眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

「詩」を追い求めて ・・・・・ 『ポエトリー アグネスの詩』

2012-09-20 18:16:57 | 映画・本

以前、同じ作り手(イ・チャンドン監督)の映画『シークレット・サンシャイン』を観た時も、私は主人公の女性を(自分との距離が)「近過ぎる」と感じて、感想らしい感想は書けなかった。今回『ポエトリー アグネスの詩』を観た後も、書き出せばとめどなくツマラナイ言葉を垂れ流しそうで、感想を書く気は無かった。でも・・・

映画を観てから、今日で5日目。抱えていようと思ったらいくらでも抱えていられる・・・私にとってはそんな映画なので、このままでは次の映画が観に行けなくなってしまう(冗談みたいだけど本当なので困る)。

仕方がないので少しだけ、もしかしてこういうことはあまり人は思わないのかな・・・と感じたコトを、自分の記憶のために書いてみようと思う。


まず・・・私はこの映画を観ている間、「とても心地良く」感じていた。

あらすじだけを見るなら、これはかなり悲惨な話だ。

ヒロインのミジャ(「美子」と書く)は66歳。遠い釜山で働く娘の代わりに、ひとりで中学生の孫息子を育てている。財産も無く、生活保護を受け、それ以外にも家政婦(半身不随の老人の介護も含む)として働いている。

そんな彼女が、幼い頃「将来は詩人になればいい」と言われたことを覚えていて、「詩作教室」に通うようになり、講師に言われるままに詩を書くための努力をするのだが・・・たまたま他のことで受診した病院で、「時々言葉を思い出せなくなる」のは「アルツハイマーの初期症状」ではないかと指摘される。精密検査を受けるよう勧められる一方、孫の友人の親からは、孫たちが仲間同士6人で、半年にわたって同級生の少女を「性的に虐待」していたことを知らされる。少女(洗礼名アグネス)はその結果、川に身を投げたのだと。ミジャはその日、受診した病院の玄関で泣き崩れる、少女の母親に出会っていたのだ・・・。

こんな物語のどこが「心地良い」のか・・・と言われそうだけれど、私が観ていてシンドイと感じたのはすべて、ミジャが他人と一緒にいる(つまり彼女なりにさまざまな「社交」をしている、或いはさせられている)場面だけだった。

ミジャが一人でいる場面は、家の前の立木の下であろうと、野原や川縁や畑の近くであろうと、私は楽に呼吸をし、肩の力を抜いて、軽々と傍を歩いている気がした。たとえそれが、どれほど深刻なことを彼女が考えている場面だとしても。

彼女の歩く、坐る、場所・空間が、そのまま彼女の内面を表しているようで、 それがまたそのまま、私自身の内側の、広々とした場所にまで届いているように感じた。それは私が無条件に安心していられる空間で、そこでは何ものにも邪魔されることはない・・・とでもいうような。

この映画に出てくる風景は、特に美しいというようなものではない。なんでもない、ちょっと探せば(探さなくても?)どこにでも見つかるような、素朴で見慣れた風景を、特に技巧も加えずそのまま使っているような気がするくらい、質素なものに見える。

なのに・・・というよりだからこそ、私は楽に息が出来るように感じたのかもしれない。

自然な風の通っていく場所・・・私は、悩み苦しんでいるであろうミジャに同情するというよりは、ミジャが「詩を書きたい」という思いに駆られて、「世界を見る」ことからそのまま、亡くなったアグネスの短い人生の終りを辿る(それはミジャの人生を正面から見つめ直す作業でもある)「旅」を、むしろ眩しいものを見るような思いで観ていた。

物語は、時間が進むと共に事情が更に込み入ってきて、 ミジャにとっては困難の度合いを増してくる。それなのに、現実の問題に面と向かおうとせず、「詩を書く」ことだけに一生懸命なように見える彼女は、現実からの逃避を図っているようにも見える。

