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1974年8月4日、ジュリー出演のワンステップに参加しました

2022年10月11日 | JULIE メモリーズ

ザ・タイガース解散直前のタローさん⇒ タローとアルファベッツ

昨日紹介した「1974 ワンンステップ・フェスティバル」ですが、東北在住のJ友さんから、『そこに参加しました。その当時の熱気をお伝えできれば・・』と、ご報告を頂きました。ワンステップ・フェスティバルのパンフレットの画像も(^^♪ どうも有難うございます!! 

本日は、ジュリ友さんの、1974年の熱いジュリーメモリーズ!

以下、J友さんより



福島の郡山のワンステップ・フェスティバルには、友人と二人で行きました。
彼女も、地元以外は初めてで、ココロの準備もなく、とにかく行きましょう❗という感じだったと思います。
フェスの観客は、若い男子が多かった記憶があります。
あの頃は、遠方のジュリーファンとの面識はなく、どのくらいジュリーファンが会場にいたのかは分かりません。
関東方面のファンが駆けつけていたのは、最近になって知りました。

(※ジュリーの出演は8月4日、パンフレットの画像)

DVDの映像でも見えますが、前方の若い男子は、とにかく大盛り上がりで、客席(スタンディグフリーですが) ジュリーの出番を観ても、最終の汽車(新幹線ではありません)に間に合う予定でした。
これも近年知ったのですが、機材のトラブル、ジュリーの前のバンドの面々のタイムオーバーなどで、ジュリーの出演予定時間が、かなり遅れたようでした。
腕時計を見ながら、ジュリーのステージ最中に、最終電車に間に合うように会場を後にしました。悔しくて残念でした。

もっと残念なのは、郡山駅に着いた時に、東京方面で地震があって、列車に遅れが出ていたことを知ったことです。
知っていたら、あと一曲聴いていられたかも?

詳しい記憶は残っていませんが、暑い熱い一日だった印象と、私のジュリー追っかけ人生の始まりになったフェスティバルだったのは確かです。

YOUTUBE⇒沢田研二×内田裕也(One Step Festival 1974年)

パンフレットの表紙



ワンステップ・フェスティバルはJ友さんのジュリー人生の始まりになったのですね。

どうも有難うございます。ワンステップは日本のフェスの原点ともいえる、非常にエポック・メイキングなフェス。多くが手探りの中、これだけの出演者を揃えた、裕也さんや関係者の御尽力には頭が下がる思いがしました。

8月5日出演の、ジュリエットはカズさんのバンドですね(^-^)v

 



そして今日は、映画公開の一か月前(^-^) 楽しみですね~♪

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1979年、沢田研二リサイタル「TOKIO」

2022年07月17日 | JULIE メモリーズ

中野サンプラザの2023年に閉館を知ったJ友さんから、1979年、沢田研二リサイタル「TOKIO」(11月29日~12月3日)のステージの記事を頂きました。

当時のチケット

送って頂いた、当時の(週刊誌?)記事 

時はまさに70年代から80年代へ「新時代のプロローグ」

貴重な記事を、どうも有難うございます。(^^♪

以下は以前にブログにアップした、J友さんのリサイタルの想いで

『オープニングは頭上から、ピンクのコスチューム、
シルクハットのジュリーが丸いゴンドラにのり、
TOKIOを歌いながら降りて来てステージに、
うっとりするような素敵さでした。♪ 
ノックターンではステージにリングがあって、
ボクシングのマネをしたりしました。』

YOUNGのグラビアに、そのままの光景が映し出されていました。

私自身はJ友と初日の11月29日に、大阪のナベプロ公認のファンクラブ、リクエストサークルから、数十人のバスツアーで行きました。席は前方のセンターの良い席でした。以前にもブログに書いていますが、一部のみ抜粋。

『私達は世田谷のジュリーのお宅で、前奥様に遭遇。不躾なファンに優しかったです。世田谷で時間を取りすぎたので、バスツアーのサンプラザ行の集合時間に間に合わず、バスに置いてけぼりを食いました。大慌てで電車で中野まで行き、開演に間に合いました。

ところが、先に出たはずのバスが渋滞に巻き込まれたのか?電車で行った我々の方が先に着いていました。ナベプロ公認だから、前から10列目以内のセンター良席に、多くの席が確保してあったのに、そこに座っているのは、ポツンと私と友人の二人だけ。 
開演直前になっても前方の多くの席が埋まらず空席のままで、目立つ目立つ😓 係りの男性が二人しか座っていない我々の処に、焦った顔して寄って来て「他の人はどうしたんですか??」。我々「さぁー そのうち来ると思います・・・」(・_・;)

