嫉妬と劣等感は、親子のように顔がよく似ている。
両者は混ざり合うことも多く、判然と区別し難い処があるが、
どう違い、どのように心に生起するのだろうか?
両者は共に、負性(マイナス)の人間性である。私が思うに、
嫉妬は、愛情欲求から発する、満たされぬ愛の負の表出であり、
劣等感は、自尊心がマイナスとなった心の状態であろう。
嫉妬は「愛情」欲求に、劣等感は「承認」欲求に絡んでいる。
嫉妬は、他者に恃(たの)むが、劣等感は自身に負い目をもつ。
劣等感の強い人は、自尊心がマイナスなので、何かで自尊心を高め
ねば気が済まず、見栄っ張り、目立ちたがり、様々に背伸びを試み、
自尊心をプラスにしたい。彼/彼女たちは「愛」よりも、成功とか
名誉、他者からの賞賛を求めるタイプである。
嫉妬は、好奇心とか警戒心と同じく「嫉妬心」というべき自意識で
り意志である。意識とは何モノかの意識(フッサール)である以上、
嫉妬をするなら必ず何かの志向対象がセットで存在するはずである。
対象を欠いた、恒常的な嫉妬状態はあり得ないと思う。
一方劣等感は、劣等感とは言うが、「劣等心」とは言わない。
この「感」とは、意識のように「線」的なものではなく、「面」的
なものであり、ある傾向をもった心の態勢・状態を表していると
思える。
心という白い布に、穿たれた汚点が嫉妬なら、それが周囲に沁みだ
して、劣等感というシミが面として拡がるかのようなものである。
嫉妬と劣等感は、一面では、原因と結果という関係にもみえるが。
(但し、○○心は意識、××感は心の状態というのは、この表現を
採る全ての言葉にあてはまる一般法則ではない。)
ところで、ヒトの心に愛が萌すのは、象徴的に言えば、母親の授乳
行為からであり、子は乳房と口との間に<愛>を芽生えさせる。
母という他者を受容し、受動的に<愛されること>を最初に学び、
その反射として自己を感じ、慈しむという情動形成が考えられる。
愛とは、互いが微笑みに応え、共感を深めていくことで育まれる
肯定性の美しい感情である。
自己への愛は、人間であれ動物であれ、自己保存本能に胚胎する。
それは、漠然とした自己を満たす太洋感情であり、共感関係を本質
とする。自分への愛や共感が満たされないとき、ヒトは心気阻喪、
自失し、ひねくれる。そして愛に飢え、孤独にも陥る。
おそらく、嫉妬という自意識の本質は、愛一般或いは自己愛と近い
関係にあることにある。例えば、幼い兄弟がいて、母親が弟ばかり
可愛がれば、兄は弟に嫉妬を覚えるだろう。兄は、母の自分への愛
を弟と比較する訳だが、このように嫉妬とは、三者(三角)関係を
描いて成立するものに思える。
つまり、嫉妬が発生するときには、二者関係では足りず、第三項が
必要なのである。
劣等感は、自分がヒトより劣っていると感じる劣者の感受性とその
心理状態であるが、それは一対一(or集団)の二者関係でも起こる。
嫉妬の場合に、彼女はオレよりAが好きらしいから、オレはAに
嫉妬するような、三者関係を構成するのとは異なっている。
では、Aが自分より営業成績が良いとか、収入・財産が多いという
場合ではどうだろうか? 自分は劣等感と同時にAに嫉妬を抱くこ
ともあり得る。この場合の嫉妬は「愛」とは無関係な嫉妬である。
二者関係なのに嫉妬が起こり、比較劣位な自分は劣等感を覚える。
また日本語には、僻(ひが)み、妬(ねた)み、嫉(そね)み等、嫉妬と
劣等感を足してさらにスパイスを効かせたような負性感情のバリエ
ーションがある。
これらは、嫉妬と劣等感がこじれて混じり合い、さらに相手への怒
り・憎しみのような、対象攻撃性・破壊性の感情が加わったものに