しかし、一体この人は、この先どうするつもりなんだろう・・・と、ちょっと心配になった頃、物語は大きく方向を変える。

そして、思いがけないラストを迎える・・・。


このミジャというヒロインの人物像が面白い。この物語の解釈は、彼女について観る人が抱くイメージによって、かなり変わりそうな気がする。(ミジャに好意的になれる人は、そう多くはないかもしれない。)

ミジャは、ロマンチック(乙女チック?)な服装が好きで、口の利き方もどこか浮世離れしているというか、ふわふわと空中を歩いているように見える。本人自ら「いろんなコトがありましたよ」と言うだけあって、これまでにさまざまな苦労をしてきたのだろう。その結果、結構図々しいことも言えるし、アブナイときにやんわり相手をいなすやり方も知っているのだけれど、総じて見れば、「なんとなく周囲から浮く」「人と揉めたくないからすぐ引き下がる」だから「安全無害だけど役には立たない」老女?にしか見えない。

家族と正面から向かい合うことも苦手らしく、対外的には「娘とは友だち同士」などと言うけれど、孫の問題を娘に告げることさえ出来ない。孫本人に向っても、なんらかの謝罪はおろか、事情を聞き質そうとするのもかなり後になってからで、深夜で寝ていた孫は、そのまま布団をかぶって振り向きもしない有様だ。

難しいこと、人とぶつかりそうなこと、自分がイヤな思いをしたり傷ついたりしそうなことからは、いつもそっと逃げてきた人・・・そのことが、今の自分と娘の関係、孫との関係、孫の起こした事件にまで結びついているのに、気づいているのかいないのかも、よくわからない。

そんな、どこにでもいそうなありふれた、ごくごく普通の(ダメというならちょっとダメな?)人間が、これまでの人生の「決着」をつける・・・私にとっては、この映画はそういう物語だった。イ・チャンドン監督がこの映画で、「詩」を初めて書くという作業を通して描いているのは、取るに足りない人間でも、本人が本気で望めば「高み」に身を届かせることが出来る・・・ということなのだろうと思った。


あとは、細かい個別のことを少し。

ミジャが老人に身を任せるのは、お金目当てではないと私は思った。と言っても、最初は彼女の意図が、いま一つわからなかった。

彼女自身はやっぱり嫌悪の風情のままなのに、どうしてなのかな・・・と思って観ていたら、浴槽の中でミジャは途中、ふと老人の顔に指で触れる。その時初めて、老人の顔、目をじっと見つめる。けれど、恐る恐る見返す老人自身を、この人は見ているんじゃない・・・と、私は感じた。

その時、ミジャが老人の顔に見ているのは、彼女の孫の顔だ・・・と、なぜか思った。「もう一度、男になりたい」という老人の望みも、責任の取り方もわからずにただボンヤリ日を送っている孫の不甲斐なさも、要するに女性からは「未熟さ」(「幼稚さ」?)という意味で共通して見えるような・・・そんな気が、ふっとしたのだ。

その後、老人の肩に首をもたれて、哀しみに耐えるかのような沈痛な表情を見せるミジャを見て、初めて私は、「そうか・・・アグネスなんだ。」。アグネスはこの未熟さ?の犠牲になった。そんなアグネスの立場に身を置きたくて、ミジャは老人の元を再度訪れたんだと、その時思った。 


もう一つは、映画のラストに流れるミジャの詩について。

映像を見ながら、なんとか字幕に書かれる詩の翻訳を読んだものの、私にはよくわからないままだった。ただ、映像が語ってくれるモノのお蔭で、なんとなく詩の内容も想像できる気がしただけだ。(こういう時、映画は刻々流れて行ってしまうので、ゆっくり思い巡らすことが出来ず、後からでは映像も字幕も両方半端な記憶しか残っていなくて、自分が情けなくなる。)

