院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

サマータイムを「ゆう活」と言い換えてもダメなものはダメ!

2015-07-03 06:03:50 | 生活

「ゆう活」を伝えるANNニュース。)

 就活や婚活になぞらえて今度は「ゆう活」ですか?夕方に働けと言うこと?それとも夕方に遊べと言うこと?どう解釈してみても「ゆう活」はサマータイムのことである。

 なぜ為政者はいつもサマータイムをやりたがるのだろうか?私はサマータイム論が出るたびにこのブログで反対してきた。日本の気候には合わないからだ。

 1日24時間のうち、7,8時間は寝なくてはならない。寝る時間をずらしたって、一升マスは一升マスなのだ。特段生産性が上がるわけではないことは、戦後GHQによって指令されたサマータイムですでに実証済みである。

 私が小学生のとき、東京都の小学校だけがサマータイムを導入したことがある。もう朝が眠くて、なんだか調子が狂ってしまって、サマータイムが終わった時のホッした気持ちが忘れられない。(東京都全体ではなく、目黒区だけだったのかもしれない。)

 サマータイムにはもっと順序立てて反論できるのだが、もう語りつくしたのでそちらを参照されたい。(2011-06-06)


※今日、気にとまった短歌

  「ただいま」と帰りし父の顔隠す両手いっぱいの感謝の花束 (北海道)マカロン

絶滅危惧種・昔ながらの喫茶店

2015-05-11 06:39:56 | 生活

(丸福珈琲店。マイナビニュースより引用。)

 上の写真のような立派な喫茶店ではなく、個人経営の街の小さな喫茶店が絶滅状態です。

 先日、用事があって東京の中野区の外れを歩いていたら足が痛くなりました。ちょうどそこに昔ながらの喫茶店があったので、入ってみました。

 入って驚きました。ヒマな爺さんたちのたまり場になっています。広さは8畳くらい。カウンター4席とテーブル2つ。囲碁を打っている人、カレーライスを食べている人、みな知り合いでした。とうぜんママもお婆さん。

 フリーの客は珍しいらしく、みなで気を使ってくれました。まず道と席を空け、暑くないですかとクーラーを点けてくれました。ああ、これだよなぁ、むかしの喫茶店は。スパゲティーはもちろんシメサバまで置いてあります。

 ここで40分ほど時間をつぶし、老母を施設に見舞ったのでした。


※今日、気にとまった短歌

  父母(ちちはは)が逝きて五年の春の午後介護施設の電話番号消す (名古屋市)咲花徳太郎

「追い炊き」と「たて返し」

2015-03-10 05:23:01 | 生活

               (システムバス。Panasonic のHPより引用。)

 うちのパナソニックの風呂には「追い炊き」のボタンがあります。「追い炊き」とは、冷めてきた風呂に薪をくべて温度を上げることです。時代劇などで風呂に入っている主人が「冷めてきたぞ」と声をかけると、外の下女が薪を追加して火吹き竹で吹くシーンがあります。あれが「追い炊き」です。

 翌日、湯船の水が汚れていないなら、その水を熱して再び使用することがあります。これを「たて返し」と言います。現在の風呂は「追い炊き」機能で「たて返し」ができますから、いまの若い人たちは「たて返し」という用語を知らないのではないでしょうか?

参考:むかしは風呂を沸かすことを「風呂をたてる」と言いました。


※今日、気にとまった短歌

  スリッパを脱ごうと夫はよろめいてあらまあなんと壁どんをする (桑名市)水谷敦子

風呂の歴史(2)(温泉浴は病気に効くのでしょうか?)

2015-03-01 05:14:51 | 生活

(大阪飛田の元遊郭「百番」。日本建築材料協会のHPより引用。)

 温泉地は聖地でしたから、温泉旅館は上の遊郭建築のような玄関をもつようになりました。

 それに倣ったのか、銭湯も同じような作りの玄関が多かったですね。名称も「○○温泉」と名乗る銭湯がいくつもありました。(私が学生時代に通った銭湯は、名古屋にあるのに「東京温泉」といいました。)

 別府温泉には明治時代から陸軍病院がありました。温泉で病気や怪我をゆっくり癒そうとしたのでしょうね。1931年(昭和6年)には九州帝国大学が別府に温泉療法研究所を建てて、温泉の医学的な効果が研究されました。

