「我があるから敵があり、我がなければ敵もない。」
だいぶ以前に、武術家の甲野善紀さんの講演会で耳にして、
ハッとさせられた言葉である。
江戸中期に流布したという『田舎荘子』の中の一編、
『猫の妙術』は、武術の書らしいが、初めて読んだとき大変面白かった。
甲野さんの最初の言葉は、道に通じた先人ならば、誰が述べていても
おかしくないが、『猫の妙術』から引かれているようにみえる。
『猫の妙術』は、ある剣術者の家に大鼠が出るので、猫を借りてきて
退治させようとする話である。
剣術者は、近隣で「逸物の名を得たる猫ども」を次々大鼠に差し向けるが、
どの猫も全くかなわない。
そこで、噂に聞こえた鼠取り名人の古猫を連れてくるのだが、
この古猫はぼんやりしていて、見るからに頼りなさそうである。
ところが、古猫を大鼠に向かわせると、大鼠はすくみ上がってしまい、
名人はのろのろと鼠に近づくや、あっけなくこれを仕留めてしまう。
その夜、
強鼠捕りに失敗した猫どもが集まり、名人の古猫を上座に据えて、
名人の技について教えを乞うことになる。
名人は笑いながら、他の猫どもにどんな修行をしてきたかと尋ねる。
黒猫が言う。
「私は早業の身のこなしを磨きあげてきました。」
名人:貴公の修行はただ動きの修練に過ぎない。
器用さのみに目を向けていると、本筋を見失うものだ。
虎猫が言う。
「私は気力・気迫が大事と、気を練って参りました。」
名人:貴公のは、粗雑な気勢で相手を威嚇するに過ぎない。
気迫が上回った相手にはかなうまい。
灰毛の初老猫が言う。
「気を重視することが、自分へのこだわりとならぬように、
私は心を練ることに勤めて参りました。
ですが、私の柔和に相手を包み込む心法を以ってしても、
この大鼠には施しようがありませんでした。」
名人:貴公のいう和は、意識的に和そう合わせようという和であって、
それでは自然の働きは生まれてこない。
真に自然の妙法を得るには、一切の思慮願望を捨て、
ただ、自分の体の感にしたがって動くのだ。
自分へのこだわりがなくなれば、
自然と自分の敵は一人もいなくなるものだ。
以上は、名人猫と武者猫との問答を骨組みだけ紹介してみたが、
次に話は、さらにその奥旨を求める剣術者と名人猫との問答に移る。
名人猫は、最後の猫に語った教えを、今一度噛み砕きつつ、
「思うことなく為すことなく、寂然不動、感じて遂に天下の故に通ず」
という『易経』を引きながら、奥義に至るには、文字や言葉によらない
という「教外別伝」や「見性」について触れ、話を結んでいる。
現代人がいくら修行を積んだ処で、「見性」だの「悟り」だの
あり得べくもない。少なくとも私は、そう思っている。
だが、至道の言葉やその息遣いに触れるだけでも、
遥か遠くにではあっても、真実の世界が望めるかのようで、
私は、自分の気持ちが嬉しくも、楽にもなるものである。
参照:『NHK人間講座「古の武術」に学ぶ(2003年)』(甲野善紀著)
だいぶ以前に、武術家の甲野善紀さんの講演会で耳にして、
ハッとさせられた言葉である。
江戸中期に流布したという『田舎荘子』の中の一編、
『猫の妙術』は、武術の書らしいが、初めて読んだとき大変面白かった。
甲野さんの最初の言葉は、道に通じた先人ならば、誰が述べていても
おかしくないが、『猫の妙術』から引かれているようにみえる。
『猫の妙術』は、ある剣術者の家に大鼠が出るので、猫を借りてきて
退治させようとする話である。
剣術者は、近隣で「逸物の名を得たる猫ども」を次々大鼠に差し向けるが、
どの猫も全くかなわない。
そこで、噂に聞こえた鼠取り名人の古猫を連れてくるのだが、
この古猫はぼんやりしていて、見るからに頼りなさそうである。
ところが、古猫を大鼠に向かわせると、大鼠はすくみ上がってしまい、
名人はのろのろと鼠に近づくや、あっけなくこれを仕留めてしまう。
その夜、
強鼠捕りに失敗した猫どもが集まり、名人の古猫を上座に据えて、
名人の技について教えを乞うことになる。
名人は笑いながら、他の猫どもにどんな修行をしてきたかと尋ねる。
黒猫が言う。
「私は早業の身のこなしを磨きあげてきました。」
名人:貴公の修行はただ動きの修練に過ぎない。
器用さのみに目を向けていると、本筋を見失うものだ。
虎猫が言う。
「私は気力・気迫が大事と、気を練って参りました。」
名人:貴公のは、粗雑な気勢で相手を威嚇するに過ぎない。
気迫が上回った相手にはかなうまい。
灰毛の初老猫が言う。
「気を重視することが、自分へのこだわりとならぬように、
私は心を練ることに勤めて参りました。
ですが、私の柔和に相手を包み込む心法を以ってしても、
この大鼠には施しようがありませんでした。」
名人:貴公のいう和は、意識的に和そう合わせようという和であって、
それでは自然の働きは生まれてこない。
真に自然の妙法を得るには、一切の思慮願望を捨て、
ただ、自分の体の感にしたがって動くのだ。
自分へのこだわりがなくなれば、
自然と自分の敵は一人もいなくなるものだ。
以上は、名人猫と武者猫との問答を骨組みだけ紹介してみたが、
次に話は、さらにその奥旨を求める剣術者と名人猫との問答に移る。
名人猫は、最後の猫に語った教えを、今一度噛み砕きつつ、
「思うことなく為すことなく、寂然不動、感じて遂に天下の故に通ず」
という『易経』を引きながら、奥義に至るには、文字や言葉によらない
という「教外別伝」や「見性」について触れ、話を結んでいる。
現代人がいくら修行を積んだ処で、「見性」だの「悟り」だの
あり得べくもない。少なくとも私は、そう思っている。
だが、至道の言葉やその息遣いに触れるだけでも、
遥か遠くにではあっても、真実の世界が望めるかのようで、
私は、自分の気持ちが嬉しくも、楽にもなるものである。
参照:『NHK人間講座「古の武術」に学ぶ(2003年)』(甲野善紀著)