バスツアーのファン数十人は、開演してから10分くらい遅れて、ゾロゾロと入場する羽目になりました。バスに遅れて迷惑をかけたのに、何故か先に座っている、我々二人を見つめるツアーの皆さまの目がとても冷たく、居心地が悪かったです(-_-;) 
ジュリーだって、開演初日に目の前に多くの空席が目に入って、さぞ気を悪くしたことでしょうね。

そして 肝心のジュリーのリサイタルですが・・・ アルバム曲を歌った、というくらいしか覚えておりません。よく覚えているのは、ジュリーが会場の二階の空席を指さし『空席が気になる!(二階が)いっぱいじゃない』と文句を言っていました。
それを私たちに言われても・・(-_-) (そちらの営業努力が足りないのでは💦と思いました)帰り際の出口で、解散していたキャンディーズの3人の姿を見かけました。』

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最高視聴率は41.9% 怪物番組「ザ・ベストテン」が消えた真の理由

2022年07月05日 | JULIE メモリーズ

ネットニュースに「ザ・ベストテン」の話題が⇒ 最高視聴率は41.9% 怪物番組「ザ・ベストテン」が消えた真の理由

70年代の音楽番組はランキング形式が主流だった。TBS「ザ・ベストテン」(1978~1989年)と日本テレビ「ザ・トップテン」(1981~1986年)・・・・・

1990年前後から音楽の世代ギャップが顕著になった。
「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」の隆盛には当時の音楽事情が鮮明に反映されていた。



「ザ・ベストテン」も「ザ・トップテン」もジュリーが出なくなると見なくなりました。

一度だけ「ザ・トップテン」の公開録画に参加しました。ジュリーがトップテン入りしていた時だったので、ラッキーでした(^^♪ ⇒「トップ10」で、ス・ト・リ・ッ・パ・ー(1981年11月2日)

両番組が終了したのは、視聴率の低下のせいと考えていましたが、それだけが打ち切りの理由ではなく、様々な音楽事情があったのですね。90年代からはジュリーがTVに出演しなくなったので、音楽番組を見なくなり、何が流行っているのか誰が売れているのかという、音楽事情にはサッパリうとくなってしまいました。元々、ジュリーのファンであっても、音楽ファンとはいえない私なので当然です。

「ザ・ベストテン」ではナベプロぐるみで、せっせとリクエスト葉書を書いたりして、曲の順位に一喜一憂しました。番組にはジュリーの思い出深いシーンもいっぱいあります。時折、ジュリーがツアーの最中にベストテン入りしたりすると、ライブ会場からの中継でジュリーが歌う時がありました。それを見ながら、いいな~ 私もその場に参加したい!!と、思っていたらその機会が有ったのですが。

1978年の「ダーリング」がヒット中のジュリーは、神戸国際会館でライブ。その日は木曜日!!ライブが終ったのは、夜の9時前、8時半ごろだったかな? ジュリーの「ザ・ベストテン」の出番は何位だったのか。これから出演してきます、さようなら~と、ジュリー様はライブが終わってすぐに引っ込んでしまいました。残念や~、会場からの中継じゃなくて・・・というわけで、私は後ろ髪をひかれながらも、おとなしくすぐに帰りました。

しかしJ友さんは、そのままジュリーの行き先を、タクシーで即座に追いかけたそうです。場所は神戸の山手にある、ビーナス・ブリッジ。追いかけたけど、歌う姿を見ることは出来なかったと話していました。


※追記 はまゆりさんから、1978年に秋田で、ジュリーのベストテンの中継をご覧になったエピソードを頂きました。⇒『1978年のツアー、私はJ友さん達と秋田公演に参加しました。8月の夏休みを取り、観光も兼ねての遠征でした。秋田でもコンサートの後、ザベストテンに出演と云う情報を聞きつけ、タクシーでその場所に向かいました。秋田の市役所?のお庭からの中継でした。暗闇の中、白いセーラー服のジュリーがライトに照らされ、浮かび上がり、ダーリングを熱唱する姿は、それはそれは綺麗でした!!今でも鮮やかに蘇ります。』


 

twitterにビーナス・ブリッジで歌う姿がアップされていましたが、直リン貼るのは憚られますので、『ザ・ベストテン 1978年 ダーリング 神戸ビーナスブリッジ展望台から中継 』で検索してみてください。

ブリッジの高台から、セーラー帽が風に飛ばされました。翌日、飛ばされた帽子を捜しに行ったと言う呟きがtwitterにありました。当時はまだ子供だったそうですが、見つからなかったそうです。

