
(角川書店刊。)
狩猟採集民族には、野生動物はペットなぞではなく端的に食糧に見えた。腹がすけばどうしてもそれらを獲りに行かなくてはならない。それは朝時間どおりに会社に行くといった抽象的な義務ではなかった。
獲れた獲物は部族内で平等に分けられた。それはルールとか掟といったものではなく、部族が生き延びるための自然な行為だった。
「場の空気」を読む必要もなかった。普通に獲物を獲り、普通に分配するだけですべてが済んだ。空気を読んで駆け引きをするのは、余剰がある場合に必要なことであって、その日暮らしの狩猟採集民族にはそもそも余剰がなかった。
現代では空気が読めて、相手の出方をおもんばかり、結果として余剰を多くかすめとる高度な手練手管が必要である。それは余剰があるから、すなわち現代が農耕社会だからである。
何年か前、KY(空気が読めない)という造語が流行語大賞に選ばれた。現代においては、駆け引きや腹芸によって余剰をぶんどるための「空気を読む」という技術が尊ばれているからである。余剰にあふれた現代農耕社会では、必然的にそうなる。
KYとはどうも嘲りの言葉のようだが、私が尊敬する人の多くがKY的なのはなぜだろうか?冒頭に示した本の表題がやはり正解なのだろうか?