SIBELIUS
SYMPHONIES
PAAVO BERGLUND
Chamber Orchestra of Europe
「私にとって、音楽は神が組み上げた美しいモザイクのようなものだ。神は手の中にあるすべてのピースを世界に投げ込み、私たちはそれらのピースから絵を再創造しなければならない」(シベリウス)
ジャン・シベリウス(1865-1957)はハメーンリンナで生まれた。5歳の頃からピアノに親しみ、10歳の頃には初めての作曲を試みた。15歳からヴァイオリンのレッスンを始め、姉や弟たちと室内楽を演奏するようになった。
フィンランドは1809年からロシアの一部となり、1917年に独立するまで、文化的にはスウェーデンの支配下にあった。シベリウスの家族もスウェーデン語を話していたが、シベリウスはフィンランド語を使う学校に通い、フィンランドの伝統文化を知るに従い、次第に愛国心が芽生え、自分の名前をスウェーデン的なJohanからJeanと綴るようになった。また、シベリウスはフィンランドの国民的叙事詩「カレワラ」に魅了され、カレワラをテクストに声楽曲や交響詩を作曲するようになった。
シベリウスは1885年にヘルシンキ大学に入学し、法律を専攻したが、同時にヘルシンキ音楽院(現シベリウスアカデミー)でヴァイオリンや作曲も学んでいた。シベリウスはこの音楽院で教師をしていたブゾーニと親しくなり、その友情は1924年、ブゾーニが亡くなるまで続いた。
音楽の道へ進むことを決意したシベリウスは法律の勉強をやめ、1889年からベルリンで、1990年からはウィーンで音楽の勉強を続けた。この頃、リストやヴァーグナー、あるいはブルックナーといった後期ロマン派の大胆で壮大な音楽から影響を受ける一方で、ベートーヴェンやブラームスといった古典主義的な音楽からも多くを学んだ。そして、ロシアの圧制に抗して高まり始めたフィンランドの民族主義を音楽的に鼓舞することで、シベリウスは次第に彼独自の様式を確立していくことになった。1892年に交響詩「クレルヴォ」で管弦楽の作曲家としてまた、指揮者としてデビューを果たすとフィンランドの国民的な作曲家として知られるようになり、1896年頃からは国際的に活動の場を広げ、イギリスやドイツで自作の指揮をするようになった。1899年には交響詩「フィンランディア」を作曲し、フィンランドの国民から大きな支持を得た。このことに危機感を募らせたロシアはこの曲のフィンランド国内での上演を禁じたほどであった。同年、「交響曲第1番」が生まれ、1924年までの間に7つの交響曲が作られることになる。
1904年からシベリウスはヘルシンキを離れ、アイノラ荘に移り住んだ。都会の喧騒を離れ、北国の厳しい自然のなかでの生活が、シベリウスの音楽に厳しさと神秘性を与えるようになる。
シベリウスの音楽は断片的な動機が結合し発展していくものである。彼は全音階と調性に基いた和声を保ち、交響曲の枠組みを厳格なものと考え、ほとんど倫理的な要請として自らに強いた。1907年にマーラーと出会い、交響曲について言葉を交し合ったときも、「交響曲は世界のようにすべてを抱擁するものでなければならない」とするマーラーに対し、「すべての動機の間の内的連関を創造する深遠な論理、厳格な形式といった交響曲の様式」を讃えたのであった。そして1911年、シベリウスの様式的発展の頂点を示すとされる「交響曲第4番」が生み出されることとなった。しかし、この独自な音楽性に対しては多くの批判もなされた。例えばアドルノは「もしシベリウスが素晴らしい作曲家であるとするならば、バッハからシェーンベルクに至る音楽の評価に用いられてきた基準の全てが意味をなさなくなる」と言った。
シベリウスは1930年前後から次第に隠遁生活を始め、アイノラ荘の書斎で新聞を読み、ラジオを聞く日々を送るようになった。「交響曲第8番」を手がけながらも、1940年半ばには自ら焼却してしまった。そして1957年に死去した。
