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富士市を中心の郷土史

昔話、城、寺、歴史。

富士市今泉の昔話(153)根方街道(2)

2015年04月18日 20時45分50秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(153)根方街道(2)

日吉より始まった根方街道は(1)に続き呼び坂を越え、瀬古の善得寺の北縁の鎌倉古道として東に通じている。妙延寺部に既に道はないが、北端に欅の大樹が数本列樹されていたが古道の並木と考えられる。前記したが子供の頃は畑の中に1間ほどの馬力道が土手の如くあり、周辺に礁の如く岩が残っていた。今にして思えば鎌倉古道の道幅を残していたのかもしれない。窯場(善得寺の火葬場と考える)の西で北上の大宮道と交叉し、善得寺用水のタンク部で善得寺御殿よりの道と合流、昔の呼び子坂を経て松原川(昔瀬古川)を写真の如く渡っている。今は飯森神社を含む広い原田公園となっている。
明治の地図とこれに推定の根方街道を実線で記入して見る。





根方街道は社寺が多く、門前を結ぶ道が街道となっている。但しこれは戦国時代までで、南の浮島沼が干して住居が増すにつれて道が南に移動している。現在の街道が社寺を離れた時期は推定が出来ないが、永明寺の山号塔の石碑とある道祖神に嘉永5年とあるがこの時期かもしれない。



旧道は右の細道を十王神社前を通り妙延寺に、妙延寺の北縁を経て旧善得寺の北端を窯場に達している。吹上の旧大宮道との交差では西部の道は無くなっている。東部の道は僅かに窯場に通じている。是から飯森神社の間に善得寺の用水タンクが残されているが、遺跡として大事にしたい物である。呼び子坂を下り松原川を渡る。







松原川を渡った街道は高みに登り、W氏宅を経て三島製紙北の旧道を東進している。





永明寺を離れて、岩山を迂回し北上鑑石園に通じている。現在は岩山は通じ道となっている。以降は次回とする。

一日の晴れに甲斐の桃、霊園の桜を尋ねた。



















富士市今泉の昔話(152)根方街道(1)

2015年04月11日 15時43分28秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(152)根方街道(1)



富士市今泉は富士山の南麓に位置し、東西の道は富士山の影響を受けつつ変化している。

平安古道と呼ばれる道が薩垂峠に在る。浜に沿い富士川の木島で富士川を渡り日吉に至る
古道を私見する。日吉よりは十里木街道として北上したのではないだろうか?昔は十里木
街道は神戸より東に向き、間門に達し、日本武尊の伝説の在る夷城を経て北上、富士山と
愛鷹山の間の谷筋を経て十里木に達していたのではないだろうか?これから先は竹之下
より足柄古道として矢倉沢を越えていた平安古道と思はれる。

803年の富士山の大噴火により平安古道が利用困難となり、箱根の「湯坂道」が開設さ
れ箱根越えが変化している。箱根に至る道として2経路があり、一つは愛鷹山の南麓を通
る「根方街道」であり、もう一つは「浜通り」であるが十里木道も残っていた形跡がある。
三島よりの鎌倉古道に2道があり、北側の古道が十里木道に通ずる気がする。
「浜通り」は「田子の古道」に通じ別に詳記がある。

此処では「根方街道」の変遷を見て見たい。



根方街道は昔の富士川の河畔「日吉」に始まると考える。「日吉」は佳き名であり、こと
の始めの意があり、日吉神社・日枝神社が祀られている。東泉院が修験道の拠点であった
頃地域の主要道が此処を通ていたと考えられる。
日吉で和田川を渡り、北上して東泉院に達する。



古道の東泉院に出た場所であり、右手が東泉院で善得寺城が出来た時は出丸として古道を扼している。左手は虎口と共に本城となっている。



古道は現在は細道として残る程度であるが、更に北上して鎌倉古道に達している。



残されている鎌倉古道で点線の道は既に無い。右が北上の古道である。





十里木道は此処より更に北上するが、この交差点の東に古道を扼して和田義盛の砦があり、此の辺が本丸と伝承されている。



以上が善得寺城時代の根方街道であり、鎌倉古道・甲州街道と合致し家康の今泉往還の出来るまで続いたと考える。

庭に期待の「翁草」「サクラソウ」が花をつけた。大事にしたい。
















富士市今泉の昔花s9(141)善得寺城(再8)

2015年04月03日 08時25分32秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(141)善得寺城(再8)
善得寺城の位置、姿について私見を重ねたが最後の城の推移につき整理して見る。

