どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国ーー10・1倭女王卑弥呼発見なるを変更しました。

卑弥呼の墓の新発見、王都の位置、本名および魏志倭人伝の解明について書きつけます。

震旦国と鏡製作地

2011年11月03日 06時03分03秒 | 
震旦国と鏡製作地

問題は、震旦国に関連して、意外な方面に進展します。
震旦国の表記は、日本古代史を掘り下げるための大問題です。

熊野本宮大社の落慶と震旦国の大日婁女の来日。
七海は、この問題に関心があります。

梁書諸夷伝・盤盤国の条
梁の武帝、大通元年527年、
盤盤国王(タイのバンドン湾の国)が武帝に奉じた上表文あり。
梁の武帝を「揚洲・閻浮提・震旦の天子」と呼んでいる。
揚洲:江蘇省揚洲市(建業)、閻浮提:エンブダイ。
震旦は、古代のインド人が呼ぶ支那のことです。

陳国
前11世紀、周王朝の武王は、帝舜の子孫・胡公満(陳満)を陳国に封じた。
本名は、嬀満、氏名は陳満です。
陳氏の姓は、胡(えびす)の嬀姓でした。春秋末に楚に滅ぼされた国です。
ずっとのちには、梁王朝を引き継いで、南北朝時代の最後の王国として、中国南部に陳という国(557~589)を立てます。

日本の俀国(たいこく)
俀国は、南朝の歴代「晋・宋・斉・梁・陳」に絶えることなく、朝聘してきた。(北史俀国伝)
(七海注記)
この晋は東晋(317~420)ですが、西晋には馬韓等を通して10回ほど朝貢しています。
俀国は女王国をさす。東晋以降の九洲俀国は、男王です。
なぜか判らないが、女王を担いでいますが、誰でしょうか。
年代では、神功皇后摂政の頃でした。

奈良大倭国は、推古天皇が隋になって初めて公式に遣使した。(隋書俀国伝)

また、嬀姓とは、末盧国の盧氏も嬀姓であるから陳氏と親族です。

以上は、陳氏の経緯ですが、
239年、熊野本宮大社が落慶します。(熊野本宮大社縁起)239年:七海推定。
この頃、震旦国の陳大王の娘大日婁女(おおひるめ)が7才で懐妊、鎮西(九州)、石鎚山を経由して、紀伊の熊野本宮へ来ていました。(鏡の刻字の、母人と保子と関係します)
また、熊野本宮大社の元宮は、島根県熊野神社です。
神原神社古墳には、三角縁神獣鏡が出土しています。

陳是作鏡の銘の入った鏡は、次の出土がありますが、景初3年銘の入った鏡は、次の二枚(面)のみです。

景初三年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡 1面、(239年):神原神社古墳出土。
景初三年陳是作銘画文帯同向式神獣鏡 1面、(239年):和泉市黄金塚古墳出土。
景初四年陳是作銘斜縁盤龍鏡 同型2面、(240年ですが、239年12月に改歴し、翌年は、正始となり、事実は、景初4年はない)
正始元年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡 同型3面 、(240年)

(1)神原神社古墳の銘文
「景初三年、陳是作鏡、自有経述、本是京師、杜地命出、吏人銘之、位至三公、母人銘之、保子宜孫、寿如金石兮」
(七海注記)
陳是という人物が鏡を作った。
自有経述:おのずと(もとこれ京師の)先人を継ぐ。
(京師:鎮西の豊前京都郡(みやこ郡)を含むか?)
杜地:人名? 命出:生子に教え。
11月12日追記(杜地は、命、出ず。この部分は和風漢文)

吏人(官吏)がこれを銘ずれば、三公(官名)の位に付き、母人が銘ずれば、
保子、孫に宜しい。金石のごとし、ことぶぐ。
以上は、
男にとっては、出世の事。母人にとっては、子や孫に宜しいという。
直接の契機は、陳大王の娘と子を指しての延喜でしょう。