ビーナス・ブリッジには先月、六甲山でヤマボウシの花見の帰りに寄りました。ジュリーが歌ったのは、先の丸い所。

神戸でも有名なデートスポットですが、中年グループがここで昔話をずーっとして、この場を離れてくれないので、私だけでジュリーの思い出に浸れなかったわ(-_-;) 若者には恋を語る場所で有り、中高年には思い出を語る場所のようです。

ビーナス・ブリッジの向こうに、高層ビルと港と海が見えています。

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「阿呆劇 フィガロの結婚 」とイカスミパスタ

2022年06月18日 | JULIE メモリーズ

金曜日の朝ドラ、ちむどんどんを見ていたら、いかすみのスパゲティが登場しました。(イカスミパスタを作るキッカケとなった、沖縄料理のイカスミジューシーは、見た目がちょっとぉ・・ )

それを見て、初めてイカスミのパスタを食べたのは、(多分)1995年10月「阿呆劇 フィガロの結婚 」の舞台を、J友さんたちとシアターコクーンまで観に行った時だと思いだしました。J友さんが、この機会にランチは話題のイカスミパスタを食べましょう!の提案に、それノッた!舞台と同じくらい楽しみやわ!前から食べてみたかったの(^^)

すでにイカスミのパスタは、その数年前から世間では評判になっていたものの、私達はこの時が初めてでした。朝ドラの暢子がイカスミパスタを作ろうとしているのは1975年頃だから、まだ流行るずいぶん前だけど、それからもう20年も経っている。

しかし、初めてのその味と色は、期待していほどには真っ黒でもなく、味わいも特にどういうこともなかった、どんな味か印象に残らなかった・・、というのが本音で、正直こんなものかと思いました(^^;

1995年10月「阿呆劇 フィガロの結婚 」の舞台は、イカスミパスタよりもずっと印象に残る舞台でした。以前にブログに書いています。⇒渡辺えりさん(フィガロの結婚)

髭をはやしたジュリーはカッコ良かったけど、それ以上に渡辺えりさんの、お風呂の豊満なヌードシーンがインパクト大だったかしら(^^; 女優さんて、テレビや映画ならともかく、ナマの舞台で脱ぐのか、なんでもやらないといけないのね、スゴいわぁ~

えりさんの舞台を見たのはこれが初めてで、意外な歌の上手さにも感心。女優は裸も厭わず、歌も上手くないといけないのね!私達と同じようにミーハーっぽくジュリーのファンだと騒いでいるえりさんですが、やっぱりただのファンではない、一流の舞台人だということを知りました。

再放送中の「芋たこなんきん」に出演中の藤山直美さんも歌が上手い、やっぱり特別な人は、いくつもの才能を持ち合わせているのだと思いますわ。


近所のインドはまゆう

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ドン・ジョヴァンニ 超人のつくり方 1988年セゾン劇場公演

2022年06月10日 | JULIE メモリーズ

3.5㎏は重たい!

 


J友さんから情報を頂きました。

先週「徹子の部屋」に出演した元宝塚トップスターの汀夏子さんが、ジュリーの「サムライ」を歌ったそうで、アアア~が多くて、大変と語っていたそうです。

汀夏子さんとは、もうずいぶん昔 「魔界転生」の頃にTVで対談していました。ジュリーのファンで、ライバルとも思っていると語っておられました。今や、髪を染めるのは珍しくもないですが、ジュリーが赤い髪の汀さんに髪を染めるのはやめたほうがいい、と言ったのが印象的でした。汀さんはその言葉は素直に受け入れることは出来なかったようです。

当時は髪を染めることに、まだまだ抵抗感が有った時代のように思います。大阪の阪急梅田駅辺りで、髪を染めた目立つ美しい女性をみかけたら、宝塚歌劇団の背が高く髪が短ければ男役、長い巻き髪なら娘役の人に違いないと思いました。今や髪の色が何色でも珍しくないですけど。ついでにピンクハウスの服が似合っていると思ったのも、宝塚の娘役の人だけです。(^^;)

 

1988年の音楽劇、「ドン・ジョヴァンニ 超人のつくり方」では、汀さんと共演しましたっけ。ジュリーがドンファン(ドン・ジョヴァンニ)は、やっぱりジュリーならではの配役と思います。

宝塚の髪の短い男役のイメージが強い汀さんが、豪華なドレスを身にまとい長い髪のドンナ・アンナ役。ヨヨヨ・・と女っぽい仕草をするのが、へ~珍しい役・・という目で見てしまいました。もう殆ど舞台は忘れましたが、やっぱり印象に一番残ったのは、最後の騎士団長の亡霊が馬に乗って現れるシーンかなぁ。