思う。
それは、負性心証が言葉や動作を通して、能動化して現われ出たよ
うな情動的状態であり、嫉妬・劣等感が単なる意識や受動的心象を
超えて、その人の人格・性格の一部、人生の生き方そのものとして
恒常化していく事態、嫉妬深い人だの、劣等感の強い人という、
アイデンティティー化をさえ思わせる根深さを感じさせる。
議論がややこしくなったので、まとめると、
大前提としては、嫉妬は「愛情」欲求に、劣等感は「承認」欲求に
絡んでいるという処に、本質的で根本的な相違点がある。
ヒトは、愛(他者からの愛と共感)が満たされないとき、孤独や空虚、
ストレスを抱くが、そこに自分より比較優位な第三項を見出したと
き、不可避的に三角関係が構成されてしまうのだ。優越的な第三者
の前では愛が歪むのだ。その内心の情動の揺れが、嫉妬である。
愛に関係する嫉妬は三角関係だが、二者関係でも、他人の属性(容
姿・才能・資格・学歴等)や所有物に嫉妬することがある。
だが、二者関係での嫉妬とは、寧ろ羨望(うらやましさ)というべき
ではないか。羨望は、愛情欲求よりも、承認欲求と関係している。
二者関係で起こる「嫉妬」は、嫉妬なのではなく、劣等感或いは、
自分も承認を受けたいという欲求の表出とみるべきである。
‥‥ 以上、考えてみたが、
嫉妬と劣等感は、人間精神における最も抜き差しならない、厄介な
負性感情である。ひょっとしたら、歴史を動かしている動力とは、
正の精神性よりも、嫉妬と劣等感ではないか、とも思いたくなる。
その分析は、意外と手ごわく、この心裡の奥深さ、草深さに、泥沼
に踏み込んでいく感じで、立ち往生と逡巡をするばかりだった。
自分の思惟と分析能力に未熟を感じるが、何度でも再考を続けたい
と思う程、人間について本質的で重要なテーマであると思っている。
両者は混ざり合うことも多く、判然と区別し難い処があるが、
どう違い、どのように心に生起するのだろうか?
両者は共に、負性(マイナス)の人間性である。私が思うに、
嫉妬は、愛情欲求から発する、満たされぬ愛の負の表出であり、
劣等感は、自尊心がマイナスとなった心の状態であろう。
嫉妬は「愛情」欲求に、劣等感は「承認」欲求に絡んでいる。
嫉妬は、他者に恃(たの)むが、劣等感は自身に負い目をもつ。
劣等感の強い人は、自尊心がマイナスなので、何かで自尊心を高め
ねば気が済まず、見栄っ張り、目立ちたがり、様々に背伸びを試み、
自尊心をプラスにしたい。彼/彼女たちは「愛」よりも、成功とか
名誉、他者からの賞賛を求めるタイプである。
嫉妬は、好奇心とか警戒心と同じく「嫉妬心」というべき自意識で
り意志である。意識とは何モノかの意識(フッサール)である以上、
嫉妬をするなら必ず何かの志向対象がセットで存在するはずである。
対象を欠いた、恒常的な嫉妬状態はあり得ないと思う。
一方劣等感は、劣等感とは言うが、「劣等心」とは言わない。
この「感」とは、意識のように「線」的なものではなく、「面」的
なものであり、ある傾向をもった心の態勢・状態を表していると
思える。
心という白い布に、穿たれた汚点が嫉妬なら、それが周囲に沁みだ
して、劣等感というシミが面として拡がるかのようなものである。
嫉妬と劣等感は、一面では、原因と結果という関係にもみえるが。
(但し、○○心は意識、××感は心の状態というのは、この表現を
採る全ての言葉にあてはまる一般法則ではない。)
ところで、ヒトの心に愛が萌すのは、象徴的に言えば、母親の授乳
行為からであり、子は乳房と口との間に<愛>を芽生えさせる。
母という他者を受容し、受動的に<愛されること>を最初に学び、