 むかしの人はものすごい労働をしていましたから、温泉地でゆったりすることはストレスから解き放たれる唯一の機会だったでしょう。とうぜん病気もよくなります。

 ところがそれが、温泉水に含まれる成分のおかげだと「誤解」されてしまったのですね。現在でも多くの人が、温泉の効能はお湯の成分にあると思い込んでいます。(もしそうだったら、タンクローリーで温泉水を都会に運んでくる医療者が必ず出てくるはずなのに、出てきません。)

 結核の人などが空気がよい田舎で静養する「転地療養」というのが、むかし流行りましたが、湯治は「転地療養」のひとつで、温泉成分の問題ではなかったのです。

(「湯治の宿」というのが私が幼いころにありました。そこには、ごちそうや芸者はなく、湯治客は自分で食事を作ったり洗濯をしたりして、廉価に過ごしたのでした。)


※今日、気にとまった短歌

  わたしには大きい自転車このサドルあなたの高さとおもうとうれしい (東京都)平岡淳子

風呂の歴史(1)(風呂の準備は重労働だった。)

2015-02-28 05:11:35 | 生活

(木桶の風呂。ウィキペディア「風呂」より引用。)

 上のような木桶の風呂桶が普及したのは明治になってからのことです。当時、風呂を沸かすことは重労働でした。まず井戸から水を汲んで風呂桶に入れなくてはなりません。火力は薪でしたから、薪を割ってくべなくてはなりません。

 (私が幼いころは水道がありましたが、燃料はまだ薪で、風呂桶も上と同じでした。現在のように自動的に湯が入れられ、湧いたら音声で知らせてくれるというのはまるでSFの世界の話のようです。)

 そもそも内風呂がある家が少なく、都市ではもっぱら銭湯が利用されました。郡部に行くと銭湯もありませんから、村で交代で風呂をたて、住民は互いに「もらい湯」をしました。ひとつ風呂に30人以上が入りましたから、後のほうの湯は垢だらけだったといいます。

 それに較べると、温泉は湯が耐え間なく湧き出ており、風呂に入る準備としての重労働も必要なく、人々はただゆっくりと湯治をすることができました。すなわち、温泉とは人々にとって神様の賜物のようなありがたい存在だったのです。しかも、万病に効くというのですから、温泉地は聖地のような場所でした。(その記憶が現代の「温泉愛好」まで繋がっているのでしょう。)


※今日、気にとまった短歌

  リサイクルの冷蔵庫格安の訳は「キムチの匂ひがします」ほんとだ (山梨県)村田一広

タクシードライバーとの雑談の愉しみ

2015-01-30 05:00:15 | 生活

(ニューヨークのイエローキャブ。ウィキペディア「タクシー」より引用。)

 タクシーの運ちゃんとよく話をします。いくら寒くても豊橋には雪が積もらない話から、名古屋の夏は暑いという話になります。

 そのまま、ルームクーラー(エアコンではなくただ部屋を冷やすだけの装置)を街で初めて入れたのは喫茶店ではなくて床屋だったと私の話は続きます。家庭にクーラーなぞなかったからみな床屋に涼みに行くので、隣り町の床屋もクーラーを入れざるをえなくなった。当時のクーラーは水冷式だった。水冷式ならいまでも使われている。ほら、屋上にタンクのようなものがいくつも置いてあるビルがあるでしょう。あれが水冷式の室外機で、ビルの近くを通ったら雨でもないのに水滴が降ってきた経験はありませんか?

 運ちゃんは古老のたわごとのような私の話を興味津々で聴いてくれるのです。


※今日、気にとまった短歌

  妻と行く年に一度の小旅行きまっていつも子供の赴任地 (八王子市)齋藤昭弘

けっきょく世襲が楽 (現代の奴隷その1)

2014-11-09 16:07:26 | 生活

KAWAGOE Net より引用。)

 日本は200年以上営業している老舗の数が、世界で一番多いのだそうです。暖簾を守るのはたいへんでしょうが、継ぐべき暖簾があるのはないよりはマシなようです。

 幼馴染の魚屋のT君は、現在、父親の店の場所で居酒屋をやっています。仕入れは築地と決まっていて、父親の代からのノウハウがあります。

 T君は大学を出て、しばらくサラリーマンをやっていましたが、いつの間にか居酒屋になりました。サラリーマンよりずっと楽で、しかも収入が多いのだそうです。

 T君は、自分の一家が食べる食材を買ったことがないといいます。つまり、居酒屋で出す食材を流用すれば、食費はかかりません。また、台所用品やトイレットペーパーも買ったことがありません。店の台所用品や客用トイレのトイレットペーパーを使えばそれで済んでしまいます。