舞台公演の劇場が、銀座のセゾン劇場で、そうだったかな・・と、全然覚えていない私です。セゾン劇場と言えば、やっぱり「アズチ」ですわ。

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2001年「目からウロコ」

2022年06月03日 | JULIE メモリーズ

浦沢直樹さんと、高田純次さんのラジオ番組「純次と直樹」の内で話題に上がった、2001年放送のジュリーが司会者を務めた 「目からウロコ」。J友様さんが「目からウロコ」の公開録画に参加されたそうで・・行きましたとメールを頂きました。

『目からウロコの公開録画の見学に行きました。
ジュリーが司会で、高田さんが回答者でしたが、
立場は反対だった方が良かったと思いました。
ジュリーは可愛いかった、高田さんはカッコ良かった』

その後、さらに当時の収録のお話を伺いました。

『私のJ友さんが番組参加の申し込みをしてくれて、J友さん達6人ほどで行きました。
入り口で身分証明書を見せて、テレビ局から首から下げる参加証を貰い、係員の男性に引率されて
長い廊下を通ってスタジオに入りました。      
勝手にスタジオの後ろの方の椅子に座っていたら、私とJ友さんが明るい色の服を着てたので、番組スタッフから前の方にと言われました。
TVに映ったらと嫌だったけど、端の方だったから映ってなかった~😊
その日の録画のテーマは「米」と「靴」を取り上げた回を収録したと思います。
「靴」がテーマの時、ジュリーが靴を脱いで靴下に、それだけで、キャッって💗
米を食べないで、とか😊
ジュリーからは番組観覧者には、な~んにも愛想なしでした😊
終わってから、フジテレビの上のグッズ売り場に行きました!』

TV画像も頂きました。丸いけど、笑顔が可愛い もうちょっと当時は痩せたような気がしましたが、そうれほどでも無いですね~


※ぺこりんさんからは、先日のコメ欄に公開録画に参加されたことをコメント頂いていますので、改めてこちらにもアップさせて頂きます。

私も、[目からウロコ]のスタジオ観覧に参加しましたっけ。ジュリーは、スマートになってる時で、それこそ(いい男ね~)と言いたいほど、艶かしい色っぽさも。
高田さんは、結構 負けず嫌い、言い訳などが可笑しかった。その日のゲストに、飯島愛ちゃんも。始まる時に椅子に腰かけたけど、こけてしまって、ちょうど私と目が合って、照れ笑いしてるのが可愛いかったです。飯島愛ちゃんも、ジュリーと共演出来たのが嬉しいそうでした。

スタジオにわずかな長椅子で、確か…30人ほどの参加者だったか、静かに観るものなのか、アハハ笑って良いものなのか、ちょっと戸惑いました。番組、私は「防災」の事でした。家の中での揺れの体験とか。休憩はさんで、もう一本収録した様な。。ともかく飯島愛ちゃんの笑顔が、今でも思い出されます。あと、ジュリーの素敵な(いい男✨)ぶりが、忘れられませんね。

ぺこりんさん、有難うございます。「防災」の回、私も記憶があります。飯島愛さんのお名前が懐かしいような・・、あの若さで亡くなられてと、いまだにそう思います。

※追記、ぺこりんさんから、さらに追加のコメントを頂きました。

ジュリーの画像のお写真は、たぶん広がって見えますね。実際はやはり、お顔も青白くシュッとしてましたけどね。。いわゆる、色男?儚げな?スーツだか、ジャケットのお色も忘れてしまいましたが、まぶたに残ってるのは、薄めのブルーだったか。。
始まる前に、女性漫才のクワバタ、オハラのお二人が、前説で賑やかしを。スタジオの壁際に、テーブルの上に、ペットボトルのお茶などが置いてありました。
目からウロコの番組が終わって新しい番組になった時、担当者さんより、スタジオ傍聴のご依頼の電話があったけど、[すみません、沢田研二さんのではないので、行かれません。]とお断りしました。スタジオ傍聴の人数を揃えるのも、大変なようですね。


2001年の6月8日の関西での放送回が、大阪府で附属池田小事件という悲劇が起こったせいで、放送が無くなったことも忘れられません。もうすぐ21年目の6月8日になりますが、「目からウロコ」というと、この事件を一緒に思い出してしまうのが、今でも辛く感じてしまいます。

2001年に、長くTVから遠ざかっていたジュリーが、21世紀になりテレビ出演を解禁。TVに一気に出まくっていた時があって、それを見たTV局からオファーがあったと、ジュリーが言っていたように思います。関西の放送は、関東地方よりも数週間遅れて始まり、放送時間は夕方4時と言う中途半端な時間でした。