その反射として自己を感じ、慈しむという情動形成が考えられる。
愛とは、互いが微笑みに応え、共感を深めていくことで育まれる
肯定性の美しい感情である。
自己への愛は、人間であれ動物であれ、自己保存本能に胚胎する。
それは、漠然とした自己を満たす太洋感情であり、共感関係を本質
とする。自分への愛や共感が満たされないとき、ヒトは心気阻喪、
自失し、ひねくれる。そして愛に飢え、孤独にも陥る。
おそらく、嫉妬という自意識の本質は、愛一般或いは自己愛と近い
関係にあることにある。例えば、幼い兄弟がいて、母親が弟ばかり
可愛がれば、兄は弟に嫉妬を覚えるだろう。兄は、母の自分への愛
を弟と比較する訳だが、このように嫉妬とは、三者(三角)関係を
描いて成立するものに思える。
つまり、嫉妬が発生するときには、二者関係では足りず、第三項が
必要なのである。
劣等感は、自分がヒトより劣っていると感じる劣者の感受性とその
心理状態であるが、それは一対一(or集団)の二者関係でも起こる。
嫉妬の場合に、彼女はオレよりAが好きらしいから、オレはAに
嫉妬するような、三者関係を構成するのとは異なっている。
では、Aが自分より営業成績が良いとか、収入・財産が多いという
場合ではどうだろうか? 自分は劣等感と同時にAに嫉妬を抱くこ
ともあり得る。この場合の嫉妬は「愛」とは無関係な嫉妬である。
二者関係なのに嫉妬が起こり、比較劣位な自分は劣等感を覚える。
また日本語には、僻(ひが)み、妬(ねた)み、嫉(そね)み等、嫉妬と
劣等感を足してさらにスパイスを効かせたような負性感情のバリエ
ーションがある。
これらは、嫉妬と劣等感がこじれて混じり合い、さらに相手への怒
り・憎しみのような、対象攻撃性・破壊性の感情が加わったものに
思う。
それは、負性心証が言葉や動作を通して、能動化して現われ出たよ
うな情動的状態であり、嫉妬・劣等感が単なる意識や受動的心象を
超えて、その人の人格・性格の一部、人生の生き方そのものとして
恒常化していく事態、嫉妬深い人だの、劣等感の強い人という、
アイデンティティー化をさえ思わせる根深さを感じさせる。
議論がややこしくなったので、まとめると、
大前提としては、嫉妬は「愛情」欲求に、劣等感は「承認」欲求に
絡んでいるという処に、本質的で根本的な相違点がある。
ヒトは、愛(他者からの愛と共感)が満たされないとき、孤独や空虚、
ストレスを抱くが、そこに自分より比較優位な第三項を見出したと
き、不可避的に三角関係が構成されてしまうのだ。優越的な第三者
の前では愛が歪むのだ。その内心の情動の揺れが、嫉妬である。
愛に関係する嫉妬は三角関係だが、二者関係でも、他人の属性(容
姿・才能・資格・学歴等)や所有物に嫉妬することがある。
だが、二者関係での嫉妬とは、寧ろ羨望(うらやましさ)というべき
ではないか。羨望は、愛情欲求よりも、承認欲求と関係している。
二者関係で起こる「嫉妬」は、嫉妬なのではなく、劣等感或いは、
自分も承認を受けたいという欲求の表出とみるべきである。
‥‥ 以上、考えてみたが、
嫉妬と劣等感は、人間精神における最も抜き差しならない、厄介な
負性感情である。ひょっとしたら、歴史を動かしている動力とは、
正の精神性よりも、嫉妬と劣等感ではないか、とも思いたくなる。
その分析は、意外と手ごわく、この心裡の奥深さ、草深さに、泥沼
に踏み込んでいく感じで、立ち往生と逡巡をするばかりだった。
自分の思惟と分析能力に未熟を感じるが、何度でも再考を続けたい
と思う程、人間について本質的で重要なテーマであると思っている。