それでも、一つ閃いたことがあった。

詩のどの部分・・・と指摘はできないのだけれど、アグネスは6人の男子生徒の中に、秘かに好意を寄せている少年がいたんじゃないかと。

半年にも及ぶ「性的虐待」とは言っても、最初はそれが引き金になって始まったことで、ただ・・・相手の少年はアグネスのことを、そういう風には思っていなかったのだ・・・と想像して、私はなんだか涙が出そうになった。その前後の経緯は全く判らないけれど、親同士の集まりでも「レイプとかなんとかいうような感じではなくて、最初は2人、その後また・・・となって、結局全員が・・・」と言われていたのは、子ども側の言い繕いだけではなかったのかもしれない・・・そんなことも思った。

ミジャの詩からもう一つ。(こちらは、詩の全文をサイトに載せて下さった方があって、それを見て初めて気づいたこと。)

詩作教室の最後の発表の日、ミジャは花束と書いた詩だけを教室に残して欠席する。講師は花束は初めてで感動したと言ったけれど、もしかしたらあの花はアグネスに手向けたものだったのかもしれない。

ミジャにとって、初めて書いた詩がアグネスへの「手紙」であると同時に、ある種の「遺書」でもあったように、あの花束(「ローズ」)は「詩」への道を開いてくれた講師に対するお礼だったのかもしれないけれど、私には手紙に添えたアグネスへの贈り物のような気もしたのだ。

作り手が「説明」しない(受取り手の解釈に委ねる)作品なので、見た人の数だけ物語が生まれていそうな気がするけれど、私は観た後「励まされた」ような思いと感動が残った。前に書いたように、辛い話に出会ったとは思わなかった。イ・チャンドン監督の作り出したある種のファンタジーを、経験させてもらったような気がしたのかもしれない。

私は映画から知識を得ることはあっても、「この人のようでありたい」などと思うことは、これまであまりなかった。(思ってもまず出来ないと判っているからかもしれないけれど。)

でも今回は、少し違う。

私も人生が終わる前に、これまで自分がしたこと(しなかったこと)の、なんらかの決着をつけなきゃいけない時が、そのうち来るかもしれない。その時には、ミジャのようなヤヤコシイ道を辿ってでも、私も私なりに頑張らないと・・・。そんな気が(今のところは)している。
 





 

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19 コメント

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本当に様々な物語に驚かされます。 (ヤマ)
2012-09-20 21:34:53
ムーマさん、こんにちは。

 昨日サイトアップした拙日誌にも綴ったのですが、ムーマさんが 「作り手が「説明」しない(受取り手の解釈に委ねる)作品なので、見た人の数だけ物語が生まれていそうな気がする」とお書きのとおり、様々な方の様々な物語を拝読したり聞いたりするにつけ、驚くと共にイ・チャンドンの凄さに感心しているとこです。

 また物語的な面ではなく、心地よく感じながら見ていたとムーマさんがお書きのとこにも、かなり意表を突かれ、ほぅ~の三乗みたいな気分です(笑)。共感することはとてもできないのですが、拝読するとお書きになっていることの言わんとするところは何となく判る気もしました。

 それはともかく、一つお伺いしたいのは、「難しいこと、人とぶつかりそうなこと、自分がイヤな思いをしたり傷ついたりしそうなことからは、いつもそっと逃げてきた人」とお書きのミジャが「アグネスの立場に身を置きたく」なったのは、なぜだと解しておいでるかということです。

 嫌悪したはずの老人の元に急き込むほどの熱情でアグネスの立場に身を置きたくなったのは何故だと思われますか?
返信する
「詩を書く決意をした」のかと。 (ムーマ)
2012-09-21 01:15:01
>ヤマさ~ん

たった今、ヤマさんの日誌を読んできました。
ヤマさんは「孫の示談金のため」に「罠を仕掛けた」と解釈されたんですね。
ヤマさんのイメージしておられるミジャを、私はよくわかっているかどうか自信はないのですが、それでも一般的に言って、当然あり得ることだと思います。