 自営業は、自分の生活に使用するいろんな物品が客用の物品と区別できないため、(全部ではありませんが)かなりの部分を客用として、必要経費に繰り込むことができます。

 店の敷地やノウハウの継承を含めると、自営業の世襲はサラリーマンより相当有利と言えるでしょう。暖簾を引き継ぐのは大変だとはいえ、継ぐべきものがないサラリーマンより楽なのは確かです。(要するに無産市民は、古代ローマ時代のむかしからコケにされつづけているわけですね。サラリーマンは現代の奴隷です。)


※今日、気にとまった短歌

  秋霖をしづかに流し駆けてゆくマラソン選手のなめらかな肌  (成田市)神郡一成

  

子ども用カメラ「フジペット」

2014-09-28 00:35:50 | 生活

(フジペット。アローカメラのブログより引用。)

 豊橋の自宅の書庫を整理していたら、古いネガフィルムが出てきました。66版と呼ばれていた6cm×6cmの白黒のネガです。焼き付けをしてみました。

 なんと写っているのは、私が小学校の時の遠足の写真でした。小野君と長谷川君と野口先生の姿が見えました。小学校5年生ころの写真と思われます。小学校を卒業して以来、小野君にも長谷川君にも会っていません。(野口先生とは高校生の時に会ったのが最後でした。いまでもご健在かどうか知りません。)

 この写真は私が写したのです。上掲のフジペットという固定焦点の(ピントを合わせる必要がない)子ども用のカメラです。構造は現在の使い捨てカメラと同じです。

 映像が懐かしいという以上に、私はこのネガが50年近くも私にくっついて移動してきたことに驚きました。東京から名古屋の大学に進学したときに、すでにこのネガは私の行李の奥に入っていたはずです。それに気づかぬまま、名古屋から浜松、また名古屋、そして現在の豊橋まで、市内での引っ越しも含めると計7回の転居に耐えて、今やっと再発見されたのでした。

 私が名古屋に行くときに、なぜこのネガを持ちだしたのか、まったく覚えがありません。そのころ新幹線ができたばかりでした。そのとき「名古屋まで新幹線で3時間だから、すぐだよね。まあいいよね」と母が自分に言い聞かせるように言ったのを覚えています。母は今でも東京の同じ家に住んでいます。

住むなら古代遺跡の近く

2014-06-27 05:19:44 | 生活

(東山貝塚公園、GALA FLnext のHPより引用。)

 住居を建てるなら古代遺跡の近くがよいそうです。大昔の人が好んで住んだ場所は、災害がなく地盤がしっかりしていて水場も近いからです。

 私が生まれて育ったところは、偶然、目黒の東山貝塚の近くでした。近所のお婆さんが縄文式土器のかけらをたくさん持っていて、一個もらったことがあります。東山貝塚は上の写真のように現在、公園として整備されているようですが、私が育ったころは、なんにもありませんでした。

 現在住んでいるところから徒歩数分の場所に、大海津遺跡というのがあります。縄文から近世にかけての長年の生活の跡があるそうです。大海津という名称からもわかるように、この辺はむかしは浜辺でした。

 近くの公民館に「明治時代にこのあたりを埋め立てて開墾した」と書かれた石碑があります。埋め立て地は居住には適さない土地です。

 現在私が住んでいる場所は、陸側の浜辺のほうだったのか、海側の埋め立て地なのかは、よくわからないのですが・・。

戦後の風呂の変遷(1)

2014-05-01 00:05:25 | 生活

テルマエロマエ2HPより引用。)

 昭和30年代の幼少期、私は東京都心に住んでいたが、風呂は薪で炊いた。風呂桶は文字通り木の桶でヒノキの香りがした。薪割りは父親の仕事だった。薪は魚屋から魚の箱をもらってきたりした。(当時、魚は木の箱に容れられて運ばれた。発泡スチロールはまだなかった。)

 内風呂があっても、しばしば銭湯に行った。内風呂は沸かすのが大変で、銭湯に行った方が簡便だった。

 小学校3年のころに、タイル張りの風呂に替えた。同時に火力はガスになった。タイル張りの風呂は冷たく、湯が温まるのが遅かった。むろん、木の香りもしなかった。

 大学卒業後、10年くらいしてから、名古屋の山奥に中古住宅を買った。その家の風呂はプラスチック製だったが、どんなセンサーも付いていなかったため、水を溢れさせたり、沸かし過ぎて沸騰させたりしてしまった。

 現在の風呂は、水位センサーも温度センサーも付いているから、ほっておいても平気だ。「追い炊き」というボタンがあって、湯が冷めたらそのボタンを押すだけでよい。

 昨日使った湯を取り換えないで、また沸かすことを「立て返し」という。現在の風呂には「追い炊き」ボタンしかないから、それを押して立て返しをする。そのためだろう、妻は「立て返し」のことも「追い炊き」と呼ぶ。

(恩師よれば、東京の銭湯の主の祖先は70%が石川県出身なのだそうだ。)

「心がけ」とは何か?

