眺めのいい部屋

人、映画、本・・・記憶の小箱の中身を文字に直す作業をしています。

『この国の空』(録画)

2024-09-01 18:18:21 | 映画・本

(監督:荒井晴彦 原作:高井有一 2015 詩:茨木のり子)


この映画の作り手が何を表現したかったのか、わたしは映画の最後の最後で、わからなくなりました。(この映画についてメモしておきたいのはそこなので、唐突な書き出しになりました)


映画のラスト、茨木のり子の有名な詩「わたしが一番きれいだったとき」が流れます。(読んでいる声は里子のものです)


けれど、主人公里子の最後のセリフは「わたしの戦争はこれからはじまる」。

それは戦争が終わると、恋人市毛の妻子が疎開先から帰ってくるということを意味しているようで、口にする里子の表情は、暗澹として見えます。

なぜ茨木の詩とこの里子のセリフを組み合わせたのか… わたしは一瞬呆気にとられ、その不可解さに萎れました。


映画の内容全体としては、「わたしが一番きれいだったとき」と矛盾するとは思いません。

確かに、あの戦争の時代に、19歳という(本来なら花の盛りの筈の)年齢を過ごさざるを得なかった女性の苦しさが、映画ではとてもリアルに描かれていると思いました。

母娘だけの日常。その息苦しさ、自由の無さ。同世代が身近にいない空虚さ、寂しさ。


放っておいても、恋心が生き生きと動き出すはずの年頃。でも、近くにいるのは、妻子を疎開させた38歳の隣人(銀行支店長)だけなのです。

戦争がなければあり得なかった、若い娘と既婚者の恋。(いえ、「恋」と呼んではいけないのかも。私の眼にはむしろ「生き物としての本能」のように見えました)


戦争が用意させてしまった環境。

誰もが招集され、動員され、その片方で疎開もせざるを得なくなる、焼夷弾が降り注ぐ東京の街。それでも焼け残った家々では、人はなんとか生きている。いつ死ぬかわからない緊張の中とはいえ、焼けるだけ焼かれてしまい、空襲も暫し途切れた?静けさ、空虚さ。


戦争がどれほど多くのものを、人々から奪ったか。

それは単なるモノだけではなく、自由といった精神的な要素ばかりが強調されるべきでもなく、「何気ない日常」「当たり前と思っていた常識」そんな日々の土台そのものが、どんどん失われていくのです。


この映画は敗戦間近の昭和20年(1945)を描いていて、その頃の東京の「静かな厭戦気分」とでもいうべきものを感じさせます。

戦意高揚の標語をいくら並べようと、「人がいなくなっていく」「満足に食べられなくなっていく」街では、いつまでも元気なフリは出来ない。人間が人間のままではいられなくなりつつある現実を目の前にしているのに… そんな風に語られているような気もします。

 

それでも、というよりだからこそ、「この映画にあの茨城のり子の詩は、相応しくない(特にあのラストのセリフには)」と、わたしは思ったのでしょう。


「わたしが一番きれいだったとき」は、戦争中の若い女性の本音を吐き出しているように見えて、実はとても端正な詩だとも、わたしは思っています。

どろどろとした恨み辛みは言いたくない。背筋を伸ばして、泣き言は言わずに、目の前に広がる現実世界には、まっすぐに対峙して生きていこう。

そんな風な、人間としての「端正さ」を感じるからです。

 

やはり原作小説を読んで、どういう脚色がされているのか確かめようと、図書館から本を借りました。

そして、読んだ結果をまとめて言うと…



高井有一の小説は、茨木のり子の詩に通じるもの(ある種の矜持、美しさかも)を感じさせるものでした。


小説のラストでは、主人公の里子は「これからが闘いだ」といったことよりも、自分を恋人だと(本気の恋なのだと)認めている市毛の苦しみを察して、「今はそれだけでいいではないか」と自分に言い聞かせているように見えます。


姿勢を正し、みっともない真似はすまいと、懸命に自分を支えている若い女性。

それは「わたしが一番きれいだったとき」の「わたし」にどこかで繋がる人のように思えて、そもそも『この国の空』という映画の作り手が創作した主人公里子とは、別人のような気がしました。


映画の作り手は、原作小説よりももっとドロドロとした、「きれいごとじゃない」生身の人間として、19歳の里子を描きたかったんだろう… と、わたしは思いました。

先に「『恋』と呼んではいけないのかも。私の眼にはむしろ「生き物としての本能」のように見えた」と書いたのは、そういう意味です。

そして、それが目的なら、映画はとてもよく出来ていると思いました。



こんなところに疑問を感じて、長々と書き散らしている自分も変わり者だと思いますが…

茨木のり子の詩(僅かしか知らない(^^;)が昔から好きなのに、同じく19歳の里子を演じた二階堂ふみさんの絶妙な演技が、詩と「なぜか齟齬を感じさせる」のが残念で、コンナモノを書いてしまいました。


それでも、2ヵ月近くもアタマのどこかで常に考えてしまうような、わざわざ原作を確かめずには済まないような、そんな「戦闘場面のない戦争映画」の力量を、この作品では見せてもらったと思います。

 

 

(タイトルの日付は7月5日)

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