ただ、私はあの(バスタブに老人と座っている)シーンのミジャから、もっと別の意味で深いモノを感じていたんだと思います。
以下、説明になっていないかもしれませんが、私が感じた正直なトコロを書いてみます。

映画のシーンの順序が正確に頭に残っていないんですが、確かミジャはその前に、アグネスが身を投げた川の傍で、ずっと坐って考えているようでした。
そしていつもの詩作のノートを広げて、何か書き留めようとしたとき、突然大粒の雨が降ってきた・・・。

「書くよりも、もっと違うことをしなさい」とでもいうかのように、結構激しい雨で、ノートは見る見る濡れていく・・・。
漸くバスに乗り込んでからのミジャも、自身ズブ濡れで、なんだか打ちひしがれたような風情に見えました。

私は「これから何かが起きる(というか、既に何かが始まってしまった)」ような、微かな戦慄のようなものを感じました。

だから、その後老人宅に押しかけて、有無を言わさずバイアグラを飲ませ・・・となるのを見ても、なんとなく納得するモノがあったというか。

私は今となると、ノートに降りかかる雨を見た時、ミジャが「詩を書く決意をした」んだと思っています。

この頃はまだ、詩という文字表現にはなっていませんが、ミジャのような人としては「一線を越えた」(それまで歩いてきた道とは違う道を歩き始めた)とはっきりわかりました。

それは、ぼんやりフワフワしているようで、大したことは何も考えていなさそうなミジャという人が、本当は私などの想像以上に真剣に「詩を書きたい!」と思っていたんだということ。
同時に、誰よりもアグネスの死に胸を痛めていた(そのことがミジャの魂にとっては一番切実な真実だった)・・・ということでもあります。

でも、私は老人宅に(老人の望みを受け入れようと)出かけていくのを見るまで、実はミジャの真剣さに気づいていませんでした。(映画の中の誰もが気づかなくて、当然かもしれません。)
私にはミジャという人が見えていなかったということです。

というわけで、私の眼には「嫌悪したはずの老人の元に急き込むほどの熱情でアグネスの立場に身を置きたくなった」のは、ごく自然な成り行きなのです。
(答になっていなくてスミマセン。)

示談金を申し込んだのは、それこそ「その後の成り行きによる付け足し」だと思います。
いかにも行き当たりばったりな割りに、妙に現実的なところもある、ミジャらしいと思いました。
「借りるのではなく、貰いたい」「脅迫と受け取られても構わない。言い訳はしない。」というのも、いかにもこういう時のミジャの言葉らしく、老人も一瞬目を瞠る風情(「結構言うやないか。」とでもいったような驚きの表情)を見せたように、私の眼には映りました。

ミジャの白い背中は艶やかで今でも十分美しく、老人に対しては、視線を合わせることを許さないような拒絶と矜恃を垣間見せ、老人の方もそれをちゃんと認めているようにも見えて、私はこの二人のことは、これはこれで面白い「男と女」の関係だと思ったりもしました。(あれなら、ケチだという老人も「手切れ金」くらい出して当然でしょう(^o^).

あ、パトカーが孫を連行しに来たのは、ミジャの告発(と言っていいかどうか、韓国の刑法を知らないのでわかりませんが)によるものだと、私も思います。
孫にお風呂で身体をよく洗うように言って、足の爪も切ってやって、母親である娘も電話で呼んで(何と説明したのか、何も説明してないのかも分かりませんが)・・・その後の「パトカー」なので、ミジャは知っていたはずです。
朗読会の懇親会で、一人で泣いているミジャに、刑事が声を掛けたとき、彼女は相談したんだろうと思いました。

と言う風に、「詩を書く決意をした」後は、何もかもが猛スピードで進んでいって、そのまま「言葉の奔流」が迸るように、ミジャは「詩」を書き上げます。

私はそういった成り行きを、ただ小舟で急流を下るように、呆然と見ていただけで、あれはどういうことだったんだろう・・・とか、考えるヒマも無く、その必要も感じなかった気がします。