2014-02-16 06:06:10 | 生活
(毎日新聞社刊。)

 私が大学生のころ学生運動(大学紛争)がなけなわだった。学生による校舎の封鎖や授業のボイコット(学生スト)が行われたりした。ストはしばしば期末試験の前に行われた。そのため、試験を受けたくないノンポリ学生(特定の主張がない学生)をも巻き込むことができた。

 私はそれらの行為を「学力がある青年」の「非行」と見ていた。それらの非行は何らかの思想(屁理屈)によって理論武装されていた。「学力がない青年」だと理屈抜きに暴走族のような形でしか非行を行えないが、どちらも目立ちたがりの破壊主義で根っこは同じだと思った。

 だが、学生運動やっている学生たちは、貧困だったり病気でめぐまれない老人など「弱者」に同情的だった。救いがあるとしたらその辺だろうと私は思っていた。

 学生運動に批判的な女子学生が知り合いにいた。彼女は貧困老人や病気老人に対して同情的ではなく、「若いころに博打にふけったりして「心がけ」が悪かったから貧困になるのよ」と言い放った。当時としてはきわめて珍しい意見だった。

 確かに貧困老人の中には、若いころ「遊び人」だった人もいるかもしれない。しかし、病気になったのは不運でしかなく、本人の「心がけ」のせいではないでしょう、と私は女子学生に迫った。そうしたら彼女は、「老いれば病気になることもあるのだから、若いうちから備えておくべきなのよ。やっぱり「心がけ」が悪いのよ」と応じた。

 なんと極端な考え方かと私は思った。女子学生は当時から難病をもっていた。だが現在、彼女には孫もいて、立派にやっている。難病は治っていないが・・。

 彼女の「心がけ論」は、案外、突拍子もない意見ではなかったのかもしれない。

45年前の東京の大雪

2014-02-09 18:11:19 | 生活
 このたびの大雪は東京では45年ぶりだそうだ。当時、東京に住んでいた私は、45年前の大雪を鮮明に覚えている。それは私が名古屋の大学(今の母校)を受験した日、1969年3月4日だったからだ。

 受験のときには名古屋の上前津という中心街の旅館に泊まった。3人相部屋の受験宿で、いまのように受験生がホテルの個室をとるという贅沢なことはなかった。旅館の食事も30人くらいの受験生が広間で一緒に食べた。みな同じ大学の医学部の受験生だった。その宿が大学の紹介だったからだ。

 私は緊張でほとんど食事が食べられなかった。それを見て別の受験生が「おまえ食べないのか?じゃあもらっていいか?」と私の分まで食べた。この時点で私は「負けているな」と思った。

 受験生たちはみな明るく、「この大学は俺は滑り止めだ」とか「俺はIQが160ある」とか大きなことを言っていた。中にはエロ本をもってきて、「おまえも見ろよ」と勧めてくれる受験生もいた。私は気押されて大人しくしていた。

 なにせその年は大学紛争が激しく、東大と東京教育大(筑波大の前身)が入学試験をとりやめたので、受験界は大混乱になっていた。私たちは最後のベビーブーマーで受験生総数が現在の1・7倍くらいいた。それなのに医学部の総定員は4,000名で現在の半分。ベビーブーマーは、他の世代が知らない激烈な競争にさらされてきたのだ。

 2日目の最後の試験は数学だっただろうか?試験がすべて済んで、ああ終わったと思ったが、解放感はなかった。ちょうどそのとき、名古屋では雪が舞いはじめた。雪もよいの中を私は東京への帰路についた。

 帰りの新幹線内で私は一所懸命試験の検算をしていた。それを見た隣りの席のおじさんが「受験に行ってきたのかね?」話しかけてきて、車内販売のプリンをおごってくれた。

 東京駅に着くと、雪は一層激しくなっていた。自宅の横の急坂は凍り付いていて、下るのが一苦労だった。その坂でスキーを楽しんでいる人がいた。それが45年前の東京の大雪に他ならない。