クイズですが、教養バラエティといった内容で、「賞味期限」の回などは、どれくらい食品は腐らないか?など、日常生活にも役立つ実験は面白かったです。

ジュリーは司会ですが、一緒に出演者とへ~っと驚いている感じ。歌を歌っている時の、近寄りがたいムードとは大違いの、時にオタオタして高田さんに突っ込まれたりして、にこやかで愛すべきキャラクターも見せてくれました。でもジュリーが「奥さん」なんて呼びかけるのは、やっぱり似合わない感じはします(^^; 

ジュリーが司会でなくても、番組は面白いと思っていたので、もっと続いて欲しかった。この番組がワンクールで終わらず、もっと大成功していたら、この後も もっとバラエティに出るようになったのかしらね?? 

wikiによると⇒ 新常識クイズ!目からウロコ

番組内容
「間違いだらけの○○」と題し、タイトル通りにそれまでの常識を覆すような「新常識」をクイズ形式で紹介していた。

出演者
沢田研二(総合司会)
高田純次(レギュラー解答者)
はしのえみ(同上)
坂上みき(ナレーター・番組キャラクター「ウロコちゃん」の声)

放送期間 2001年4月16日 - 2001年9月17日
放送時間 月曜 19:00 - 19:54

 

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2015年の「こっちの水苦いぞ」は加瀬さんを偲ぶツアーだった。

2022年05月03日 | JULIE メモリーズ

超プチジュリーです。ユーミンのコンサートで、ゲストのポルノグラフィティが、TOKIOを歌ったそうです。

よくよく調べてみたら、ユーミンもゲストだったそうです。⇒こちら



今日はラジオ関西「ジュリーにチェックイン!」。アルタイムで聞けないので、後からラジコで聞きます。先週かかった加瀬さんの作曲の「きわどい季節」はいつのツアーで歌っていたかな・・と気になって調べてみました。2015年の「こっちの水苦いぞ」のツアーで、加瀬さんの追悼の曲目でした。

「こっちの水苦いぞ」のツアーについては、加瀬さんの追悼であったこと以外は、すでに殆ど忘れていました。グレースさんが体調を崩して、ツアーは8月からに延期になっていたことも、ふり返って思い出しました。

私の初日は9月2日の大阪フェスでした。こちら⇒大阪フェスティバルホール 9月2日 「こっちの水苦いぞ」2015年

※加瀬さんが亡くなった追悼のライブなので、MCでは加瀬さんとの思い出をジュリーが語ってます。ジュリーの加瀬さんへの思いや、今とは大きく違うライブ状況にコロナ禍の今を感じてしまい、当時のMCを再度アップします。



大阪フェス・2015年9月2日、MC⇒『後ろから座れの声はないですか。立っていないとダメという事はありません。それは自己責任ですが心配します。いつまでも若いと思っているとちゃんとケアしとケア。』とダジャレ(^^ゞ

アンコール前『加瀬さんからワイルドワンズと一緒にやろう、オリコンで一位を取ろうと誘われた。最初は歌うのはジュリー1人でいいよ。でも僕は植田さんがいるのに? 加瀬さんが1曲だけ歌うことになって、レコーディングの日、加瀬さんがブースから出てきて「聴かせて」と、いいね、いいね!OKだね! そんな簡単な人です。(※ジュリーウィズ ワイルドワンズの思い出)

加瀬さんが亡くなったのは、九州でお芝居をやっている時で、加瀬さんは交友範囲が広いから、僕は行かなくてもいいよね。加瀬さんに僕は どういう位置を占めていたのか知らない。 今度のコンサートではあれもこれも 歌おうと思っていた時に、加瀬さんが亡くなった。ZUZUや阿久さんの次は加瀬さんだな。

阿久さんの時は正月の初日あけで、簡単なことしかできなかった。加瀬さんは準備期間を与えてくれたのかな。世間は自死だというが、僕は事故だと思いたい。加瀬さんは楽しいことを自分で思いついてやる人。

今回は加瀬さんの曲で全部やろう。こんなにいい曲を僕にいっぱい書いてくれた。こんなに沢山のいい曲を書いてくれました。感謝しても足りない。皆さんにはお付き合いいただいて、有難うございます。』



この時の他のライブ会場では、ジュリーが「MCの時は座っていいんですよ」と呼び掛けているのに、前の人が座らないので、見えないから座れない。盛り上がる曲以外や、バラードは座ればいいのに、とブログに書いていました。

去年と一昨年のツアーでは、着席が義務でした。ロックンロールな曲やアンコールでは、立ち上がりたい気持ちが押さえきれなく湧き上がり、ジュリ~♪!!と声も出せない状況が、すっごくもどかしくて~!お正月のライブでは、マスクの下からジュリ~♪と低く押し殺した声が、周りからモレ聞こえてきました。もちろんそれは私も(^^;)