「心地良く、ただ見ていただけ」という私の正直な感想は、そういう「詩を書く」という行為の持つエネルギーによるところもあったのかもしれない・・・と、ここまで来て初めて気がつきました。

長いだけで要領を得ないレスになりましたが、私の方は得るモノが多かった気がします。
質問して下さって、感謝デス(^o^).。
返信する
ありがとうございました。 (ヤマ)
2012-09-21 06:18:33
僕にとっては、
落ちた杏から得た啓示が最も重要に映る物語でしたが、
ムーマさんにおいては、雨だったのですね。

かの刑事に話したタイミングそれ自体は、
泣いているミジャに彼が声をかけた夜か、
その後なのかはともかく、あの夜の声掛けが
その契機になったはずということを、僕も
上映会後の意見交換のなかでガビーさんに
お話したことでした。

「詩を書く」ということに限らず、
“決心”がキーワードの物語なのですね、ムーマさんには。
僕には、“転生による救済”がキーワードでした。
拙日誌に綴ったように、
人が魂の浄化を必要とするときに、
いかなることを願い、思うのかは計り知れないし、
まして自殺願望を一度も抱えたことのない僕ですから
尚更なんですが、アグネスの自殺の理由に何を見出すか
について、
作り手は、じっと目を凝らせば、“魂の浄化”が見えてきたと
言っているような作品に感じました。

ムーマさんがお書きになっている“心地よい感じ”というのは
もしかすると、その“魂の浄化”に向かう物語だったから
なのかなと思ったりしたのでした。
映画に宿るものって実に侮れないなぁとの思いを新たにすると共に
そのように感応されたことに瞠目しております。
意表を突かれる“ほぅ~の三乗”みたいに受け止めながら、
自分の解した物語に引き寄せた解釈をしてしまってますが(笑)。
返信する
当て嵌まる言葉が見つからなくて (ムーマ)
2012-09-21 09:43:35
>「詩を書く」ということに限らず、
“決心”がキーワードの物語なのですね、ムーマさんには。

そういうことになるのかな・・・。
ただ、“決心”という言葉は日常的すぎるというか、自分が能動的に「しようと思えば出来る」みたいなニュアンスを感じるので、私はもう少し違う言葉がないかと思うんですが・・・いい言葉が見つかりませんね。

私のイメージする「詩を書く決意」というのは、自分でしようと思っても、本当に「なかなか出来ないこと」なんです。
それでも、「詩を書きたい」と本気で思い、それを追い求めていくと、ある時突然、それが起こる(妙な言い方ですが)。
自分でもなぜそうなったのかわからないし、何が自分の内側で起こっているのかも、その当座は自分ではわかっていない。
ただ、「追い求めた結果」として、ある時突然自分の内側に生まれる・・・。

そういう、それまでの自分が考えていたことや、自分の日常とは、一段断絶した(違う次元の?)ものなので、ヤマさんのキーワードが“転生による救済”なのだとしたら、私の場合は・・・と考えると、結局「詩」の一語になってしまいそうです。(そういえば、この映画の原題は、日本語で言うところの「詩」と同じ「シ」の一語でしたね。私は暫し呆然として、スクリーン上のその言葉を見ていました。「ポエトリー」なんだから、別に不思議じゃないはずなのに、なぜかちょっとショックを受けて。)

それにしても、“魂の浄化”というのはいい言葉ですね。

>ムーマさんがお書きになっている“心地よい感じ”というのは
もしかすると、その“魂の浄化”に向かう物語だったから
なのかな

そういうことなんだろうと思います(拍手)。
なんと言うか、「話がどうなっていこうと、絶対悪いことにはならない」とでもいうような安心感が、最後まで消えませんでしたし、(私の眼には)実際そうなりました。

ただ、私自身はたぶん、アグネスの自殺の理由・・・といったことを、あまり真剣に考えていなかったんだな・・・とも、ヤマさんの言葉から思いました。
私にとっては、あまりに「あり得る」「当然の」行動だったので。(我ながらヒドイことを言うもんだと思いますが。)

