穴戸の伊都都比古
山口県の長門あたりを穴戸という。戦艦長門の名称にもなった有名な地名です。山口県全体は、旧長門国でした。また、魏志の裸國・黒歯國は、萩市を代表にしているから、この連中とも考えられます。しかも、長登銅山をもつ旧美東町は、高度な技術をもつ精錬銅の奴さんです。
拘奴國から倭種へ と記すからには、悪神を信じる連中がいます。
後世、この辺りは、熊毛郡、周防國、津の国造、
萩市あたりは、阿武(アム)国造です。長門は、長門国造でした。
垂仁二年(240年代)の記事
任那王子が穴戸で伊都都比古に、出くわす。
比古は、自分が子の國の國王で、二人といない。他所に行くな、・・・
王子は、ひと目見て違うと思い、航路を出雲、敦賀、近江経由で、
大倭に入ったが、崇神天皇は既に崩御していた。
・・・帰途、新羅に土産を取られる。
これが、任那と新羅の抗争の始まりと。(以上日本書紀)
問題の記事ですが、解釈します。
伊都都比古は、逸都彦都とも記す。当時の伊都國は、一大率がいて、卑弥呼に統属しています。
後漢時の拘奴國は、山口県美東町で、魏の時、倭種と記す。
なぜか、・・・・
注記
美東町(現美祢市):もと長登銅山の遺跡あり。大仏鋳造の銅の供給地
拘奴も倭種であるが、魏志では、倭種國とせず、倭種とする。またしても、國が空になっている。
南韓では、すでに拘邪から狗邪に交代している。(歴韓國:クヌギ韓國が、168年、狗邪になり、拘邪が抜けて空になった。)
なおかつ、奴國1と奴國3のエリアの統治は、狗奴、拘奴、卑弥呼の順に変遷しています。
そのエリアは、末盧國を含めて、卑弥呼が統属しているが、
美東町は、後漢時の拘奴から、魏の時、倭種ですから、拘奴がはずれて、しかも國がつかず、狗奴の表記もなしです。
そして、狗奴國は、豊後高田市から東の国東半島や四国にいるから、
いかに解釈できるのか。難題です。
この件は、狗奴が後ろで糸をひいているものと、解さないと、この問題は解けないと、思っています。
この証拠は、次の5点と考えます。
1 難升米が九州にいて、伊都國深江に一大率、邪馬壹國に、彌馬獲支ほか三人の官が居る にも拘らず、相交伐の戦闘で千人が死す。(247年)
これは、九州外からの攻撃でしょう。拘奴か狗奴のほかには、該当しない。
2 任那王子は、帰途、土産を取られたのは、穴戸でしょう。
新羅に取られたというのは、おかしい。任那と新羅を敵対させて、漁夫の利を得ようとす る逸都彦の仕業と見ます。
3 壹與の土産は、白珠5、千孔青大の句珠2枚。これは、枚の省略です。
千孔青大の大は、狗とすれば、狗が幽(かくれ)ていると、みます。
しかも、狗奴國の長官は、傀儡(クグッ)ですから。
4 末盧國の官を魏志では、記載なし。書くと、拘から狗に代わったのが、ばれてしまい、 ヤバイからです。
みな、頭を取って、奴國としたのです。
5 奴國1の戸数が、ニ万戸とあるのは、異常で、168年当時の拘奴國の戸数でしょう。
拘奴の王統は、まだ続いていて、穴戸に居たと見なします。
ゆえ、168年、伊都國を逸した逸都彦、またはそのあと継ぎです。
上記3は、狗が支援している。決定的な根拠です。
ここに、拘奴國王は、伊都都比古とみなします。
官は、拘右智卑狗(くうちひこ、呉音)です。
狗撃ちとみれば、狗奴の敵対者です。朝鮮の歴史・三国史記の新羅本記に、倭兵、倭人が、しきりに攻めてきますが、拘奴の仕業と思います。
なお、魏志では、編者・陳寿の考えも入っていますが、文面の情報は、倭人が申告していると見ます。いわば、中国史書は、周りの国の登記所のようなものと、考えています。決して、陳寿の杜撰(ずさん)記事では、ありません。・・・よく読めば、解ることです。
注記 千孔青大
狗奴國の王名は、卑弥弓呼素(ひみっこそ)でした。
比較すると、せんこそだい。こそ が共通です。
これ、姫杜社、比売語曾神社の「こそ」と同じですから、新羅:新盧です。
多分、新羅大明神スサノオを担ぐ連中で、狗奴王名の異表記とみます。
(姫杜社:小郡市大崎町。比売語曾神社:国東の姫島:天日矛の妻の故地)
大を狗にすると、せん、こそく。・・・なんとまあ、変わった連中です。
(以下の4行は、七海の単純ミスです。2・27訂正し、削除して下さい)
千=百乗百・・・際限なし。(乗は掛け算式の×記号です)
なにー・・・・・おわりなし!!!
