こんな可愛い時の思い出は
尽きることない。
今日は
亜希の命日。
亜希に会いたいよ。
ごめん、亜希。
もっと可愛いモデルシュナの写真は沢山あるのにね。
でも、耳がピンと、前足ムシャムシャの亜希も、とっても可愛いよ。
いつも可愛いよ。
明日は貴女が虹の橋に行ってしまってから丸三年。
亜希と見た湘南の朝、そして夕日の美しかったこと。(亜希は臭いに夢中だったけど)
忘れてないよ。
忘れないよ、いつまでも。
亜希と、幸との思い出だらけの住まい。
ちょっと、たまらなく寂しくなる時がある。
「だったら引っ越して!」と
亜希、言ってくれてる?
柚樹が虹の橋に行って、引っ越して
てちゅが虹の橋に行って、引っ越して
移り住んだ湘南。
そこにも、貴女も幸もいなくなってしまった。
今日は「大寒」。メチャメチャ寒かった。
元気だった頃の亜希は、寒さなど意も介さずの体育会系の女子ワンコだった。
貴女の十数年の寿命と関われたことに
感謝している。
自慢の子だった。涙が止まらないよ、亜希。
いつか
会いたい。
亜希に。大好きな亜希に、「トビちゃん」に。
姉には「何で今頃?」と言われた鎌倉・八幡様へのご挨拶は昨日。
だって仕方ないじゃん 混んでるんだもん。
「本年もよろしくお願いいたします。」
多分、段葛の工事は3月で終わるみたいで、長かったですね~。
お参りしてから、小町の「なかむら庵」で蕎麦を。
地元民にも観光の方にも人気のお店です。
本日は茅ヶ崎の「鮨 裕」。2度目。
因みに前回は某BS番組放映前日。
今日はおまかせにぎり(12貫)を。
美味しく頂きました。
そして
来週は河豚コースを予約した。嬉しい。
とても楽しみです。
唐津の滞在ホテルから。
関東より日の出が遅い。
日本って縦長なのだと改めて体感する感じは沖縄とかと同じ。
本日は長崎へ。
まずは平戸大橋を渡って平戸へ。
<平戸島は遣隋使(600年~618年)、遣唐使、遣新羅使の頃から寄港地として利用され海外との重要な交通拠点となっていた。1550年、ポルトガル船が来航し、平戸港は南蛮貿易港として機能するようになる。フランシスコ・ザビエルをはじめとするイエズス会宣教師によってキリスト教(カトリック)が布教されたが、その後はキリスト教弾圧の舞台にもなった。>
お寺さんから覗く教会。
ちょっと、不思議な眺め。教会を隠してるみたいな。
ザビエル記念教会。
大そてつ。↓
オランダ商館通り・・だったかな。↓
を、歩く相方。
平戸でしか買えないらしい、牛蒡餅と
カスドースを買ってみた。
↑ 蔦屋さんは老舗とのこと。
そして次は佐世保の九十九島パールシーリゾートへ。ハウステンボスも結構近いみたい。
ちょっと懐かしい、ハウステンボス。
私は勤め先の先輩方々と来たことがある。てちゅが来る前で柚樹だけの頃だから、多分1998年の秋くらいかな。
相方も仕事関係でその前後に訪れてホテルヨーロッパに泊まったんだっけ?
なんてことはさておき
遊覧船に乗って
牡蠣やパールの養殖風景なども見ながらの50分。
<九十九島(くじゅうくしま)・・佐世保港の外側から北へ25キロにわたり島々が点在する海域のことで、島の密度は日本一と言われる。九十九とは数がたくさんあるというたとえで実際の島の数は208ある。>
両親へのお土産に
↑ 小城の羊羹と、カステラなどを購入して
帰路は福岡空港。
JALスカイネクストの追加1000円シート。
国内ならこれで十分な感じ。
いつか、クルーズトレイン・ななつ星に乗っての九州旅行。
夢は叶うかな。
お金。貯めます。
唐津東港からいざ。
大きい方のフェリーとのこと。
それでも玄界灘の荒波は結構きつくて船酔いしてる人もいた。
普段はもっと荒れていて、小さい方のフェリーではもっとしんどいらしい。
乗船100分、ようやく壱岐の島・印通寺港に到着。
まずは島の中央方面へ。
パワースポット、月読神社。
日本神道発祥の社。月読命は月にまつわる全ての行い(潮の満ち引きによるもの)、漁業、稲作などの農業の神様として祀られてきたとのこと。
移動して黒崎半島。東洋一の砲台跡。
一発も実弾を発射することは無かったそう。
半島の先端には高さ45mの海食崖の玄武岩の猿岩。もろ、猿。
猿と相方。
正面から眺めると猿ではなかった。
郷ノ浦町のあまごころ本舗でランチ(ウニ釜めしと壱岐牛)後、海女漁で有名な八幡浦海中に祀られる六地蔵「はらほげ地蔵」、そして左京鼻へ。
↓ 夫婦岩。片方が台風で欠けてしまったんだって。
この左京鼻は壱岐の代表的な景勝地の一つで八幡半島のほぼ先端にあり、前の海は玄界灘。沖の方では元寇の合戦で沈没した船の碇石(いかりいし)が発見されているとのこと。凄い。
歴史で習った元寇。忘れているからちょっと復習。<鎌倉時代中期に当時、大陸を支配していたモンゴル帝国及び、その属国である高麗大国によって二度にわたり行われた対日本侵攻の呼称。一度目を文永の役(1274年)、二度目を弘安の役(1281年)という。蒙古襲来とも。>
港に戻る途中の原の辻遺跡。弥生時代の環濠集落復元公園。
鳥居の由縁だって。↑ (多分・・)
竪穴式住居。↓
高床式倉庫の穀倉には
ネズミ返しが。
一支國博物館にも行きたかったな。ちょっと残念。