恐らくは、だから「杏」の啓示についても、そこまで大きくは取らなかったのでしょう。
もちろん、それがその後のミジャの行動に影響を与えているとは思うんですが、私は、(少なくともミジャについては)「落ちた杏」の啓示は「論理的すぎる」気がしたんだと思います。

そもそも、ミジャの覚書用のノートに書かれたことは、私はあまり大きくは取っていないのかもしれません。
ミジャは自分の詩(アグネスへの手紙)は原稿用紙のようなものに書いていましたが、それは「ノート」が「一旦捨てられた」後に生まれてくるもののように見えたからかもしれません。

ヤマさんのキーワード“転生による救済”と“魂の浄化”という言葉から、私にとってのこの映画のテーマについても、少し考えました。

私は観ている時はただ、ミジャが詩を書きたいと思い立ち、自分の”詩”を追い求めていくうちに、(当然の結果として)自分の”魂”に出会い、それが望むものを知る・・・という話なんだと思っていたような気がします。

「自分の魂に出会う」ということは、「他の人の魂にも触れる」ことであり、アグネスの魂が望んだであろうこと、或いは大事な孫の魂にとって一番良いことは何なのかということ・・・などを、彼女なりに考えさせることだっただろうとも想像します。

でもね、”救済”とか”浄化”って言う言葉は、私には浮かんでこなかったんです。
そういう言葉を今こうしてヤマさんから聞くと、なるほどそうかあ・・・ってすごーく納得するんですが、観ている間は、全然考えもしなかった。

私はただ、監督さんの語る物語を「安心して心地良く観ながら、さまざまなことを、ただ”感じて”受け取っていただけ」だったんだなあ・・・って、今つくづく思います。

ミジャのような、傍目には衝動的というか軽はずみにさえ見えるであろうような決断の仕方も、私は自分自身そういうやり方で人生の重要なことを決めてきた人間なので、その理由がそのときわからなくても、それほど不自然とも思わないのかもしれません。

だから、ヤマさんの最初の質問にレスを書くことは、実はもの凄く大変でした(^o^)。
次のヤマさんの「解釈」について考えるのにも、かなりの時間が掛かってしまいました。

でも、お蔭で「映画は小説と反対で、人物の主観は基本的に描けない。それを客観で想像・推測させるために、作り手は工夫と手数をかけるんだけど」トカナントカいう、どこかで見かけた言葉まで、なるほど~と実感したりして・・・自分でもどうやってここまで来たんだろうと驚いたりしています(^o^)。

思ったことに手(文字化して書く)が追いつかないのはいつものことですが、今回はずいぶんそれでもアウトプットできました。
ほんとに、どうもありがとう!(^o^) 

これでやっと、市民映画会の『最高の人生をあなたと』と『人生はビギナーズ』(2本立て)が、大手を振って?観に行けます(わーい)。
この記事(本文)を書かないと、観に行っちゃイケナイような気がして、昨日からもう、間に合わないんじゃないかとヒヤヒヤしました~(^o^)。
返信する
私も~ (お茶屋)
2012-09-22 08:17:05
悲惨とは思わなかったんですよぉ。
心地よさを感じるまでにはいたりませんが。っていうか、加害少年の父親たちや会長さんにうへ~となっていました。アグネスのお母さん、可哀想やし。
それでも悲惨と感じなかったんですねぇ。

魂の浄化、決心、転生による救済、詩を書くことについての映画。私はやっぱり詩を書くこと(アウトプット)についての映画として受けとめていたようです。
感じて、溜めて、出す。
ムーマさんもこの感想で同じことをされているように思います。出したあとは次に進めるんですよね。
ミジャの場合は、次がアルツハイマーなのですが(私は自殺じゃないと決めたんです(笑))、それでも悲惨さは感じないんですよね~。