薄情百(伯)
やっとられん。寿限無さん。時限無さん。じゅげむさん。
山口県の長門あたりを穴戸という。戦艦長門の名称にもなった有名な地名です。山口県全体は、旧長門国でした。また、魏志の裸國・黒歯國は、萩市を代表にしているから、この連中とも考えられます。しかも、長登銅山をもつ旧美東町は、高度な技術をもつ精錬銅の奴さんです。
拘奴國から倭種へ と記すからには、悪神を信じる連中がいます。
後世、この辺りは、熊毛郡、周防國、津の国造、
萩市あたりは、阿武(アム)国造です。長門は、長門国造でした。
垂仁二年(240年代)の記事
任那王子が穴戸で伊都都比古に、出くわす。
比古は、自分が子の國の國王で、二人といない。他所に行くな、・・・
王子は、ひと目見て違うと思い、航路を出雲、敦賀、近江経由で、
大倭に入ったが、崇神天皇は既に崩御していた。
・・・帰途、新羅に土産を取られる。
これが、任那と新羅の抗争の始まりと。(以上日本書紀)
問題の記事ですが、解釈します。
伊都都比古は、逸都彦都とも記す。当時の伊都國は、一大率がいて、卑弥呼に統属しています。
後漢時の拘奴國は、山口県美東町で、魏の時、倭種と記す。
なぜか、・・・・
注記
美東町(現美祢市):もと長登銅山の遺跡あり。大仏鋳造の銅の供給地
拘奴も倭種であるが、魏志では、倭種國とせず、倭種とする。またしても、國が空になっている。
南韓では、すでに拘邪から狗邪に交代している。(歴韓國:クヌギ韓國が、168年、狗邪になり、拘邪が抜けて空になった。)
なおかつ、奴國1と奴國3のエリアの統治は、狗奴、拘奴、卑弥呼の順に変遷しています。
そのエリアは、末盧國を含めて、卑弥呼が統属しているが、
美東町は、後漢時の拘奴から、魏の時、倭種ですから、拘奴がはずれて、しかも國がつかず、狗奴の表記もなしです。
そして、狗奴國は、豊後高田市から東の国東半島や四国にいるから、
いかに解釈できるのか。難題です。
この件は、狗奴が後ろで糸をひいているものと、解さないと、この問題は解けないと、思っています。
この証拠は、次の5点と考えます。
1 難升米が九州にいて、伊都國深江に一大率、邪馬壹國に、彌馬獲支ほか三人の官が居る にも拘らず、相交伐の戦闘で千人が死す。(247年)
これは、九州外からの攻撃でしょう。拘奴か狗奴のほかには、該当しない。
2 任那王子は、帰途、土産を取られたのは、穴戸でしょう。
新羅に取られたというのは、おかしい。任那と新羅を敵対させて、漁夫の利を得ようとす る逸都彦の仕業と見ます。
3 壹與の土産は、白珠5、千孔青大の句珠2枚。これは、枚の省略です。
千孔青大の大は、狗とすれば、狗が幽(かくれ)ていると、みます。
しかも、狗奴國の長官は、傀儡(クグッ)ですから。
4 末盧國の官を魏志では、記載なし。書くと、拘から狗に代わったのが、ばれてしまい、 ヤバイからです。
みな、頭を取って、奴國としたのです。
5 奴國1の戸数が、ニ万戸とあるのは、異常で、168年当時の拘奴國の戸数でしょう。
拘奴の王統は、まだ続いていて、穴戸に居たと見なします。
ゆえ、168年、伊都國を逸した逸都彦、またはそのあと継ぎです。
上記3は、狗が支援している。決定的な根拠です。
ここに、拘奴國王は、伊都都比古とみなします。
官は、拘右智卑狗(くうちひこ、呉音)です。
狗撃ちとみれば、狗奴の敵対者です。朝鮮の歴史・三国史記の新羅本記に、倭兵、倭人が、しきりに攻めてきますが、拘奴の仕業と思います。
なお、魏志では、編者・陳寿の考えも入っていますが、文面の情報は、倭人が申告していると見ます。いわば、中国史書は、周りの国の登記所のようなものと、考えています。決して、陳寿の杜撰(ずさん)記事では、ありません。・・・よく読めば、解ることです。
注記 千孔青大
狗奴國の王名は、卑弥弓呼素(ひみっこそ)でした。
比較すると、せんこそだい。こそ が共通です。
これ、姫杜社、比売語曾神社の「こそ」と同じですから、新羅:新盧です。
多分、新羅大明神スサノオを担ぐ連中で、狗奴王名の異表記とみます。
(姫杜社:小郡市大崎町。比売語曾神社:国東の姫島:天日矛の妻の故地)
大を狗にすると、せん、こそく。・・・なんとまあ、変わった連中です。
(以下の4行は、七海の単純ミスです。2・27訂正し、削除して下さい)
千=百乗百・・・際限なし。(乗は掛け算式の×記号です)
なにー・・・・・おわりなし!!!
薄情百(伯)
やっとられん。寿限無さん。時限無さん。じゅげむさん。