韓国では屋外ではマスク着用の義務はなくなったとか? でも今年のライブも、着席で静かに声を出さずに聞くことが義務づけられると思います。それはまだ仕方がないとして、着席のお陰で後方席でもジュリーの全体像が見えるのは嬉しいことです。なにせ、去年から殆どが後方席ばかりだから(-_-;)

多分、もうマスクは解禁です。と言われてもマスクは着けると思うし、スタンディングOKです。と言われても、最初から立ち続けるのはもう しんどいだろな・・。座っているのがあまりに樂すぎますわ。そろそろ、ライブのお知らせが届いても良さそうな。

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横浜みなとみらいで「悪魔のようなあいつ」

2022年04月20日 | JULIE メモリーズ

今週もラジオ関西のPlaylist of Harborland、火曜日歌謡曲「ジュリーにチェックイン!」はお休みです。淋しいですが、田名部さんのお元気な声で、来週からの復活を心からお待ちしています。



90年代当時、J友さんから伺った話です。某企業の広報課にお勤めの身内の方が、久世光彦さんにインタビューする機会がありました。元ジュリーファンだったので、インタビューの際には必ず聞きたいと「悪魔のようなあいつ」のビデオは出ないのですか?と伺ったそうです。

しかし久世さんからは「あれは元のテープが無いんだよ」と言う返事だったそうで、それを聞いて、ほんとにガッカリしました。

長年、再放送もされず、ファンの渇望の幻のドラマと言われていた「悪魔のようなあいつ」。良を演じるジュリーの陰影の濃い妖艶な佇まいは、くっきりと脳裏に焼き付いていて、あれは幻なんかじゃない。歌番組のジュリーとは違う、翳りと背徳に満ちたジュリーの美しさは、どうしようもなく堕ちてゆく破滅的なドラマのせいだろうか? 冷酷で残忍で身勝手で、彼を愛する人々を振り回して本当に悪魔。悪魔だからこそ、濡れたような美貌が際立つのかもしれません。 

少年の面影を残しながらも、成熟した大人の芳香を湛えて、いやもう、なんでもいいから、とにかくもう一度見たい!と長年願っていました。

良ちゃんに飢えていたお陰で、画面は真っ黒で声だけが聞こえるVHSテープとか、いい加減なモンまで買ったこともありました。しかし映像がないと、まったくツマランのよ(-_-;) とにかく良ちゃんの、震えるような綺麗な顔が見たいの~!!! 

ところが・・

その数年後に「悪魔のようなあいつ」が、横浜みなとみらいの放送ライブラリーで見られると、何かのお報せで知りました。ジュリ友さんと、いつか必ず見に行きましょう!!

1997年10月18日、ついに待望の「悪魔のようなあいつ」をジュリ友さんと3人で観に行く日がやってきました。見られるその場所は、横浜のみなとみらい地区にある、放送ライブラリー。

もう25年も前だから、記憶は遠いけど、海岸端のみなとみらい地区は、ただ広いばかりで、当時は建物もあまり無かったんじゃないかな? 駅からも遠くて、まだか~と思った記憶があります。⇒ライブラリー開設(※1991年10月 - 横浜みなとみらい21地区(横浜博覧会跡地)のパシフィコ横浜の並びに、初代放送ライブラリー開設)

「悪魔のようなあいつ」は、横浜が舞台のドラマの中に分類されていました。所蔵は1回目と2回目のみですが、見られるだけで嬉しい(^o^)丿 横浜の風景がなければ、ライブラリーに所蔵されたのかどうか? ここには若きジュリーの優美な姿と共に、みなとみらいなどに開発される前の、かつての横浜の風景が記録されているのです。

今ではデジタルデータ化されていますが、当時は視聴するためにVHSテープが渡されたと思います。ヘッドフォンをつけて、J友3人で画面を囲んだ時は、ほんとにワクワクしました。横浜の港の風景の中を歩く、パナマハットの良ちゃん。少しうつむいて、揺れるように歩くその儚げな細い体。動き喋る良ちゃんのお姿、どれほど恋焦がれ待ち望んだことか

がしかし、2本目を見ている頃になると、大きなヘッドフォンを装着しているせいか、だんだん頭痛がしてくるの。 2本目が終わる前には、かな~りしんどかった しかも、次の予定が迫っていたので焦りましたわ。

この日は、ジュリーのサーモスタットな夏のコンサートツアーの最終日でした。思わず長い時間見てしまったので、開演時間に間に合うように慌てた記憶があります。乗る駅は関内だっただろうか?もう忘れてしまったけれど。