SYMPHONIES
PAAVO BERGLUND
Chamber Orchestra of Europe
「私にとって、音楽は神が組み上げた美しいモザイクのようなものだ。神は手の中にあるすべてのピースを世界に投げ込み、私たちはそれらのピースから絵を再創造しなければならない」(シベリウス)
ジャン・シベリウス(1865-1957)はハメーンリンナで生まれた。5歳の頃からピアノに親しみ、10歳の頃には初めての作曲を試みた。15歳からヴァイオリンのレッスンを始め、姉や弟たちと室内楽を演奏するようになった。
フィンランドは1809年からロシアの一部となり、1917年に独立するまで、文化的にはスウェーデンの支配下にあった。シベリウスの家族もスウェーデン語を話していたが、シベリウスはフィンランド語を使う学校に通い、フィンランドの伝統文化を知るに従い、次第に愛国心が芽生え、自分の名前をスウェーデン的なJohanからJeanと綴るようになった。また、シベリウスはフィンランドの国民的叙事詩「カレワラ」に魅了され、カレワラをテクストに声楽曲や交響詩を作曲するようになった。
シベリウスは1885年にヘルシンキ大学に入学し、法律を専攻したが、同時にヘルシンキ音楽院(現シベリウスアカデミー)でヴァイオリンや作曲も学んでいた。シベリウスはこの音楽院で教師をしていたブゾーニと親しくなり、その友情は1924年、ブゾーニが亡くなるまで続いた。
音楽の道へ進むことを決意したシベリウスは法律の勉強をやめ、1889年からベルリンで、1990年からはウィーンで音楽の勉強を続けた。この頃、リストやヴァーグナー、あるいはブルックナーといった後期ロマン派の大胆で壮大な音楽から影響を受ける一方で、ベートーヴェンやブラームスといった古典主義的な音楽からも多くを学んだ。そして、ロシアの圧制に抗して高まり始めたフィンランドの民族主義を音楽的に鼓舞することで、シベリウスは次第に彼独自の様式を確立していくことになった。1892年に交響詩「クレルヴォ」で管弦楽の作曲家としてまた、指揮者としてデビューを果たすとフィンランドの国民的な作曲家として知られるようになり、1896年頃からは国際的に活動の場を広げ、イギリスやドイツで自作の指揮をするようになった。1899年には交響詩「フィンランディア」を作曲し、フィンランドの国民から大きな支持を得た。このことに危機感を募らせたロシアはこの曲のフィンランド国内での上演を禁じたほどであった。同年、「交響曲第1番」が生まれ、1924年までの間に7つの交響曲が作られることになる。
1904年からシベリウスはヘルシンキを離れ、アイノラ荘に移り住んだ。都会の喧騒を離れ、北国の厳しい自然のなかでの生活が、シベリウスの音楽に厳しさと神秘性を与えるようになる。
シベリウスの音楽は断片的な動機が結合し発展していくものである。彼は全音階と調性に基いた和声を保ち、交響曲の枠組みを厳格なものと考え、ほとんど倫理的な要請として自らに強いた。1907年にマーラーと出会い、交響曲について言葉を交し合ったときも、「交響曲は世界のようにすべてを抱擁するものでなければならない」とするマーラーに対し、「すべての動機の間の内的連関を創造する深遠な論理、厳格な形式といった交響曲の様式」を讃えたのであった。そして1911年、シベリウスの様式的発展の頂点を示すとされる「交響曲第4番」が生み出されることとなった。しかし、この独自な音楽性に対しては多くの批判もなされた。例えばアドルノは「もしシベリウスが素晴らしい作曲家であるとするならば、バッハからシェーンベルクに至る音楽の評価に用いられてきた基準の全てが意味をなさなくなる」と言った。
シベリウスは1930年前後から次第に隠遁生活を始め、アイノラ荘の書斎で新聞を読み、ラジオを聞く日々を送るようになった。「交響曲第8番」を手がけながらも、1940年半ばには自ら焼却してしまった。そして1957年に死去した。