いとうな日々

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来年こそ 甲子園初出場

2007-12-23 | アマチュア野球
母校、修猷館高校は未だ、春夏を通じて甲子園への出場経験がない。過去何度か惜しいことはあったが。昨年、新チームが福岡市長杯に優勝し、九州大会でも善戦して、「21世紀枠」の候補に福岡高野連から推薦を受けたが、最終には残れなかった。

1947年の夏、修猷館中学は、福岡県の決勝戦まで進んでいた。決勝では、当時黄金時代だった小倉中学に敗れた。翌年、学制改革で新制高校となったが、この年も修猷館高校は準決勝で小倉高校に敗退した。両年とも小倉が全国制覇しており、なんとも皮肉なことだ。この時は後に西鉄ライオンズ出活躍した河野昭修先輩が在籍していた。
河野昭修さんという選手がいた。福岡県内屈指の名門・修猷館高校の出身である。

47年の夏、河野さんがエースで四番の修猷館中学は、福岡県の決勝戦まで進んでいた。決勝では、当時黄金時代だった小倉中学に敗れたが、その小倉中は甲子園で全国優勝している。

翌年、学制改革で新制高校の3年に編入したが、この年も河野さんの修猷館高校は準決勝で小倉高校に敗退。その小倉高校はまたもや、夏の甲子園も制覇した。河野さんは卒業後、早稲田に進学。だが、戦後の混乱期で家庭の経済状況が厳しく、わずか3カ月で福岡に戻った。

そして西日本鉄道に入社し、ノンプロチームで野球を続けていた。翌50年、西鉄はノンプロチームを主体に西鉄クリッパーズを結成する。存在意義のなくなったノンプロチームは、その年の夏に解散し、行き場のなくなった河野さんはクリッパーズの運営会社の社員として、いちおうプロ契約を結んだ。

西鉄ライオンズ 最強の哲学

1957年、この年は両校とも勝てば初出場となる戸畑高校との決勝戦で4-10で敗れている。
甲子園へのチャンスは昭和三十二年にもあった。右投げ本格派の石井元亨(昭和33年卒)左投げ技巧派の内山清一郎(同)と左右の投手をそろえ天才的打者谷口津一(同)捕手松原明敏(同)一塁山路重敏(同)遊撃堀紘明(同)中堅森弘樹(同)らがいた。谷口は手首を使った大下ばりのバッティングでカンの鋭い打者。予選で大いに打ちまくったのだが、頼みの両投手が病気で倒れるという悲運でまた涙をのんでいる。一、二年生による臨時投手でがんばり抜き、決勝戦に進むが、戸畑と対戦したところで力尽き、敗れた。

(修猷山脈、西日本新聞社、昭和46年版より)

そして、最も記憶に新しい1989年だ。準決勝戦で新庄を要する西日本短大附属のまえに1-9と敗退した。
西短大付が三回、肩の痛みをおさえて六試合投げぬいてきた修猷館波多江を襲い二死二、三塁から四球、エラーを挟む4短打で一挙6点を挙げ、コールドで修猷館の三十二年ぶりの決勝進出を阻んだ。

初回に1点先制した西短大付は三回、連投の波多江に対し木下、堤が短打と死球で出塁。竹内が送り、一死二、三塁とした。続く浜口は三振に倒れ二死となったが、柳川戦のヒーロー木附が波多江の決め球のスライダーを中前にはじき返し2点。南條も中前安打で1点追加。さらに西村慎四球の後、相手のエラーや新庄、本村の左前安打などで打者十人の猛攻で一挙6点を挙げた。

四回に無死一、二塁の好機を併殺打で逸した修猷館は五回、先頭の福徳が右越え二塁打、石黒の左前安打で一、二塁とし、波多江の併殺打の間に福徳が返り1点を返した。なおも、緒方、岩井の連打と斉藤の四球で満塁と粘りを見せ、南條をマウンドから引きずり下ろしたが、代わった中島に後続を断たれた。
(西日本新聞)

来年こそ後輩諸君が頑張って、初出場を成し遂げて欲しい!!

■ 訃報:「国会でがん告白」山本孝史さん死去=民主参院議員(毎日新聞)
国会で自らががん患者であることを告白し、がん対策基本法の成立などに尽力した民主党参院議員の山本孝史(やまもと・たかし)さん=比例代表=が22日、胸腺がんのため死去した。58歳。