むらぎものロココ

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アンダルシアの犬

2006-03-17 01:28:46 | 映画
Main「アンダルシアの犬」(Un Chien Andalou)
1928年 フランス
監督:ルイス・ブニュエル
脚本:サルヴァドール・ダリ、ルイス・ブニュエル
撮影:アルベール・デュベルジェン
出演:シモーヌ・マルイユ、ピエール・バチェフ

 
 
ブニュエルが語ったところによれば、「アンダルシアの犬」は二つの夢の出会いから生まれたという。一つはブニュエルが見た「細い横雲が月をよぎり、かみそりの刃が目を切り裂く夢」、もう一つはダリが見た「てのひらに蟻がいっぱいいる夢」。シナリオはブニュエルとダリによるもので、簡単な規則によって一週間足らずで書き上げられた。その規則とは「合理的、心理的ないし文化的な説明を成り立たせるような発想もイメージも、いっさい、うけいれぬこと。非合理的なるものに向けて、あらゆる戸口を開け放つこと。われわれに衝撃を与えるイメージのみをうけいれ、その理由について穿鑿しないこと」であり、シナリオを書いている間、ブニュエルとダリとの間にはわずかな意見の相違もなく、完璧な一身同体であったそうだ。
この映画の試写会は、ピカソ、コルビュジエ、コクトー、そしてシュルレアリストのグループたちの前でおこなわれ、好評を博した。「アンダルシアの犬」のシナリオは一種の自動記述であったが、このことがきっかけとなって、ブニュエルとダリはシュルレアリストのグループに迎え入れられた。

●イマージュのたそがれ

entre chien et loup は犬と狼の区別がつかないこと、転じて「たそがれどき」を意味する。こうした転義法は「アンダルシアの犬」の中で最も有名なシーンにも見られる。avoir des fourmis dans les main は手の中に蟻がいる、転じて「手が痺れること」を意味する。このように、「ダリとブニュエルは語句の転換〔転義〕を文字通り映像化することで、平凡な経験が人目を引く腐敗という記号に転ずるように比喩を拡大したのである」。もちろん、ダリにとって蟻は幼少時に可愛がっていた蝙蝠の死体に群がっていたものとして、死を象徴するものでもあった。

たそがれどきの犬と狼は様々に変換することができるだろう。例えば夢と現実、内部と外部、意識と無意識、男と女、リュミエールとメリエス、そしてダリとブニュエル。「アンダルシアの犬」はこうした二分法を弁証法的に総合するものである。
松本俊夫はリュミエールとメリエスという、映画の二つの源流において、映画における「発見」と「創造」の弁証法を見出した。
「未知の現実」を実在するもののなかからカメラによって「見つけ」だしたリュミエールと実在しない想像上の光景をカメラによって「作り」だしたメリエスと。このことは、現実をどのようなイメージでとらえるかの問題であり、ここにおいてドキュメンタリーとアヴァンギャルドが通底する。心の外側の世界が現実なら、心の内側も現実である。
「夢のかたちは他のいかなる芸術よりも映画のかたちに近い。したがって映画は本質的に夢を再現するのにむいている」というわけだ。ところで、夢を見ている最中には夢はむしろ現実として意識されるので、夢の現実性を徹底的に問いつめるには、「額ぶちのない夢」そのものにならなければならない。

目に見えるものの唐突な組み合わせによって見えるようにしようとするものこそ、夢であり、不合理であり、善悪の彼岸にあるものであった。 
また、「アンダルシアの犬」において女装した男性、男装した女性として示される両性具有コンプレックス。男装した女性が路上に落ちている手首を突いているステッキがディオニュソスの杖であるテュルソスであるとすれば、これは男女の結合、あるいは死と再生の象徴となるだろう。

●偏執狂的=批判的方法

ダリは1920年に「非合理の征服」というテクストのなかで、「偏執狂的=批判的方法」について記している。ダリによれば、偏執狂とはひとつの体系的構造を有する解釈をともなった連想による妄想であり、客観的偶然を組織し生産するひとつの力である。ダリはこの方法によって、妄想と批判の弁証法的総合を企てた。偏執狂的現象とは、複数の形象を持つイメージとしてよく知られているもので、ダブル=イメージはダリの絵画の典型でもある(このダブル=イメージの背後にはダリが生まれる前に死んだ、ダリと同名の兄の存在が大きな影響を与えていると思われる)。
また、この方法は「明晰さをもってすべての自己内矛盾を暴きかつ利用する偉大な芸術であり、また観る者に人生の不安や恍惚を経験させる芸術でもある。彼らは次第にそれを彼ら自身の問題としてとらえ、否応なく本質的なものと感ずるようになる」ものである。
「アンダルシアの犬」にはフェルメールの「レースを編む女」が映し出されているが、ダリにはそれを粉砕した「偏執狂的=批判的習作」がある。

●シュルレアリスム

アンドレ・ブルトンによる定義
超現実主義 男性名詞。心の純粋な自動記述で、それを通じて口頭、記述、その他あらゆる方法を用いて思考の真の働きを表現する方向を目指す。理性による一切の統御を取り除き、審美的または道徳的な一切の配慮の埒外でおこなわれる思考の口述筆記
〈百科事典的説明〉哲学用語。超現実主義はこれまで無視されてきた或る種の連想形式に認められる高度の現実性、夢の絶大な力、思考の無私無欲な働きなどに寄せる信頼の上に基礎を置いている。これらのもの以外のあらゆる精神機能を決定的に打破し、それらに代って人生の重要な諸問題の解決に取り組む。

デペイズマン
デペイズマンとはデペイゼ(追放する、異国に追いやる、環境を変える)という動詞から来た言葉で、事物を日常的な関係から追放して異常な関係の中に置き、ありうべからざる光景をつくりだすことをいう。よく引用される例として、ロートレアモンの「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」がある。

→ルイス・ブニュエル「映画、わが自由の幻想」(早川書房)
→松本俊夫「映像の発見」(清流出版)
→ジェイムズ・モナコ「映画の教科書」(フィルム・アート社)
→宮下誠「20世紀絵画」(光文社新書)
→アンドレ・ブルトン「超現実主義宣言」(中公文庫)
→パトリック・ワルドベルグ「シュルレアリスム」(河出文庫)