ところで、ムーマさん、アグネスの詩をアップしているサイト、覚えてたら教えてくださいm(_'_)m。


返信する
もう質問は遠慮して、ひとつだけ付言(笑)。 (ヤマ)
2012-09-22 09:45:28
ムーマさん、こんにちは。

2012-09-21 01:15:01 コメントで
>ヤマさ~ん
たった今、ヤマさんの日誌を読んできました。
ヤマさんは「孫の示談金のため」に「罠を仕掛けた」と解釈されたんですね。

との確認に回答してなかったことを思い出したんで、少し付言しておきます。
 「示談金のために」とすれば誤りではなくなりますが、それとても「示談金のため」というよりは、「アグネスに同化するため」に身を売ったというのが、僕の解釈です。

拙日誌にも「彼女が身を売ったのは孫息子のためということではなかったようだ」と記しているのですが、「杏のように身を投げて落ちて割れて踏まれる必要があるのだから、アグネスがそうして、ミジャが老いた女体を要介護老人に売ったように、ジョンウクも警察に捕まらなくてはならないと考えたのだろうという気がしたのだ。」とも綴っているように、彼女のあの行動は、ミジャへの同化(目的ではなく手段としての)によって杏のごとく生まれ変わること(こちらのほうが目的。ただし、これすらも手段ですが)を求めて、そのためにっていうのが僕の映画を観終えて綴った解釈です。

そして、生まれ変わることすらも手段だというのは、生まれ変わることによって求めているのが、魂の浄化であったり救いであったりしているように感じているからです。

僕的には、そういう部分抜きに、アグネスへの同化を目的にミジャがどうこうするというのは釈然としなくて、ミジャが求めていたのは、苦しい自分の状況から救われたいとの願いだけだったろうと思うのですよ。そのために必要なものとして得られた啓示が杏であり、すなわちアグネスへの同化だったと解しています。

なので、老会長にただ身を任せるだけでは不十分なわけで、身を売ろうとしたんだろうと解しております。予め思い掛けなくも、売れなくはない相手を見出していましたから(笑)。つまり、我が身の救済・魂の浄化のためです。
返信する
仲間仲間~ヽ(^o^)丿 (ムーマ)
2012-09-22 10:25:57
>お茶屋さ~ん

>私はやっぱり詩を書くこと(アウトプット)についての映画として受けとめていたようです。

わ~、またまた「新たな物語」登場の予感~(^o^)。

>ムーマさんもこの感想で同じことをされているように思います。出したあとは次に進めるんですよね。

そうかあ・・・確かに、言われてみるとそうですね。
もしかして、「書く」(アウトプット)っていう行為は、「自分のタマシイにある種の(実体のある)行動をさせる」ことでもあるのかも・・・って、今ふと思いました。
だから次に進めると・・・。

>ミジャの場合は、次がアルツハイマーなのですが(私は自殺じゃないと決めたんです(笑))

うん、私もそういう気分?がどこかにあります。
というか、自殺でもアルツハイマーでもいいじゃん・・・という感じ(笑)。
私はミジャに関しては、自殺もアルツハイマーも悲惨とは感じていないんでしょうね。

>アグネスの詩をアップしているサイト、覚えてたら

私は上映主催(シネマ・サンライズ)の掲示板で見たんですが。
主催者がお書きのように、「機械訳」なので詩としてはちょっとギクシャクするんですが、実際の映画の字幕でも、ああいう雰囲気の詩でした。

ホント言うと、字幕でも意味がスラスラわかるような詩ではなかったと(私は)思っているんですが、お茶屋さんのブログの感想(字幕は見ずに映像だけ見ていて感じたこと)は、あの詩の雰囲気がほとんどそのまま表現されていて、私はとても感心しました。
返信する
ヤマさんのミジャのイメージ (ムーマ)
2012-09-22 11:14:19
>ヤマさ~ん

