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アントン・ブルックナー

2006-12-29 05:04:25 | 音楽史
BrucknerAnton Bruckner
SYMPHONIE NR.9
 
Eugen Jochum
Berliner Philharmoniker
 
アントン・ブルックナー(1824-1896)はオーストリアのアンスフェルデンで生まれ、教師でありオルガン奏者でもあった父親から音楽の手ほどきをうけた。ブルックナーは父親の仕事を手伝いながら、自分も父親と同じく教師になることを望んだ。13歳のときに父親が死去したのを機に、ブルックナーは聖フローリアン修道院に入り、聖歌隊に入隊し、オルガンやヴァイオリン、音楽理論を学んだ。その後、教師となったブルックナーはオーストリアのいくつかの村で教師やオルガン奏者の仕事に就いたが、21歳のとき聖フローリアン修道院に戻り、オルガン奏者となった。1851年までその仕事を続けながら、ミサ曲など宗教音楽の作曲をするようになった。
ブルックナーは1856年にリンツ大聖堂のオルガン奏者となり、この仕事を12年間続けた。この頃からウィーン音楽院の教授で有名な音楽理論家であったジーモン・ゼヒターのもとで対位法を学び、1861年からはリンツ歌劇場のオットー・キツラーから管弦楽法を学ぶようになり、この勉強はブルックナーが40歳になるまで続けられた。1865年にミュンヘンでヴァーグナーの「タンホイザー」や「トリスタンとイゾルデ」を知り、新しい和声法がもたらす音楽的な効果に衝撃を受けた。このときブルックナーはヴァーグナーと初めて会う機会を得た。翌年にはベートーヴェンの「交響曲第9番」を聴き、強い影響を受けた。
そしてブルックナーは1868年にウィーンに出て、ゼヒターの後任としてウィーン音楽院の教授となり、オルガンと音楽理論を教えるようになった。この頃、ブルックナーはパリやロンドンでオルガンの即興演奏を披露し、オルガン奏者として高い評価を得た。1875年からはウィーン大学の講師もするようになり、この講義には学生だったマーラーがいた。1878年にはウィーンの宮廷楽団のメンバーになった。
このウィーン時代にブルックナーは交響曲の作曲に没頭するようになったが、彼の交響曲は、粗野であるとか、無意味であるとか、あるいは演奏不能といわれ、しばしば演奏を拒絶されるなど、激しい批判に晒された。とりわけ、1873年にブルックナーが「交響曲第3番」をヴァーグナーに献呈し、ヴァーグナー協会に入会してからは、ヴァーグナー派とブラームス派との対立に巻き込まれ、反ヴァーグナー派でウィーンの楽壇に強い影響力を持っていたハンスリックから、ことあるごとに酷評を受けることになった。これに耐えかねたブルックナーはハンスリックに自分を批判することをやめさせるよう、皇帝に嘆願したと言われている。
ハンスリックも最初はブルックナーを好意的に評価していたように、ブルックナーの交響曲は実際はブラームスと同様、絶対音楽であった。ハンスリックがブルックナーを批判するようになったのは、ブルックナーがヴァーグナー派に寝返り、自分を裏切ったと感じたせいもあったかもしれないが、ブルックナーの交響曲が次第に大規模になり、ハンスリックの理解を超えてしまったということもあっただろう。この常軌を逸した音楽に対しては、ブルックナーの支持者さえも、そのまま演奏したのでは聴衆の理解を得られないと考え、省略したり編曲したりして演奏したほどであった。
毀誉褒貶に晒されながらも、ブルックナーの評価は1880年頃から安定してくる。「交響曲第7番」や「テ・デウム」が成功を収め、1890年には「交響曲第8番」を初演した。ブルックナーは1891年にウィーン音楽院を退職し、「交響曲第9番」に取り組んでいたが、最終楽章を完成させることなく1896年に死去した。

ブルックナーの交響曲はベートーヴェンの「交響曲第9番」とヴァーグナーの和声の影響を受けたもので、スケルツォにはオーストリアの農民のダンスが生かされている。とはいえその音楽は全く個性的なものであり、次のような特徴を持つ。

・第1楽章が弦楽器のトレモロから始まるブルックナー開始
・楽想が変化するときにオーケストラ全体を休止させるブルックナー休止
・オーケストラ全体でユニゾンをおこなうブルックナーユニゾン
・一つの音型を繰り返し音楽を効果的に盛り上げていくブルックナーゼクエンツ
・(2+3)あるいは(3+2)の5音音型によるブルックナーリズム

フルトヴェングラーはブルックナーの音楽について次のように語っている。

「ブルックナーはあらゆる意味で後期ロマン派の芸術的方法論の遺産の継承者であると言ってよろしい。彼はすでにもう全面的に、音楽の世界が細部的センセーションに、個別的な刺激の中に解体してゆく時代のただ中に立っていました。彼はこの時代の音楽的方法を、どこでどうぶつかろうと、手当たりしだい、なんの逡巡するところなく適用して憚るところありませんでした。それをことさら回避しようとするような態度は微塵もありません。―しかもなお彼は、彼であるところのあるがままの本質を崩しませんでした。彼の周囲の世界を見渡してみても、あのリヒャルト・ワグナーによって、全然これとは別の目的のために創案された音の世界と和声法とを、自分自身の目的のために自由に駆使するだけの力を持っていたのは、ブルックナー一人であったように思われます」

また、フルトヴェングラーはブルックナーを「時代からはみ出て外に立っていた」音楽家と言い、「ただ永遠なるものを思念し、不滅者のためだけに創作した」と言った。ブルックナーの交響曲には様々な版がある。この中には彼の友人たちが修正を加えたものだけでなく、ブルックナー自身による改訂もある。同じ作品を何度も書き直したこともブルックナーの大きな特徴であるが、フルトヴェングラーはこれをブルックナーの音楽の本質に関わることとして次のように語っている。

「ブルックナーの場合は、まるで一つの作品が、彼にとって内面的に永久に完成しえないかのような印象を与えます。まるでこの無辺無限の拡散的な音楽の本質の中には、自分自身をのり超え、つき抜ける仕事は永久に完成できない、永久に「決定的」になることができない、と言ってでもいるかのように」

Bruckner_4マーラーはブルックナーのことを「半分は神、半分は馬鹿」と言ったという。フルトヴェングラーもまた、ブルックナーについて「彼に課された運命は、超自然的なものを現実化し、神的なものを奪いとって、我々人間的世界の中へ持ち込み、我々の世界に植えつけること」であったとして、ブルックナーをプロメテウス的な存在として見るとともに、「強壮な逞しい単純性と高次な精神性との混血」であると言っている。それは普遍妥当なるものへの意志に貫かれているとするが、フルトヴェングラーは真の普遍妥当性について次のように語っている。

「真の「普遍妥当性」は、上と下との間になんの合一しがたい対立もなく、国民的=卑俗なものの中に、神のような自然の高貴な恵みが盛られているところ、至高また崇高なものの中に、芸術家が愛する大地の母胎を、足下に失わないでいるところ、―ただそこにのみ普遍なるものが存在しているのです」

そして、ブルックナーの音楽こそ、「単純を求める意志、純潔さと偉大さ、表現の逞しさを今日の人間のものとなしうることを示し」たとし、ブルックナーを讃えた。

→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「音と言葉」(新潮文庫)
→テオドール・W・アドルノ「マーラー」(法政大学出版局)