 で、その大学に入学してみると、同じ受験宿に泊まった連中は、なんと一人もいなかった。

懐かしの学童保育所

2014-02-06 06:48:42 | 生活

名古屋市学童保育連絡協議会HPより引用。)

 保育所の待機児童が問題になっている。それもそうだが、保育所が預かる年齢は小学校就学までなのに小学生は早く帰ってくる。そこからがまた問題で「1年生問題」と言われている。

 私は今でも共働きだが、1985年ころ息子や娘が小学校に入学するときには困った。近隣に同じような境遇の親たちがいて、学童保育所を作ろうという話になった。A君のお父さんがマネジメントに長けた人で、彼を中心に空き家を借り、お父さんたち(私も)が大工仕事をして空き家を改造。そこに20代男性の指導員を招き、独力で学童保育所を設立した。

 学童保育所に行政が関与し始めたのは1997年のことで、私たちが学童保育所を作ったのは先駆的な仕事だった。

 A君のお父さんは頑張って学童保育所を維持し、若い指導員の人生相談にも乗っていた。彼が指導員に「おまえは一生、指導員をやるつもりか?将来のことを考えておけ」と言っていた場面に偶然出くわした。鮮明に残った記憶である。

 その後、A君のお父さんは定年退職し、名古屋から岐阜県に引っ越していった。私も当地に転勤となり、名古屋を離れた。

 ところが先日、ほぼ30年ぶりにA君のお父さんから連絡があり、名古屋で呑みましょうという話になった。名古屋の料理屋に当時のお父さんたちが集まり、久々に旧交を温めた。みんな、すっかりお爺さんになっていた。むろん私もだが・・。

 昔の子どもたちは、皆ちゃんとした大人になったそうで、立派にやっているらしい。東日本大震災のときもそうだったと思うのだが、日本では危機になると必ずA君のお父さんのような人が出現して、事態を収拾するのではないか?日本はいい国である。

Uターンラッシュに思う

2014-01-05 06:05:21 | 生活
 連休の最後になると、必ず報道されるのがUターンラッシュだ。道路の渋滞が画面に映され、空港の帰国客に焦点があてられる。

 成田や名古屋空港などの国際空港では、海外旅行から帰った人にインタビューが行われる。インタビューされた人は「明日から仕事です」と答える。私はむかしから、これが不思議でならない。

 つまり、海外旅行をしたなら一日か二日早く帰ってくるのが私の「常識」だからだ。明日から仕事なんて、そんなにさっと別モードになることは私にはできない。遠い外国なら時差ボケもあるはずだし。

 大多数の人は私のように少し早く帰ってくるだろう。しかし、上記のようにぎりぎりに帰ってくる人も結構いるのだ。

 こういう人はバイタリティーがあって、他の人よりも仕事ができる人なのだろうか?逆に、時差ボケがあってもできる程度の甘い仕事しかやっていない人なのだろうか?

お客様のご意向?

2013-12-25 06:03:03 | 生活

(Wikipedia ”軽飛行機”より引用。)

 ある地方空港で個人的に有料で、軽飛行機による荷物の空輸を頼んだときの話。

 係員は、飛行は海側からか山側からにするかを訊いてきた。どう違うのか訊ねると、山側から飛行すると急上昇しなくてはならないが、飛行時間が20分短くてすむという。人間でなく荷物だけ運ぶのだ。料金は変わらない。

 そいうことはパイロットが急上昇と20分をどう天秤にかけるかの問題であって、私が指定するようなことではないでしょう、と答えた。

 むかし知人が建売住宅を購入した時もそうだった。ドアは何色にするか、床は?天井は?サッシは?・・・そういうものは別々に選ぶものではないでしょう。トータルで考えるべきではないですかと知人は言いたかったそうだが、言わずにテキトーにこれとこれとこれと、さっと決めた。

 15分で済んだ。業者は、ふつうは2,3日かかるのにと驚いていたそうだ。

 どんなことでもお客様の意向を十分に聴いて、意見を尊重しようとしているのだろう。だが、私も知人も的外れではないかと思った。

 完成した知人の建売住宅には、階段の上りハナに踊り場がなく、ちょっと危ない感じがするという。客にはこういうことを知らしめるべきであって、ドアや天井の色なぞをこまごまと訊いてくるのを的外れと感じたのだ。