10月の日の暮れるのは早い。だんだんと暮れてゆく中を、間に合うかしらとドキドキしながら、初めての日比谷の野音まで、ジュリーのツアーTシャツを着てJ友さんと歩いた暗い夜道が懐かしいです。

1997年の「サーモスタットな夏」の日比谷の野音には、多くのコメントを頂いています。⇒30周年「サーモスタットな夏」

既に貼りましたが、J友さんから頂いた画像です。日比谷の野音のピンクの衣装が派手なジュリさんは、悪魔のような不健康な良ちゃんとは違い、健康で活発でドンとした貫禄が、その身についておりました(^-^)

その後の、2001年だっただろうか。「悪魔のようなあいつ」はDVD化されて、幻の作品ではなくなったのでした。久世さんはオリジナルが無い、とおっしゃっていたけど、ご存じなかったのでしょうね。



みなとみらいの「放送ライブラリー」はその後、閉鎖したのでどうなっちゃったのかな?と思っていました。去年、たまたま入ったレトロなビルで、その存在を確認出来て嬉しかったです。しかも、ジュリーの映像作品の所蔵も増えてるし~(^-^)

「流れてやまず」も「悪魔のようなあいつ」等も視聴できる 放送ライブラリー とは⇒放送ライブラリー(ほうそうライブラリー)は、神奈川県横浜市中区の横浜情報文化センター(情文センター)内にある、放送番組資料の保存・視聴および展示のためのアーカイブ施設である。
資料としての保存に値するものが系統的に収集され、デジタルデータ化されて保存されており、一般利用者は無料でこれらの資料を視聴することができる。

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「阿久悠と松本隆」歌謡曲が輝いていた時代の記録。

2022年03月11日 | JULIE メモリーズ

J友さんから見せて頂きました。「阿久悠と松本隆」中川右介著 

中古本だそうですが、なかなか面白く読みました。阿久悠と松本隆が作詞家として輝いていた、あの時代のジュリーや人気歌手たちを、私はリアルタイムでお茶の間で見ていたんですから。

かって、歌は世に連れ 世は歌に連れ・・と言われていた、日本人全員が知り、誰もが歌い聴いていた歌謡曲。時代と共に歩み、その時代を彩るものであった歌謡曲が、お茶の間の中心にいなくなって久しい。曲は個々人のものとなり、21世紀になると、誰もが知るヒット曲というものが無くなりました。

本は題名のとうり、時代を造った二人の人気作詞家を取り上げ、売上枚数を比較することにより、二人の作詞以外の、あの当時売れていた歌謡曲も一緒に語り尽くすという作品です。

阿久悠さんといえばジュリー。なので、本にはジュリーとの関係が始まった1975年から、二人の関係が終わるまでが、一年間ごとに出した曲と、その売り上げ枚数も書いてあります。

年間で売れた阿久、松本の作品と、その他ヒットした多数の曲との売上枚数の比較から、その時代を読み解いていくので、歌手本人についての作者の主観はほぼ排されています。例えジュリーであっても、歌が上手いとかキレイだとかは別問題、問題なのはあくまで曲の売上枚数です。阿久悠さんと松本隆さんの詞自体についての考察なども、深く掘り下げたり追及はしない、けれども詞の比較や時代の変化を読み解きます。

ジュリーのところを、ちょっとだけ

年間で、ジュリーだけではなく阿久悠さんが関わった歌手とその売り上げ枚数、松本隆さんのヒット曲と関わった歌手。その二人以外の年間のヒット曲の売り上げ枚数も描かれていて、そのヒット曲の殆どを自分がわかる、知っているという事実に我ながら驚くとともに、いや、それは当然だと思ったり。

70年代から80年代にかけてのあの頃、何が流行っていたのか、誰が売れていたのか、それを今でも覚えているので、本に書いてあることが いちいちそうだったと腑に落ちます。なのでスラスラと矢継ぎ早にページをめくることができました。ジュリーのファンじゃなくても、あの当時の日本人の多くが、お茶の間で歌謡曲を聴いていた時代です。

「スター誕生」という阿久悠最大の「作品」が作られた経緯と、それにまつわる芸能プロダクションやテレビ局の思惑、ナベプロ帝国の翳りなど、淡々とその事柄が語られる。決して一人の歌手に熱くならずに、その売り上げや事柄を正確に記す。淡々とクールな筆致にかえって信頼を覚えました。

ジュリー以外では、淳子に百恵、新御三家など、阿久悠、松本作品を歌っていない当時の人気アイドルたちが多数が取り上げられて、そんなこともあったなぁ、こんなアイドルいたな、世良さん原田真二さん・・と遠い眼で思い出しました。(世良さんはカムカムに出てましたね。)