「質問に答えるのに苦労した」のはひとえに私が「感覚的~」なヤツで、「言語化に苦労する」からなので、当然ながらヤマさんのせいじゃあありません。
失礼なこと書いたのかもしれませんが、大目に見てやって下さいね~(^o^)。

それにしても、聞けば聞くほどこの映画については、さまざまな物語があるもんだと、今ちょっとシミジミしています。

>生まれ変わることすらも手段だというのは、生まれ変わることによって求めているのが、魂の浄化であったり救いであったりしているように感じているから

>僕的には、そういう部分抜きに、アグネスへの同化を目的にミジャがどうこうするというのは釈然としなくて、ミジャが求めていたのは、苦しい自分の状況から救われたいとの願いだけだったろうと

>そのために必要なものとして得られた啓示が杏であり、すなわちアグネスへの同化だったと

勝手に切り貼りしてスミマセン。

でも、今度の「付言」読んで、ヤマさんのミジャ像がとても明瞭になりました。
「つまり、我が身の救済・魂の浄化のため」っていうのは、胡散臭くないというか、嘘っぽくないというか、あのちょっと変わった(無邪気なような、自分のことだけ見ているような)ミジャに似合ってる気がします。

私のミジャ像は、もう少し違っているんだと思いますが、例によってどう違うのかを説明するのは・・・ムズカシソウ(^^;)。

とにかく、ヤマさんの仰りたいことは理解したと思います(^o^)。

ところで、私も一つだけ。

>ただ身を任せるだけでは不十分なわけで、身を売ろうとしたんだろうと

これは私だけの感覚かもしれませんが・・・
「脅迫して金を出させる」のは確かに犯罪ですが、それを別にすると、「ただ身を任せる」も「身を売る」も、あの場合はそれほどの違いを私は感じませんでした。
返信する
罪の要素は大きいです。 (ヤマ)
2012-09-22 11:49:46
 「アグネスへの同化」ということにおいて、罪の要素が非常に重いのは、敢えてアグネスという洗礼名で呼ばれているキリスト教徒における自殺という意味合いからです。

 僕の浅薄な知識からすると、キリスト者における自殺というのは大罪だったように思うので、その要素を構成しないままの同化表現をイ・チャンドンがするようには思えないということが働いているかもしれません。ミジャ自身の思い以上に(たは)。要介護老人と単にセックスをすることだけで罪とするのは、ちょっと躊躇われるところがあります。

 僕の受け取った物語としては、ミジャも罪を犯す意識をもって臨まないと“杏の身投げ”ではなくなるわけです。
 お茶屋さんとこのブログへの最初のコメントに「ポイントは、どこまでで“落ちた杏”たりうるかってことですよね。
僕は、身を任せるだけではそうはならない感じを受けたので、「身を売る」意志を働かせてのことだと思いました。」と書き込んだのは、そういう意味です。
返信する
「罪」・・・ (ムーマ)
2012-09-22 12:14:58
ヤマさんは、「キリスト教」を踏まえて言っておられたんですね。
私はそこを忘れてしまってました。
アグネスは自殺をしたけれど、教会で慰霊のミサのようなことが行われていたので、そこまで「自殺は罪」とは描いていないのかと。
(韓国のキリスト教を全く知らないので、そのあたりのことが私には想像出来ないというのもあります。)

それにしても、ヤマさんの物語はあくまで「どこまでで“落ちた杏”たりうるか」がポイントなんですね・・・。

私はもう少し「上」を見ようとする話に捉えていたんだと思います。
(ヤマさんの物語の生々しさと重たさに、今度は私の方が驚いています。)

面白いですね。ほんとに人さまざまの物語・・・。

あ、でも、お茶屋さんのブログへのコメントで、

>>「ポイントは、どこまでで“落ちた杏”たりうるかってことですよね。
>>僕は、身を任せるだけではそうはならない感じを受けたので、「身を売る」意志を働かせてのことだと思いました。

と書いてらっしゃった真意は、よく解った気がします。
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