脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

鴎外試論(12)

2007年11月01日 19時11分57秒 | 読書・鑑賞雑感
人は日々、生の荷車を引く。
荷の中身やその価値が問題なのではない。
車に付いている社名やら、
引く者の肩書きなど、尚更問題ではない。

無名な人間が引くカラッポの荷車であれ、
無心に懸命に引いている姿だけが、真実なのである。

人生に、カラも荷も、否定も肯定も無い。
生きている、その手応えで常に満ちていれば、
余計に何かを求めようとする自分はないのだろう。

求めることが起こらず、常に足りている心…。
鴎外の「空車(むなぐるま)」は、人生の矛盾の表現であろうが、
矛盾が矛盾で無くなる境地が、自足という悟達であろう。

『高瀬舟』の同心・庄兵衛は、罪人の喜助と己との違いを、
財産の観念における桁の違いとして、相対化することで理解してみる。
だが、それでも気持ちが割り切れず、こんな感想を漏らす。
「不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。」

この文句は『妄想』という作品中に引用された、
ゲーテの次の言葉にも照応している。

「いかにして人は己を知ることを得べきか。
 省察を以てしては決して能わざらん。
 されど行為を以てしては或は能くせむ。
 汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。
 汝の義務とは何ぞ。日の要求なり」

鴎外は、この引用の後に次のように付け加えている。

「日の要求に応じて能事畢(おわ)るとするには
 足ることを知らなくてはならない。
 足ることを知るということが、自分には出来ない。
 自分は永遠なる不平家である。」

これが齢五十に近い鴎外の言葉である。厳しい自己批評である。
この試論を記す私にとっても、これ以上先に進むに、言葉が見つからない。
未だに自分が生きられていない境位について、凡愚が何をか況んやである。

「日の要求に応じて能事畢(おわ)る。」
この述志の句に、私は、ある詩人の、詩の書き出しの数行を想い出す。

「私は願ふ。
 陽の照る麦畑に立って眺めてゐる
 一年の課役を果したあとの老人でありたいと」
      (三好豊一郎「希望」から引用。『荒地詩集 1951』国文社所収)

『妄想』に登場する白髪の老人は、松林の間の小さな家で、
大きな目を見開いたまま、遠い遠い海と空とを眺めている。
人生の課役を果たした後の老人のように…。

明るい陽射しの中、波や風の音と交じわって、
老人は、静かに立って眺めている。

明るい砂浜、
瞳の中の遠い海と空、
波の音、
風の音、
揺れる松林、
小さな家…。

これらは風景でなく、
その全てが、鴎外の真澄な心であるような気がする。(了)

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