善得寺城の推移。

応永13年(1416)8月禅秀の乱。
応永14年(1417)範政禅秀の乱平定に功あり、義持より下方の庄を与えられ領す。
           守護大名より変身。
           範政、領地の要として善得寺城築城。
           善得寺の西の荻野原に和田川を濠として前記の梯郭式平城を為す。
           この頃島田の島田義助などの刀鍛冶が移住してきた。
文明7年(1475) 今川内紛調停の功により善得寺城を含む下方12郷が早雲に与えられた。
延徳3年(1489) 早雲伊豆進室により今川領にもどる。
天文4年(1535) 武田信虎駿河侵攻。下方等領す。
天文6年(1537) 2月信虎の長女(於豐)今川義元に嫁し、甲駿同盟なる。
           信虎は娘の化粧料として下方12郷を義元に贈る。
           甲駿同盟に反発、4月北条氏綱駿河侵攻。河東一帯を制圧、善得寺・           善得寺城を焼く。
天文8年(1539) 8月今川氏河東回復。
天文9年(1540) 善得寺瀬古の地に再建、同時に善得寺城改築。武家屋敷を含む惣構を           設け東北条へ備えた。
天文10年(1541)第2次河東一乱の北条の攻撃を今川撃退。
天文14年(1545)8月義元河東回復。善得寺城着陣、兵2万。
           北条・上杉を追い3方輪の誓句。
天文23年(1554)北条駿河侵攻。武田今川応援のため加島に布陣。今川織田と対陣中を           帰陣、善得寺城に入る。
           扱いありて3国会盟の和成る。
永禄3年(1560) 義元戦死。
永禄11年(1568)信玄、家康と今川領の駿河を大井川を境に分割を約す。
           信玄の駿河第1次侵攻。
           北条薩垂峠以東を占拠、善得寺城に大藤左近衛門を置く。
永禄12年(1569)2月信玄駿河第2次侵攻、善得寺・善得寺城を焼く。
           4月信玄甲府へ。
           北条善得寺城などの兵一万六千を配し小田原に帰陣。善得寺城に大藤           左衛門を置く。

元亀元年(1570) 信玄駿河侵攻第3次、第4次。
天正10年(1582)武田氏滅亡。武田領は徳川領となる。
天正18年(1590)北条征伐。7月北条降伏。
           吉原御殿新築。
慶長8年(1603) 家康征夷大将軍となり、江戸開府。
           家康の狩用に瀬古御殿。(善得寺御殿)吉原御殿整備か?
           善得寺城を廃し、日吉より瀬古御殿への今泉往還築造。廃城の堀を埋           めて道路とした。以降、明治に新道が出来るまで今泉のメイン道路と           して使用されて来た。

以上にて善得寺城の再記を終える。

庭に自然の花々が賑やか、「菜の花」がいっぱい、「むらさきけまん」がいっぱい。
「おきなくさ」「やぶれかさ」「むさしあぶみ」「さくらそう」「ちだけさし」「うらしまそう」
等々芽が出てきて嬉しい。






















富士市今泉の昔話(150)善得寺城(再7)

2015年03月28日 17時06分17秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(150)善得寺城(再7)

善得寺の本城の状況案を記してきたが、この状況で北条氏の攻撃を受け善得寺の全焼善
得寺城の落城の河東一乱となった。義元は失地回復後善得寺の再建、善得寺城の改善の
大工事を進めたと思はれる。



強化策として、図に示すように実線の本城に続き北条に対する東への強化に約2丈の崖
と舟久保の窪地を結ぶ鎖線の惣構えを加えたと考える。
今川が大施策を為す時は中央の流れを取り入れて、兵農分離の流れには武家屋敷の新設、
楽市楽座の考えには市場・寺市場の街筋の整備が進められた。
武家屋敷は惣構えの高台に設け、今に名を残している。立小路・向小路・西小路・曽我
小路である。此の高台には善得寺への中島よりの「揚げ水」を分水している。善得寺へ
の水路の途中の飯森神社の西に水タンクを設け、是よりサイフォンで十王子神社のタンク
へ揚水し、タンクより武家屋敷に配水している。武田の上原城のサイフォンの如く当時
としては最新期術だったに違いない。
惣構えは本城の外へ設けた防御線であり、写真の如く1~2丈の崖を結び一つの線とし
その高台に武家屋敷が設けられたと考えられる。
福応寺の南の崖に始まり、船久保の谷に終わっている。

福応寺の南の崖に続く崖で、今は今泉公民館が所在し、昔は小学校があった。



昔小学校、その昔は郷蔵の場所である。



法雲寺の崖で、此の頂が武家屋敷の向小路である。



呼び坂。頂が十王子神社で、右手に慈照寺跡の碑がある。



呼び坂の字地で、頂が十王子神社。何故の大きな崖か不思議だったが要害と理解。



舟久保の谷。2中の校庭に終わっているが、呼び坂の崖とは堀で結ばれていたと推定。



惣構えの中に地図に示す武家屋敷地と推定の小路4所がある。写真は向小路の端より善得寺の坂本を望んでいる。途中左に曽我小路が分かれる。



「常盤万作」の赤花が美しい。蕨も出始めた。



















富士市今泉の昔話(149)善得寺城(再6)

2015年03月21日 10時33分18秒 | 昔話
富士市今泉の昔話(149)善得寺城(再6)

善得寺城の東の要害状況を見る。
福応寺の前の谷に始まる2~3丈の崖より南にガマ(湧水地)との間に崖が続く。
虎口より始まる家康の善得寺御殿への今泉往還は此処を通る。真直ぐの道は北の大空壕と
推定する場所であり、左の杜が愛鷹神社である。写真の左は曲折を経て虎口に通じ、右は
向小路(後に武家屋敷と推定の字名)・市場・田宿・坂本を経て瀬古の善得寺御殿に達
する。






福応寺より下の湧水地へ下りる意楽道(意楽寺があったよりの名前)、左の崖が南に続
いている。野面積みの石垣、露出熔岩を交えた崖、崩落の進んだ崖等と続くが調査保存
が進むことを願っている。







搦め手と考えられる東の道路。小道を挟んで野面積みの石垣が続く。





今年も「かたくり」の花が咲いた。欣喜雀躍である。庭の一所が輝いて見える。
彼岸には咲く「地獄の釜の蓋」(草の名)が小さな紫の花を見せてくれている。