(2)三角縁銘帯四神四獣鏡
黒塚古墳22号鏡(奥野正男の分析による同系統の鏡)
1、兵庫県神戸市西求女塚古墳(M9)
2、京都府山城町椿井大塚山古墳(M5)
3、奈良県河合町佐味田宝塚古墳
4、岐阜県岐阜市三輪太郎丸内山一号墳
(銘文)
「新作明竟、幽律三剛、銅出徐州、彫鏤文章、配徳君子、清而且明、左龍右虎、傳世右名、取者大吉、保子宜孫」(右回り) 同型鏡(樋口24号鏡に同じ)

上記の文字
彫鏤文章⇒彫文刻鏤とする。
取者大吉⇒服者大吉とする。

(訳文)
新たに明鏡を作る、幽律三剛、徳ある君子に配すれば、清にして且つ明なり。
銅は徐洲に出で、師は洛陽に出ず、文を彫り鏤を刻めば、皆文章と作る。
左龍右虎、師子に名あり、服する者は大吉なり、長く子孫に宜し。(北京大学・林梅村「獅子の来た道」河上洋介訳)

七海の問題意識
師子は、狻猊(さんげい):ライオンです。
後漢の章帝の章和元年(87年)、月氏国が扶抜・師子を献ず。
「師子に名あり」は、日本で、神社の狛犬のことでした。
日本への狛犬渡来時期は、魏晋の時代です。

問題1
彫文刻鏤あるいは彫鏤文章とは、何でしょうか。
漢字を使う洛陽人は、こんなことを書く筈がありません。
11月12日追記(神原神社古墳の銘文には、和風漢文あり)
問題2
師は洛陽に出たとするが、尚氏の工房です。しかし、尚氏が師匠(元祖)であっても、洛陽の魏の工房で作ったとは限らない。なぜならば、問題1があるからです。
したがって、日本で作った可能性が高い。なぜならば、すでに旧前原市平原古墳で、国産の内行花文鏡が既に出土しています。

末盧国の盧氏の姓は嬀姓。
陳氏の娘も嬀姓だから、盧氏が作ったのではないか。
それも、福岡県春日市の工房群の可能性が高いのではないか。

卑弥呼が魏から貰った鏡100枚は、正始元年に倭国へ届いているから、魏が239年に作ったものです。
ところが、同じ年の239年に、日本では、三角縁神獣鏡を作った。

これらの事から、陳是作鏡のものは、熊野信仰の始まりとみなします。

なぜならば、三角縁画文帯神獣鏡の鏡は、その後も作られているからです。
三角縁系統の鏡はすでに500枚を越えて出土した。
また、椿井大塚山の鏡には、「買者」という漢字が入っていた。
「買者」と記載する鏡
魏の明帝がいう汝の好物の鏡は、卑弥呼が貰い受けたものだから、魏の製作鏡では買者が入る筈がないといえます。

では、全長94mの和泉市黄金塚とは、誰の墓でしょうか。
やはり、考古学で4世紀前半というから、陳大王の娘の墓ではないか。
年令、年代が適合します。

七海特記
卑弥呼の使者難升米は、238年6月に帯方へ行き、238年12月8日に明帝が病の床に付くまでに接見しています。238年は13カ月あります。
この件は、晋書が裏付けています。
司馬宣王は、公孫氏を平らげた。也、其の女王(卑弥呼)は遣使し、帯方に至って朝見してきた。(七海注記)也:加えての義です。
(原文)宣帝之平公孫氏。也、其女王遣使、至帯方朝見。

また、魏は、正始元年(240)、帯方太守弓遵の部下・梯儁(テイシュン)が詔書と印綬をもって来ています。このときに、銅鏡100枚が入った。
依然として卑弥呼の鏡は不詳です。

追記

伊勢市礒宮神社・・・・北緯34度31分10秒
和泉市黄金塚古墳・・・北緯34度30分51秒・・・19秒の差
この二つの緯度は、何を物語るのでしょうか。
礒宮の祭神は天照大神
礒宮は、垂仁の娘・倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて、宮川の上流の伊勢神宮に決める前の最初の場所です。
天照大神は、金星(ヴィーナス)ですが、女性の鑑(かがみ)でもあります。
おそらく、末盧國の盧氏が、保子、孫に宜しいというから、明けの明星:天照大神を立てていると思われてなりません。
また、緯度の差、19秒は、愛きょうであって、ぴったり合えば、気味が悪いと思います。




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