不運な曲として1976年の「ウインクでさよなら」が取り上げられ、新幹線の事件のせいで謹慎し、TVで歌うことが出来ず、さしてヒットもしなかった・・の件には、今でも心臓がチクリと痛みます。私だって京都駅の改札で(比叡山の当日)「また来たのか」と国鉄職員に言われたくらいだから、当時の国鉄職員の意識の低さ、失礼さがよくわかるというもんです!腹立つわ~(-_-;)(殴ったらあかんけど💦)

1976年の「ウインクでさよなら」夜のヒットスタジオより

そしてピンクレディーが登場、彼女たちの「スター誕生」でのデビューまでの初めて語られる秘話、初めは全く周囲から期待されていなかったという裏話が面白かった。スタ誕、もちろん私も見てたわ!

ジュリーとピンクレディーは、78年のレコード大賞で激突しますが、その裏話がなんともはや・・💦 その年の紅白をボイコットした、ピンクレディーのその後の一気の凋落から解散には、もの悲しさを感じましたが、ボイコットの事など、とっくに私は忘れていました。そんなこともあったなぁ・・

1978年の暮れの紅白は、ジュリーが大トリ!紅組は百恵ちゃん! 裏番組のピンクレディーなんぞ、私は微塵も気にかけなかった。多くの日本人は裏番組のピンクレディーなど忘れ、ジュリーと百恵ちゃんの紅白を見たんだと思います。それは、この年の紅白の視聴率にも表れているはず。

賞というものに権威が無くなり、旨味が無くなったいま、芸能界の裏で蠢いていた利権やフィクサーたちは古いものとして、時代と共に消え去ったのだろうか?時代は変わったんだろうか?いやいや、旨味のあるものには誰しもが群がるもの・・そういうものは形を変えて無くなりはしないと思います。

阿久悠さんとジュリーの蜜月は1979年まで。長いジュリーの歌手人生の中で、たった4年間だったのかという感慨と、なんて濃密で華麗な時代だったんだろう。そのあまりの華々しさ、強烈な印象が、後のジュリーを縛る枷にもなったのかもしれない、と思うとちょっと切ない・・

しかし、曲の売り上げ枚数という物差しだけでは、歌手本人や時代を語れないのも事実。例えば阿久悠作品ではない「TOKIO」は、最高で売上8位だけど、今ではジュリーの代表作の1曲と言っていい。東京の曲と言えば「TOKIO」TV画面から、いまでも良く聴こえてくる。文中にも、枚数では売れた「LOVE抱きしめたい」より、ジュリーが歌わなければ売れなかったはず、ボギーなんて誰も知らない、と言われてしまった「カサブランカダンディ」の方が、曲としては後の印象に残ったと書かれています。

80年代からは松本隆さんが作詞家の代表にとって変わったと言えるけど、その後のページは流し読み('◇')ゞ 松本さんは現在関西にお住まいで、去年あたりからよく新聞で当時に関するインタビューを拝見します。結局、松本さんも懐古の時代の人なんだろな。今となれば。

いつ出た本なのかと奥付を見たら、2017年。割と最近の本でした。阿久悠さんが出した本は何冊か読んだけれども、売り上げ枚数で比較した本は他には無かったかも。作者の中川右介さんは、1960年産まれの作家・評論家で、60年産まれなら、ちゃんとその時代を知っているだろうから、本書に信頼がおけました。

昔からのジュリーファンなら、読めばとても懐かしさを覚えるだろうし、新しいファンの方なら、曲の売り上げ枚数と言う動かせない事実の前に語られるジュリーなので、当時のジュリーの人気のほどがおわかりになるはずです。そして、だんだんと売れなくなってゆく流れを、レコードの売り上げ枚数と言う、シビアに隠せない事実で感じることが出来るでしょう。

レコード大賞の裏話にも興味を惹かれると思いますので、新しいファンの方にもおすすめです。



ジュリー様と関りのある、マキノノゾミさんと、佐野元春さんが芸術選奨を受賞しました。と、J友さんより。今朝の新聞に載っていました。

国の文化庁がくれるんだから、権威があるんやろな。と思いながら、賞の内容がよくわからないというのが本音です。自治体からの賞は頂けても、上から貰うものは、ジュリーは貰えそうにもないと思うけど、マキノさん、佐野さん、おめでとうございます✨ 

J友さんのガーデンより

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② ジュリーが表紙のBRUTUS「歌謡曲’96」

2022年03月08日 | JULIE メモリーズ

 ジュリーが表紙のBRUTUS「歌謡曲’96」画像と記事をJ友さんから送っていただきました。その②記事です。途中が切れていたり、読みにくい箇所もありますがご容赦下さい。

 

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