれども、山口仲美は、モンクメール語の上に、中原の北の戎や狄が被さってできたと簡単に触れています。追求すれば切りが無いからです。
七海は、簡単な話し言葉があって、その上に、漢字が来て、訓読して、熟語が豊富になった。
漢字は表音文字かつ表意文字、アルファベットは、表意文字の違いです。
表意文字を頭の良すぎる日本(やまと)人が訓をつけた。つまり今日の翻訳です。
話し言葉の音を文字にする場合、梵語の音と漢字の一部を使い、カタ仮名文字ができた。梵語を漢訳する方法に似ています。
以上、単順に考えています。